生き残るテレビ番組は

へいひの(濱田岳)がビッグサーモンを釣りに行ってたんですよ。

 

何事かといえば、「濱田岳が挑む!憧れのビッグサーモン~カナダ釣り紀行~」という番組のこと。「THE フィッシング」という長年放送されている釣り番組の35周年特別番組として放送されたのだ。まあこれが年明けに放送されたドラマ「釣りバカ日誌」の番宣を兼ねていることは言うまでもないのですが、それにしてもなかなかヌルい番組でした。

 

自分は正直なところ釣りには興味がない。やったことないし。だから「釣り番組」としての真っ当な評価をすることは難しい。ただ「釣り番組として面白い」かは分からないが、「テレビ番組として面白い」かと言われれば「完全にへいひのマニア向け」という評価を下すしかない。詰まるところ「誰が見るんだこの番組」という評価。まあこれを書いている時点で「誰」には「自分」があてはまっているのですが。

 

へいひのは年に1回、なぜかよく分からないがゴリラとふれあったり、ゾウとふれあったりという機会に恵まれる(どちらも特番として放送)。だから今回も「へいひの大自然ふれあいシリーズ」だと思っていたら、思いのほか釣り成分が強くて面喰ってしまった。もう本当に番組の感想としては「へいひのがサーモン釣ってご満悦、誰が楽しい」しかない。

 

まだ「釣りバカ」のSPも見てないので、これ以上この話は広がりようがないのだけど、思わぬところからこの話を展開してみる。

 

「新春テレビ放談2019」を今年も死んだ目で見ていたわけです。同じ日本の地上波のテレビを見ているはずの人たちなのに、なんか違う世界のテレビの話を聞いているようだったのが印象的。あれなぜなんですかね。テレビ好きなんだけど疎外感ありまくりでした。

 

まあ細かいことは気が向いたら書くこととして、今回は「出演者おすすめのテレビ番組」に話を続けたい。

 

出演者の2018面白かった番組として挙げられていたのが「かたせ梨乃が進駐軍の前で踊り狂った時代…とマツコ」や「ハイパーハードボイルドグルメリポート」、「99人の壁」など。いずれの番組も自分は見たのだけど、その推しポイントとして「今のテレビ番組でここまで出来るのは凄い」というもの(99人の壁は該当しない)。確かに「マツコ」のほうは飛田新地の料亭にカメラが入っていたし、「ハイパー」のほうは放送されるものが全てぶっ飛んでいる。確かにこれは「攻めたテレビ」だろう。

 

また、「ワイドナショー」で松本人志は「水曜日のダウンタウン」を「いまスピード違反をしている唯一の番組」として、ルールスレスレ(あるいはアウト)の中で戦っている番組だと表現した。新年になったこともあり、ネットの番組がどんどん台頭していく中で、テレビとネットの在り方から「面白いテレビ番組とは」という話を偶然であるが立て続けに見た気がする。

 

もちろん自分もこれらの番組は面白いと思うし、元気がなく規制で縛られているテレビ番組において戦っている番組だと思う。そこに異論はない。ただ、自分は「最終的に生き残るテレビ番組は、実際こういう番組なのだろうか」とちょっとだけ違和感を覚えたのだ。

 

地上波で面白い番組は、ネットで放送しても面白い。当たり前の話だ。「テレビ放談」で前田裕二(石原さとみの彼氏かどうか審議中)が「今後テレビは視聴者から直接お金がもらえる仕組みを構築していくことになる」と語っていた。となれば、ネットと同じように直接課金するのが一番手っ取り早いわけで、テレビ局が作った番組をネットで課金して収入を得る、というスタイルに変わっていくことは充分に考えられる。だから面白い番組はネットへ全て流れていく、なんてことがあるんじゃないか。もちろん自分はそんなことを望んではいないが、そうなることは有りうるだろう。

 

じゃあそうなった場合、地上波に残る番組は何か。それは「誰が見るんだこんな番組」じゃないのか。今回の「へいひのビッグサーモンを釣る」は、自分のような物好きが不埒な目的でうっかり見てしまうことはあるけど、ネットで一部の釣りマニアが課金して見るまでの番組ではなかろう。となれば、居場所は地上波ど真ん中じゃないか。誰が見るかよく分からん番組が誰に見られているかよく分からないけど地上波にあふれる。それは一見地獄のようでもあるが、もしかしたら物凄く面白い現象かもしれない。地上波で生き残る番組は「面白い番組」ではなく、「最大公約数的でもない、地上波じゃなければ誰が見るかよく分からない番組」なのかもしれない。だから何だと言われても困るんだけど。

 

 

まともがわからない

吉岡里帆悲痛…実弟が花田優一に弟子入りも悪夢の日々で退職」

 

こんなタイトルの記事がヤフーニュースで目に飛び込んできたとき、自分はしばらくニヤニヤが止まらなかった。2019が始まってまだ1週間も経っていないが、これはもう今年の面白ニュース暫定1位である。

 

まあ記事を読まなくても大体の内容がタイトルに集約されているけども、一応簡単に説明。フレンチレストランのシェフ修行をしていた吉岡里帆の実の弟が、何を思ったか「中途半端靴職人」こと花田優一に弟子入り志願。姉の紹介を通じて弟子になるも、ろくすっぽ靴を作らない優一のクレーム処理ばっかりやらされた吉岡弟はたった3か月で職人になることを断念。というだけのもの。

 

もうどこから突っ込んでいいのかわからないくらいのネタだ。そもそもの話ではあるが、花田優一は元貴乃花親方こと花田光司の息子。元貴乃花親方の「社会に適応できない感じ」は今に始まったことではない。悪く言えば社会不適合だが、よく言えば頑固。しかしなにより「大横綱」という実績があるわけで、その点で彼は擁護されるべき部分は多い。個人的にはあんまりそうは思わないけど。

 

しかし息子の優一はどうだろう。たかだか2、3年海外に行って靴作りを学んできていっちょまえに靴職人を名乗る。それ自体は悪いことではない。やる気のある職人であればそういう人もいるだろう。修業期間の長短がイコール腕というわけでもないだろうし。ただ、注文殺到という評判のふたを開けてみれば「間に合わない」「タレント気取りで注文そっちのけ」「そもそも靴作ってない」という、おおよそ職人を名乗るのにはおこがましい惨状しか出てこない。自分勝手な離婚はする。言い訳だけは一丁前にワイドショーに生出演で行う。そういうところだけ父親に似ている。分かりやすく苦手だ。


今までの話を一言でまとめると「実績のない社会不適合なやつ」であり、そういう人間を自分は「どうしようもない人」と呼ぶ。だからこの話の登場人物で一番「どうかしてる」のは花田優一なのは、なんとなく全員が気づいている。


だが残念なことにこの話はそれで済まない。なぜなら「登場人物がみんな何かしらどうかしている」からだ。完全にこの記事では被害者ぶっている吉岡里帆の弟だが、こいつも大概だ。なぜなら「東京で活躍しているという理由でもって、前職(シェフ)とは完全に畑違いであるにも関わらず、かなり胡散臭い花田優一の弟子になった」からだ。これ、結構ポイント高い「どうかしている」でしょう。「今まで靴作りに興味があった」だとか、あるいは花田優一の「靴づくりの姿勢に共感して」ではなく、「東京で活躍している花田に触発され、自分も東京で一旗上げたいと思った」から。完全に山師の発想。靴そのものはどうでもよく、単に有名になりたい、チヤホヤされたいという発想。この発想なら、たとえそれがどんな修行先であっても、そう長くは続かないだろうよ。ただまあ若者にはよくある発想ですから、ここを大きく責めるのはかわいそう。

 

しかし、その手段として「花田優一に弟子入り志願する」という「見る目のなさ」が輪をかけてどうかしている。これも「若さ」だとして仕方ないと考えることも可能だ。けど花田優一23歳に対して吉岡弟25歳。いやいやいや。今まで何見て生きてきたんだ25歳。これだったら与沢翼に弟子入りして秒速で1億稼ごうとしたほうがまだマシ。もちろん最底辺のドブ界での話でだけど。どうしようもない年下に憧れる若者。いやあ、しびれる。ハナっから靴職人の修行なんかさせてもらえるわけもなく(そもそも弟子をとるようなキャリアでもないわけだし)クレーム処理に嫌気がさしてやめてしまったのも悲しい。もちろん花田優一のクレーム処理がまっぴらごめんというのは共通意見だけども、その程度の覚悟と見識で弟子入りしたんだから、まあ相応しい仕事内容だったのではないかとすら思える。

 

まだ続きがある。もちろん「吉岡里帆」もどうかしているのだ。簡単に弟をあんな胡散臭い人間に紹介しちゃダメだろうよ。まあこれは完全なる偏見ではあるが、吉岡里帆自体が胡散臭い人間にたくさん紹介されてそうなので、なんだかもう胡散臭いかそうでないかが判断ついてないんじゃないのか。泣いている場合ではない。泣きたいのは、全部ひっくるめて吉岡の親だ。

 

最後に、この記事の凄いところであるが、登場する人物が誰一人として得をしていないこと。自分のような心底意地の悪い人間がニヤニヤするだけ。なんのために週刊女性はこんな記事を書いたのだろうか。たぶん週刊女性に自分と同じタイプの人間がひとりいるというだけの話か。しっかし徹頭徹尾まともなところがないというホラー。ホラーも過ぎれば喜劇でしかない。

 

 

 

金髪風野郎

「MUSIC☆HERO」つう音楽番組の特番が放送されていました。

 

石原さとみとクリエイターの箭内道彦が司会で、旬のミュージシャンであるあいみょん岡崎体育の紹介とライブという、まあ音楽番組としてはオーソドックスな内容。

 

だから番組に関して特に述べるべきことはないのですが(強いて言えば「あいみょん思ったより乳でかい」という「いますぐキンタマ腫れろ」と言われても仕方ない感想があるにはあったけど)、述べておきたいのは箭内道彦

 

自分の基本スタンスとして、箭内道彦は好きじゃない。これはもうどうしようもない事実です。だからこの後随所随所で「好きじゃない」が漏れていたら素直に「ごめんなさい」という案件です。だから箭内道彦大好きっ子の人はこの後読まないほうがいいと思う。まあそんな人いるとは思わないんですけども(もう漏れてる)。

 

さて自分は箭内のどんなところが好きじゃないのか。その説明をするにあたり好例が今回の番組のオープニングで登場した。石原さとみが音楽番組のMCをやるにあたり、箭内から「石原さとみはどんな音楽を聴いてきたのか」という質問。「年齢によって聴いてきた音楽が全く違う」と答える石原。さらに箭内の「歌詞は書いたことがあるか」という質問に対し「物とか物質に乗せた感情を文字化していた」と答える石原。ここまではまあいい。

 

問題はここから。その答えを受けて箭内「そういう石原さとみだから一緒に(MCを)やりたかった」と言う箭内。ウソつけよ。可愛いからに決まってるじゃねえか。たとえ本人が否定しても、断言する。ウーソーだーねー(ゲスニックマガジン西条風に)。そもそもどういう石原さとみなんだよ。そこを説明しろよ。

 

こういう「なんかついている本人以外には全くもってどうでもいいウソ」をしたり顔で言うあたりが好きじゃないのだ。「こういうのをクリエイターって呼ぶんだよ」と言われればそれまでなんだけど、自分はこういう人種がやっぱりダメなのだ。そこはもう好みの問題であり、そういうのがたまらなく好きな人もいるんだから困る。

 

もう一つ自分が分かりやすく好きじゃないのが「いい歳こいて金髪」という点。芸能人には「いい歳こいて金髪」がそれなりにいるので、全員好きじゃないというわけではないんだけど、基本的には苦手。だってなんでいい歳こいて日本人で金髪の必要があるのか、という至極単純な理由。いい歳こいて金髪で自己主張とかどうなのよ、という全くもって非エグザイル的な主張。まあエグザイル一族そんなに金髪多くないけど。何言ってるか分からない人はこっち参照。

人類をふたつに分けると - 投げヤリズム

 

それはともかく「クリエイターの自分は金髪でなければならない」的な感じでもって長年金髪の箭内。基本的にはもう「好きじゃない」を通り越して「嫌い」と言いたいところだ。しかし自分はすんでのところで箭内を嫌いになれない。それはなぜか。

 

金髪のせいかあからさまにハゲてきているのに、ちゃんとデコは出しているから。

 

「ハゲは前髪でごまかす」。紀元前から孔子論語でそのあさましさを説いている(嘘です)。とかく生え際を見られまいとして、前髪をこれでもかといじるのは最後の聖戦ならぬ最後の抵抗だ。

 

これで箭内が前髪をこれでもかといじくり倒して金髪にはするけどハゲはごまかす、というスタンスなら自分はバニラの宣伝車に乗って「やーない、やない、抵抗中」とススキノあたりを喧伝したいところだ。しかし箭内は前髪を思いっきり上げて「ハゲてるんじゃなくてデコが広いだけだよ」とアピールしているかのようだ。自ら晒すことで予防線を張っているようにも思うが、それでも自分は潔さを買いたい。すんでのところで憎めない。

 

 

しかしそんな風にちょっと褒めたことを書いているうちにある疑念が沸き上がってきた。それは「箭内道彦所ジョージに寄せているのではないか」ということ。そういやこの番組の箭内は金髪サングラスにラメのジャージ上下。ラフな格好だけど個性的、つう感じ。これでスカジャンでも着ようもんなら、ほぼ所さん。金髪デコ出しスタイルも完全に所さんだ。これはかなりキナ臭い。

 

クリエイターの目指すゴールが所さん。それは趣味と仕事の境目が分からないという究極の生き方。なかなか到達できるゴールではない。所さんのあの出で立ちも究極の生き方をしているという所に免罪符がある。到達していないその手前でのあの姿は「いい歳こいて…」の究極形のようにも思う。箭内はゴールしていると言っていいのか。少なくとも成功者ではあるので断言は難しいんだけど、所さんまで振りきれているわけでもないように思う。けど自分が「好きじゃない」と思ってしまうあたり、自分の中では「違う」んだろうな。

 

色々考えたけど、最終的には「やっぱあんま好きじゃないから、どっちでもいいや」である。結論が出ないものは無理に出さない。

 

人情か、人間味か

下町ロケット」のスペシャルというか最終話。

 

最後まで見終わって残るのは爽快感ではなく残尿感でした。別に自分の老いを公表しているわけではなく、あれ見終わって何を思ったかといえば「分かりやすい、そして煮え切らない」というがっかりでした。

 

日曜劇場の池井戸潤シリーズは「逆境こそがチャンスだぜ」とピンキージョーンズばりに次々と襲い来る過剰な逆境を克服して深まる絆、そして分かりやすい勧善懲悪で、

「平成の水戸黄門」の名をほしいままにしています。まあ水戸黄門平成も放送してましたけど。それはともかく、分かり易い勧善懲悪ならそれはそれで「まあドラマだしなあ」と思うわけです。そのためには悪役はずっと悪役であってほしいし、しっかり倒されてほしいと思うわけです。水戸黄門で悪代官が更生する話ってあるんだろうか。

 

今回の悪役はギアゴーストの社長伊丹(尾上菊之助)でした。途中まで散々佃製作所の世話になっておきながら、復讐のためにあっさり裏切る。あっさり裏切るところまでは別にいいと思うのです。悪役ですから。しかし最後に都合のいいこと言って助けられてしまう。もちろん話の流れとしてそうなったほうが美しいしハッピーエンドなのですが、それってどうなのと思うのは自分の性格に難があるのだろうか。

 

また、殿村(立川談春)と対立していた農家稲本(To Be Continued)の泣き言に応えて畑の稲全部刈るのも笑ってしまった。いやわかる。分かる分かるよ農家の気持ち(ウエンツ瑛士)。殿村の父親(山本學)が「あいつを助けると思ってなかった」と劇中で述べていたが、それは視聴者全員そう思ったんじゃないのか。稲本都合良すぎるだろ。こういう奴いるけどさ。

 

基本勧善懲悪であり、最終的にハッピーエンドになるのはいい。しかしそのハッピーエンドを強調するために、今まで敵対していた人間に簡単に手を差し伸べる展開はさすがにどうなのか。しかも「悪」を強調するために、出てくる悪役が揃いも揃って畜生じゃないですか。もしこんなに畜生でなければ(単にちょっとイヤなこと言われた、とかなら)、助ける気持ちも分かるんだけども、そうでもない結構な畜生をそんなに簡単に助けるのは、なんか残尿感がある。「人情」の名のもとそこまでされると逆に「人間味」がない。それって本末転倒のような気もするのだけど。

 

別にしっかり懲らしめられろ、とは思わない。けど、必要以上に赦されるのはなんか痒い。続編があるとするなら、たぶん伊丹はまた裏切るし、稲本は平気でトラクター蹴るよ。でもまた赦されちゃうんだね。無限ループ!(粗品風に)

 

 

笑う阿呆に怒る阿呆

ただの山根元会長の話です。

 

年末年始のバラエティに山根明元ボクシング連盟会長がたくさん出ていました。おそらくこれからも出てくるんだと思います。もちろん全て見たわけではありませんが、自分が見かけた山根元会長とそれに関して何か書いてみます。

 

山根元会長といえば「奈良判定」で一躍有名となった人物。分かりやすく「権力を振りかざす人」であり、テレビ的には「これぞ悪の権化」という形で非常にありがたい存在だった。

 

自分ももう少し若ければ、この分かりやすく悪い人に「いやあ悪いよねえ」と言うところなんだけど、残念ながらそこまで若くないので「どうせこの流れでそのうちバラエティに呼ぶんだろ」と思っていた。そして事実そうなっている。先読み自慢ではない。そりゃそうなる、というだけの話だ。

 

世の中は「分かりやすい」を求めている。それは「分かりやすいと分かった気になりやすい」からだ。山根元会長は分かりやすく悪い。悪いのは批判してよい。批判しても自分は悪くならない。だからワイドショーは分かりやすく叩く。もちろん叩かれて仕方ない部分はあったろう。しかし我々はその背景に何があるかを見ようとせずに「悪い」という。もううんざりだ。suchmosくらいうんざりだ。*1そりゃ紅白で「臭くて汚いライブハウスから来た」と言いたくもなる。

 

それはともかく、あれだけ怒りに怒りまくっていたマスコミが、今は山根元会長で笑いを取ろうとしている。最初に自分がバラエティで見た山根元会長は「あらびき団」だった。山根元会長に対して「奥歯ガタガタ言わせ節」でお馴染み(お馴染み?)のふーみんが一喝されて終わるという衝撃映像。これは腹抱えて笑った。フジのお笑い番組「連笑」では「笑わない人」として登場。実際一回も笑わなかった。ハリウッドザコシショウの怒涛の攻勢にも関わらず笑わなかったのは普通に凄い。ただの頑固ジジイなだけだろうが。

 

これに対して「マスコミは本当に節操がない。結局数字が取れればいいのかよ」という批判が出るのは、まあ仕方ないだろう。事実その通りだし。しかし自分はもはや「この批判が出てくるところまでワンセット」とすら思ってしまう。仕方ないよなあ、だって面白いんだもん。「山根元会長が悪い!」と真剣に思っていたのは、所詮ボクシング協会の中の人たちだけで、マスコミを含めた外側の人間は「他人事」なんだもん。

 

その「他人事」の括りの中で、それを最大限に茶化して楽しむのか、自分に都合のいい中途半端な正義と怒りで「自分の」溜飲を下げるのか、の違いだけでしかない。まあ溜飲下げると気持ちいいもんなあ。仕方ないよな。けどその「仕方なさ」は山根会長で笑っていることと同じくらいの価値しかないんだよなあ。

 

以前の自分なら「そっちのほうがしょうもないわ」と、正義ぶっている人間を下に見たんだろう。けどそれは、今述べたように「中途半端な正義と怒り」でしかないわけで、そんなもんやっぱり同類でしかない。だから下げることはしない。下げることはしないけど、等しく「しょうもない」とは思う。どっちもしょうもないんだよ。だったら山根元会長で笑っていたほうが、人生としては楽しい。そういう結論。

 

*1:suchmosの曲「STAY TUNE」の歌詞にそういうくだりがある

さよなら2018年

2018年を締めくくるにあたり、やっぱり有安さんのことはもう一回書いておきたいと思っていたわけです。

 

有安さんとは「ももいろクローバーZ」の元メンバーであり、現在は一般人として生活されている方。有安杏果。とはいってもtwitterinstagramは頻繁に顔出しで更新しており、純粋な一般人というわけではないと思うので、まあ述懐するくらいはいいだろうと勝手に思う。

 

有安さんがももクロ脱退を表明したのが今年の1月15日。まだ今年の話題だったか、と思うと同時に、もう1年も経ったか、という気持ちもある。先日ライブビューイングで見た「ももクリ2018」(ももクロちゃんのクリスマスライブ)では「すっかり4人で違和感のないももいろクローバーZ」としてライブを行っていた。自分も純粋に楽しかった。曲を聴けば「ああここは有安さんが歌っていたなあ」とかは思うんだけど、ライブで楽しむぶんにはすっかり4人のももクロ。元推しとしては薄情なもんだなあとは思う。

 

自分は脱退が発表され、その1週間後にそのまま脱退してしまった有安さんに対して「納得できない」という気持ちをずっと引きずっていた。喪失感は大きかった。しかしまあ本人が選んだ道であり、これ以上どうすることも出来ない現状を考えれば「納得できないことを高らかに表明しつつも見守る」という選択肢が最良なのだと思い、その気持ちをブログに書き殴った。有り難いことに賛同もいただいた。

 

事態が動いたのが3月15日。有安さんの誕生日であることは百も承知だったのだけども、どうやらtwitterinstagramが動き出したという情報が入ってきた。あんな唐突な脱退劇で「芸能活動を一回離れたい」と述べていた有安さんが、自分の誕生日というメモリアルデイであるとはいえ、今後の活動を見据えたかのようにこんなに早くまた姿を現すとは思っていなかったので、やはり動揺した。素直に喜ぶ気持ちにはなれなかった。普通にももクロちゃんたちにも失礼だと思った。詳細は当該記事

仁義なき再会 - 投げヤリズム

に譲るが、当時の自分にはあまり理解できないものであった。正直な自分の気持ちを書いたのだけども、なんか気分を害された有安さん推しが少なからずいたようだ。まあ仕方ないだろう。受け止め方は人それぞれだから。

 

それはともかく、SNS開設後の有安さんは日々「女子的」な活動を勤しんではSNSに投稿するという毎日を送っている。もちろんそれは「目に見える部分」の活動であり、他に何をしているかは知る由もない。紛れもなく一般人である。生まれてこの方ずーっと「芸能人」だった有安さんが、このような生活に憧れを抱き、そしてこの1年実行していることは、彼女が脱退時に語った内容そのものであり、それを全うしていることは、いい意味で「ファンに対して誠実」なのかもしれない。

 

では、彼女は2019年に歌うのだろうか。そして自分はそれを楽しむことが出来るのだろうか。

 

 

 

30日の昼、ブログの移転を済ませ、ここまで書いて自分の手は止まりました。もちろんこの「自問自答」の答えは確実に自分の中にあり、そしてそれを書いて2019年はどうだろう、ということを書こうと思っていたわけです。

 

しかし、それが出来なかった。

 

もちろん書こうと思えばそれは書ける話。ただ、それを書いたところで自分には何か来年に対する希望とか期待とか、そういうものを見いだせるまでのものではなかった。これを自分のブログで発表することに何の意味があるのか。いやもちろんどんな文章を書いたところでそこに意味なんか存在しやしないのだけど、自分が書きたいことがちゃんと書けていないと思えてしまったのだ。それは有安さんにも失礼な話だと思った。

 

そんな中、有安さんは年内最後のSNSを更新した。そこには年内一切触れてこなかったももクロに対する感謝が述べられていた。

 

その一言を自分はどれだけ待ったのだろう。

 

もちろん「色々な事情」があるんだろう。しかし有安さんは脱退以降、あまりに語らなさすぎた。そして語らないことが何かを語ってしまっていた。そう受け取っていたのは自分だけかもしれない。自分は穿った見方しか出来ない人間だ。もちろんそんな人間に合わせる必要はない。だからこれは自分の独り相撲だ。分かっている。しかし、この一言が、たった数行、ももクロと彼女を繋ぐこの一言があれば、自分は2019年に進める。間違いなく、救われた。

 

有安さんはスタンスとして、一切触れないでおくこともできたはずだ。触れることが彼女を過去に繋ぎとめると考えるのであればなおさらだ。しかし彼女は書いた。いい意味で、彼女は2018年とももクロに「別れ」を告げたのだ。時間が経ったことで期するものがあったのかもしれない。今の自分は有安さんのこの「別れ」を最大限の肯定で迎えたい。あれから1年、そして9か月、自分はようやくこの言葉が言える。ありがとう。

 

2018年という1年を振り返ったとき、自分はずっと有安さんの幻影に囚われていたのだと思う。しかし有安さん本人がその呪縛を断ち切ってくれた。ここで前述の自問に答えるならば、2019年、彼女は歌うのだろう。歌わないなんてことがあるか。有安さんは「一般人としての生活」が今年は必要だったはずだ。しかし、2019年は歌う人になる。なってくれなければ。

 

自分の2019年はどうだろう。もっと文章を書きたい。

 

さよなら平成

ブログを引っ越しました。もはやこのブログの歴史なんて自分しか知らないでしょうが、引っ越しついでにちょっと書いてみたいと思います。

 

 

そもそもは大学の課題で「何でもいいからwebページ作りなさい」ってのがあって、そこでつけたタイトルが「投げヤリズム」でした。今やミュージカルスターとしての地位を確立しているソニンさんが「EE JUMP」として活動していた頃、同じグループで活動していたのが、当時トップアイドルだった後藤真希さんの弟ユウキでした。鉄線泥棒の前科持ちとして告白本とか出している人ですけども、当時から素行はバリバリに悪く、1stアルバムが出る前に逃走したりして、活動休止を余儀なくされたソニンさんがソロ活動として裸エプロンとかしていたわけです。活動復帰後に出したシングルが「イキナリズム!」という曲。自分はいまだに聴いたりします。

 

しかしユウキ氏がまた素行不良を理由にクビになり、EE JUMPの活動も立ち行かなくなりました。それを当時大学生の自分は「投げやりにもなるわなソニン」と思っていたわけで、そんな気持ちを込めて「投げヤリズム」と名付けました。至極どうでもいいですね。

 

大学の課題は可もなく不可もなく終わったわけですが、せっかく作ったページなので「じゃあ続けて何かやってみるか」と思ったわけです。当時はずっと日記をつけていたこともあり(これは猿岩石日記の影響)、文章を書くことに抵抗はありませんでした。そこでヒマだからテレビのことを書こうと思ったわけです。

 

当時はwebテキストサイトが勃興していた時期であり、自分も「侍魂」さんなど色々影響を受けました。「テレビのことを書く」という意味では、今でもお世話になっている「テレビの土踏まず」ピエールさんの存在は欠かせません。そして言わずもがなナンシー関の存在。ナンシー関が亡くなってから16年経ちますが、未だにナンシー待望論があるのは、ナンシーの偉大さを感じるとともに、ちょっと情けない気もします。まあ自分も含めた「一億総自分の意見をwebで言える時代」には、ナンシーのような確固たる批評家というのは登場しないのかもしれません。まあそれはいいや。

 

というわけで大学の課題で始めた「投げヤリズム」ですが、大学のサーバーからinfoseekに場所を移し、大学生のヒマに任せてほぼ毎日のように更新しました。テレビ見て言いたい放題(今より相当に酷い)ですから、まあ気楽なもんでした。その一方でアクセス解析も一緒にやってみると、ちょっとずつ読まれている数が増えていくことも分かり、少しいい気になってました。まあ何に対していい気になっているかは謎なんですけども。一番アクセスカウンターが回転していたのがinfoseek引っ越し直前くらいです。もう10年も前の話です。そう考えると未だにわずかながら読んでくれる方がいるというのは不思議なもんです。

 

 長い間無駄に続けていると、「おっ」と思うことが何度かありました。某有名人らしき方からメールを頂いたり(未だに真偽は不明ですけど)、某雑誌にドラマレビューの依頼を頂いたり、某雑誌にブログを紹介して頂いたり。なんか他にも数々あるような書き方をしていますが、これくらいでした。大したことないですね。

 

2回目の引っ越しは「はてなダイアリー」への引っ越しでした。「終了宣言」とか言ってブログの引っ越しをするのはベタすぎる手段でしたが、こんなしょぼいサイトですら「止めてしまうのは悲しいです」などのコメントを頂いて、うっすら悪いことしたなあとは思いました。今頃ゆずもそう思っているはずです。はてなダイアリー引っ越し後は曲りなりにも社会人となり(今でもその自覚は著しく低いですが)、更新頻度も分かりやすく減ってしまいました。数年後には「そんなもん絶対やるかよ」と思っていたtwitterが手軽なこともあって、そちらも併用で呟くことが多くなりましたが、可能な限りはブログである程度長ったらしい文章書きたいなあという気持ちはいまだにあります。

 

そして今回「はてなダイアリー」のサービスが終了するということもあり、また平成が終わるということもあり、この機会にみたびの引っ越しとなります。まあ今の更新ペースと更新内容では「もう閉じてもいい」とは思うのですが、自分としては無意識に続けていることなので「なければないで困る」という感じもするわけです。だからまあ、細々とテレビについて、自分の思ったことについて書いておこうと思っております。元号が変わってもよろしければお付き合いください。