ニュースター

「M-1グランプリ2018」の感想をただ書きなぐっておきます。

敗者復活戦

ウエストランド

よかったと思うんだけどなあ。

ダンビラムーチョ

おじさんの設定がもう半回転進化したら凄い。

さらば青春の光

さすがだよ。

ミキ

漫才の勢いとともにタレントとしての勢いを感じる。勝ち抜け。

たくろう

面白かった。ただ漫才に展開があればもっと凄い。

からし蓮根

来年あたりは決勝来るんじゃないかなと。

アキナ

貫禄。

金属バット

突き詰めてほしい。

マユリカ

これからよ。

東京ホテイソン

あんま代わり映えしなかったかなあ去年と。

侍スライス

荒削りでした。

ニッポンの社長

ワード漫才は今やるならあと2捻りくらい必要なのかも。

三四郎

ネタに現役感がなかったような気がする。

プラス・マイナス

渾身だったけどなあ。惜しい。

インディアンス

ひょうきん。


決勝

見取り図

女性の紹介。本筋を進めつつも架空の人物を入れ込むことで違和感を植え付けておいて後程突っ込んで回収するのは少しミエミエだったかなあと。「アタオカ」は去年もやってたけど、うーん定着するのかなあ。とはいえトップバッターでありながら笑いも多く、面白いところは見せつけてくれました。

スーパーマラドーナ

ヤバい人。田中がナチュラルにヤバくて自分は大好き。確かに大会向きのネタではなかったのかもしれないけど、ネタ後の武智が「これが一番のネタでした」と言い切ったところに無念さと清々しさを同時に感じたよ。

かまいたち

ポイントカード。しゃべくり漫才を意図的にぶつけてきた感じ。コントも出来る彼らがしゃべくり漫才をやる必然性はないんだけど、そこにこだわりを込めて戦いを挑んできた野心が見え隠れしているような気がしてしまったんだよなあ。

ジャルジャル

国名分けっこ。もうここまで来るとジャルジャルには頭が下がる。あくまで漫才の本道からはズレているんだけど、それをジャルジャルがやり続けることで「ジャルジャルの漫才」になっているから凄い。テレビ的にもっと評価されていいコンビだよなあ。

ギャロップ

合コン。審査員にも指摘されていたけど、4分で見るネタじゃないよなあ。10分くらい見ているともう笑いっぱなしの状態になるような感じだけに、やっぱり惜しい。あと上沼恵美子の「自虐はダメ」ってことはないと思った。

ゆにばーす

遊園地。去年のような爆発するポイントが出てこなかったのが悔やまれる。川瀬名人は今年も引退を回避できたのでよかったんじゃないかなあ。という感想しか出ない。

ミキ

ジャニーズ。志らくや巨人も指摘していたが、ここにきて昨年の大吉先生の「シャープなネタ」の意味が分かってきた。設定がベタすぎると分かりやすいけど数を見ているとやっぱりちょっと飽きる。特に今年はテレビでもミキの露出が多かったわけで、そこらへんのところもあるのかなあと。

トム・ブラウン

合体。いやあこれは頭おかしい奴ですよね。素晴らしい。自分はどうしてもお笑いにこういうぶっ飛んだ発想を求めてしまうんだな。2本目見たかったなあ。

霜降り明星

豪華客船。ひとつひとつのボケが数珠つなぎのように勢いよく展開。正統派の「しゃべくり漫才」ではないのだけど、ひとつひとつの破壊力が素晴らしく若さに溢れていて、M1ってこういう大会だったよなあと思い出させてくれた。

和牛

ゾンビ。まさに漫才のアーティスト。「殺す」というワードから序盤で不穏な空気を出しておいて、後半できっちり全てを笑いに転化していくところまで全て計算尽くなのだろう。優勝できない、してないのが不思議なくらいよ。


最終決戦

ジャルジャル

ポーズ。貫いたなあ。

和牛

オレオレ詐欺。これも素晴らしいネタ。最後のにらみ合いだけで笑わせるのは圧巻。いやあ本当に優勝してないのが不思議だ。

霜降り明星

学校。1本目の破壊力がえげつなかった余韻を増幅させる出来。瞬間最大風速の違いだったかなあ。


優勝は霜降り明星。今回決勝進出者が発表されたときに「安定感はあるけど、本来M-1が目指していた若いスターが出てくる大会じゃないのかなあ」と思った。しかし一番若い霜降り明星が優勝したことで、その自分の考えを全て吹っ飛ばしてくれた。もちろん芸歴が10年を超えた中堅が売れる足掛かりになるのを見るのも、それはそれで感動があるのだけども、今回のように「若手がスターダムの座をさらっていく」のがやはりM-1の本来なのかなあと感じた。


今年は例年に増して審査員のコメントをしっかり聞いており、そのどれもが的確すぎて、審査に異論を差し挟む余地なんかなかったように思う。個人的な事情として「録画を見る前に優勝者をバラされた」ことを除けば、何の文句もない大会だったと思います。新しいスターが出るのはやっぱり、いい。

紙一重

「ロンドンハーツ」のナダルドッキリを見て「うーむ」と思った話。


「ロンドンハーツ」のドッキリに関して自分は全幅の信頼を置いていて、田村淳という人の悪魔的な追い込み方が為せる芸術だとすら思う。言い過ぎだけど。ただまあそのくらい褒めても構わないくらいロンドンハーツ班のドッキリの構成は優れている。


ドッキリの大オチは素晴らしいのはもちろんだが、何より素晴らしいのはその大オチに持っていくための小さな積み重ね。そしてその積み重ねを行うための細かい気配り。全体としての絶妙なバランス。どの全てが欠けてもあんな芸術的なドッキリにならない。


今回の放送でいけば「ドッキリ」というカテゴリで話していいのかはよく分からないくらいに渡辺直美ノブコブ吉村のドッキリは面白かった。まあこれに関してはロンハー感は薄く、なんだか昔の「Qさま」ドッキリを見ているようだったけども。とにかく面白いものは見れた。


しかしその後に放送されたコロチキ・ナダルの「コンプライアンスドッキリ」はどうだったかといえば、自分は「うーん……」という感想を絞り出すのがやっとだった。理由を書いてみる。


ひとつは「今回はドッキリであったが、ナダルが今後同じようなことを普通にやりそうだ」ということ。そしてそれは笑い飛ばして「面白かったねー」では到底済まされる話ではないこと。簡単に言えば、ネタバラシがオチになってない。今回はドッキリで済んでよかったね、なのかもしれないけど、あんな様子だったら今後も同じことを絶対に、やる。そして自分がそういう類の関係者でテレビを見ていたら、確実に狙う。これはもうドッキリでも何でもない。ただの「カモ紹介」である。これ、実際に自分と同じことを考える人間がいて実行に移した場合、ロンハー側はどう対処するつもりなのか。ほっかむりするのだろうか。また、ナダルが「またドッキリだろう」と思って同じような事態に飛び込んで行ったらどうなるか。あれだけ優秀なロンドンハーツ班がそんなことに考えが及んでいないのか。であればちょっと怖い。


例えば同じ筋書でも、「いつの間にか巻き込まれて結果コンプライアンス違反になってしまって焦る」であればまだしも、自ら積極的に飛び込んで行ったナダルはもう、これがドッキリだとしても普通にアウトなんじゃないのか。放送していいものなのか。もはや自分はそれすら判断がつかない。


また、「ドッキリクラウドファンディング」もあんまり筋が良くない。カンニング竹山FUJIWARA藤本、ロンブー亮から「出資」と称してブランド品や現金を徴収するというもの。ナダルドッキリの小道具にブランド品を使用したり、また徴収した現金を多用したりと、ここもドッキリの脇役として組み込まれていたのだ。


もちろん上記の3人は売れっ子のプロ芸人であるから、このくらいの対応は屁でもない。本人たちも了承の上だから当事者間で問題は全然ないのは自分も分かる。しかし、それを俯瞰で見た場合はただの「カツアゲ」である。「こういうもの」と分かっている人間はいいが、これを見た多くの人間が「ちょっと酷くないか」とならないか。特に良くなかったのは竹山は奥さんとのペアで購入した時計、藤本は嫁からのプレゼントと、「家族に関わっているもの」を出していること。ただの高級時計ならまだしも、家族の品が絡んでくると見ているほうは途端に嫌悪感を抱くもの。本人たちは「それも了承済み」ではあるんだけど、なんかこう筋が良くないなあと見ていて感じた。


ナダルドッキリにしろ、クラウドファンディングにしろ、ロンハードッキリにしては「紙一重で笑えない」ほうに傾いていた気がする。いつもロンハー班はこの「笑えるか笑えないかギリギリのところ」を絶妙のバランス感で笑えるほうに傾けている印象があるのだけど、今回は全部裏目裏目で笑えないほうに傾いていたと思う。今回たまたまそうなってしまっただけならいいんだけど、もしそうでないとしたら、こういう感覚が悪い方に揺らぐのは怖くないか。


もちろんこんなのは自分の好みが大きい。だからある人からすれば今回のドッキリも何の臆面もなく笑えたものだったとは思うし、評価も高いのかもしれない。けど自分はちょっと今回のは全体的に「うーん」と思えた。また次は素直に笑えるドッキリを頼みたい。

プロフェッショナルとは

ジュリーこと沢田研二が自身のライブをドタキャン。


記者会見の姿がカーネルサンダース過ぎて、自分は正直そっちのほうが面白くてちゃんとこの報道について考えていなかったのだけど、なんだかジュリーを非難する声が思ったより多くて驚いております。


もちろんジュリーのライブを見に遠路はるばるやってきた人もいるだろうけども、そもそも全国ツアーで回っているライブだし、近くに来たら見ればいいだけの話。今もってジュリーのライブを見に来るような人間が「生活費を削って田舎からジュリーのライブに!」なんて人は多くないだろう。どちらかといえば余生まっただ中でお金を持て余している層が戯れで参加しているというイメージ。だからまあ基本的には「よくないこと」ではあるんだろうけど、このドタキャンで本気で怒っている「現役ジュリーファン」はいないと思う。だからこの件は本来「まあ、しゃあないね」でお終いだ。


けどなんだか、ことさらに怒りを増幅させ、ジュリーのことを「プロ失格」とか言ってる人がいてこれも驚く。なんでプロ失格なんだろう。自身のライブを楽しみにしていた7000人の人をないがしろにしたからか。まあその点で多少なりとも「非」はあるんだろうけど、もしその「非」がプロの自覚から来るものだとしたら、それはプロ失格なのだろうか。


ジュリーは記者会見で「満員にならないライブ会場でパフォーマンスをする気にならない」という旨を述べている。それが契約の段階でそう伝えられていたのか、ライブをやる条件だったのか詳しい話は知らないけども、少なくともジュリーからすれば「満員になっているホールでこそ初めて自分のパフォーマンスが発揮される」と思っているのだ。それが事実かどうかはともかく、演者がそう思っているんだから、それがいい悪いの問題じゃないのだ。ジュリーのプロフェッショナルの意識の問題である。


もちろん「そんなの言い訳だろ、ちゃんとライブやれよ」という意見はある。それはそうだろう。しかし、「それでもやるのがプロ」という考え方と「それではやらないのがプロ」という考え方に優劣はなく並列だと自分は思うのだ。世間の多くの人が考えるプロ意識とは前者であり、ジュリーの考え方は後者である。ただそれだけだ。だとしたらなんでジュリーはプロ失格なんだろうか。自分の考えに合わない考え方をただ「プロ失格」と罵るのは、それはプロ以前に人間としての何かを失してないか。


実際ジュリーがそう思っているかどうかは分からないけども、大損害が出ることを承知で自分のプロとしての矜持を曲げないために批判を覚悟でその決断を下したのだとすれば、それは紛れもなくプロだろう。それをただのワガママと言うのかもしれないけど、自分はプロだと思うんだよなあ。


NHKの「プロフェッショナル」で番組の最後に「あなたにとってプロフェッショナルとは?」と尋ねるシーンが必ず挿入される。それはNHKが「名言あるある早く言いたい」とRGばりに名言あるあるを狙っているのではなく、プロフェッショナルが100人いれば100通りの「プロフェッショナルの考え方」があると思っているからだろう。だからジュリーが「批判を受けることを覚悟で自身のライブをドタキャンし、気分が乗らないパフォーマンスは提供しない」というのも、ひとつのプロフェッショナルの答えではないのか。まあ長いことアマチュアイズム丸出しの文章を書き殴っている自分が言うことではないんですけども。

元祖名乗るべからず

テレ東の「大食い」において、照英があっさりと司会を降板させられる。


半年に一度くらい放送されるテレ東の「大食い」特番。一時期の大食いブームを牽引し、そして他局の早食いを真似した死者が出たあとの自粛ムードを経てから変わらずにずっと続けている長寿番組。自分を含めた固定ファンは多い。


その「大食い」特番は、2年前の2016年に一大転換期があった。長年大食いの司会を務めてきた中村有志が、体力の限界を理由に司会を退いたのだ。大食いを妨げない司会の腕はもちろん、出場者に「絶妙にダサいニックネームをつける」ことも大食いの醍醐味だった。今ではお馴染み「ジャイアント白田」「ギャル曽根」など、全て中村の作品である。改めて書いてみても絶妙に分かり易く、ダサい。


そんな大事な職務を引き継いだのが照英だった。照英がそもそも持っている熱さを前面に押し出しつつも、中村のダサいニックネームテイストも引き継ぐなど、まだまだ心許ない部分はあったが、照英なりに奮闘していたと思う。


それが今回、司会が高橋みなみにスイッチされた。これは裏切りである。


今回放送された高橋みなみの司会っぷりは「多少うるさいが、こなれたもの」であった。さすがの芸歴である。高橋みなみの好き嫌いを除けば、照英から変更されたところで特に文句が出るような人選でもないように思う。仕切りだけを考えればそのスキルは照英より上だろう。


しかし、この番組は「大食い」なのだ。単に司会が上手いだけでは務まらないのである。なぜなら、大食いの司会には前述したように「絶妙にダサいニックネームをつける」という責務があるのだ。そんなの誰が決めたのか、と聞かれれば「自分だ」と言うしかない。しかしこれは絶対である。大食いの司会である以上、ダサい名前を付けるのは責任であり義務である。それが高橋みなみに務まるか。答えはNOだ。


もちろん照英が中村有志と同じレベルだったとは思わない。そりゃそうだろう。キャリアが違うのだ。しかし照英はちゃんと「中村有志の魂」であるところのダサい名前をつけようとしていた。定着するようなものはなかったけども、そこに魂を感じているかいないかは、30年の歴史を誇る「大食い」にとって何より大事なことじゃないのか。


今回優勝したアンジェラ佐藤も、そして優勝しなかった魔女菅原も、決勝に進んだロシアン佐藤も、全て中村の作品だ。ロシアン佐藤さんは名前の由来である「ロシア人がかぶってそうな帽子」はもう一切かぶっていないんだけど、それでも「ロシアン佐藤」と呼ばれているのだ。中村有志の魂を感じずして何がロシアンだ。


照英を降板させるということは、中村有志の魂も降板させるということ。それは今までついていた中村のニックネームを棄てるということにもなる。だから今回の放送では「魔女」も「アンジェラ」も「ロシアン」も全て使うべきではなかった。もえあずが何の事情で出場しなかったのか知らないが、もえあずと照英とともに、全ての名前は返上すべきだったのだ。


今回番組自体もリニューアルの意識が強かったようで、ブーム終了後名乗り始めた「元祖!大食い王」の名前を変更した。照英の降板もその一環なのだろうよ。しかし自分から言わせれば、番組は自ら「元祖」を名乗らなくなったのではない。中村の魂を継承した照英と共に「元祖」を棄て、「元祖」を名乗る資格を失ったのだ。


歴代のレジェンドを出場させ、アンジェラ佐藤が優勝した。そんなアンジェラももう40代。菅原さんは50代だ。とても大食い新時代などと言ってる場合ではない。この先番組はちゃんと生き残るのだろうか。「元祖」とともに番組が消滅しないことを願う。百歩譲ってたかみなはいてもいいから、ちゃんとその横には照英を置くべきだ。

そこは早押しじゃあ

高校生クイズ」の感想を。


昨年までの「海外でカップルがイチャイチャキャホー」を推奨するウルトラクイズラシックスタイルは終了し、今年からは「地頭力」(じあたまりょく)を競うクイズに変更。いわゆる「脳トレ」のような問題やパズル系の問題、発想力やそこそこの体力を競う簡単に言えば「クイズ研究会があんまりやってこないクイズ」形式に変更された。そしてしれっと3人1組に戻された。海外行かないから2人でも3人でもいいんだろう。


とはいえ、この形式は「従来高校生クイズがやっていたもの」であり、長いこと高校生クイズを見ている側からすれば「こういうクイズをやってこその高校生クイズ」だと思っているけども、実際参加した高校生や、これを見ていた若者、そして「クイズオタクどや顔甲子園」時代のスターことクイズ王の井沢氏はどう思ったのだろう。


問題は総じて悪くなかった。法則性を考えながら穴に落ちないように先に進んでいくクイズは、答えが見えてしまえば簡単に勝ち抜けるし、また分からなくても運の要素だけでも先に進めたのも面白い。実際法則性が分からなくても勝ち抜けたチームもあり、そこで見せ場が生まれたのも良かった。やっぱり高校生にキャラクターがあるのはいい。


「タイヤを短時間で運ぶにはどうすればよいか」とか「風船を短時間で割るにはどうすればよいか」とか、地味に体力に訴えるものも多かった。多かったのだけど、「知恵を絞れないなら体力でカバーする」というスタンスであるし、最終的にはちゃんと「そもそもクイズが強いところ」が残ったのだから、これでいいのだと思う。欲を言えばもう少し女の子が粘ってほしかったのだけど、まあこんなもんだろう。


優勝したのはクイズ界隈では有名な東兄弟を擁する桜丘高校。「どや顔甲子園」時代の負の遺産である「高校偏差値を示して頭の良さを示す」制度がまだ残っているのだけども、桜丘高校は決して偏差値的に高い学校ではないので(50を切っている)、逆に「彼らがなんかよく分からないけど凄い」ことになっていた*1。あれもうやめませんか。何のための「地頭力」アピールだったのか。まあ「地頭の良さ」と「高校の偏差値」には正の相関関係はあるだろうから、無意味とは言えないんだけど*2、結局「偏差値高い学校には勝てないのかい」となってしまうと、それはダメでしょうよ。桜丘高くないんだけど。


全体的に悪くなかった今回、一つだけ思ったのは「さすがに普通の早押しクイズもやってあげるべきだろう」ということ。もちろん決勝の問題の「壁をよじのぼる」も悪くなかった。想定している答えではなく強引に壁をよじ登ったのも面白かった。しかし、「全然興味ないけど引き受けた仕事」感満載だった千鳥ノブ風に言えば「そこは早押しじゃあ」だろう。決勝まで残ったんであれば、クイズ研究会は活躍する場所を与えられてもよくってよ、じゃないか。特に「そういうクイズを望んでいる人たち」は怒っているんじゃないだろうか。ただ、「そういうクイズを望んでいる人たち」が参加できるクイズ大会はたくさんあるし、高校生の分母に対してほんの僅かであるということ。どちらを取るのがテレビ番組として得策かは言うまでもない。けどまあ礼儀として「普通のクイズもやるべき」だったとは思う。


というわけでクイズ王井沢氏は不満に思ってしまうかもしれない今回の高校生クイズだったけども、個人的には「こういうのであるべき」だと思っているので、普通に楽しみながら見ることが出来ました。今年の高校生クイズが果たすべき役割は「これならクイズ研究会じゃなくても勝てるチャンスはある」と思わせること。そして何より「参加したら面白いんじゃないか」と思わせること。来年以降少しずつ参加者が増えていけばいいと思う。少なくとも北海道予選をSTVホールでやってるうちはまだまだ復活とは言い難い。モエレ沼公園真駒内公園でやっていた自分たちの頃まで参加者が戻ることを切に願う。

*1:実際東兄弟はどちらも鹿児島ラ・サールからクイズのために転入している。それもよく分からなくて凄いが、個人的には「むさ苦しい男子高よりも、イチャイチャキャッキャで優勝した昨年の桜丘高校に憧れてしまった」に一票

*2:ちなみにただの「クイズオタクどや顔甲子園」の場合は偏差値は無意味だと個人的には思っている

どっちのアキ子ショー

北海道は依然として余震が続いておりますが、とりあえず生きてます。


「全力!脱力タイムズ」は毎週面白くて楽しみな番組のひとつです。今週は土屋太鳳とよゐこ濱口の回。後半で濱口いじりとして和田アキ子のモノマネ芸人であるMr.シャチホコが登場。和田アキ子コントを繰り広げて笑いをさらっていった。


シャチホコの凄いところは「耳で聴いていると殆ど和田アキ子」なところだ。イントネーションと抑揚が本人のそれと同じ。もう少し声が大きいと完璧なのだけど、ここまで完成度の高い和田アキ子は今まで存在しなかったと言ってもいいくらいだろう。


ただ個人的にはひとつ気になることがある。それは「このまま和田アキ子をどっちの方向で突き詰めていくのか」ということだ。完全に余計なお世話なのだけど、ちょっと書いてみたい。


まず「どっちの方向」というのは、モノマネにおける「デフォルメ」と「リアル」における話だ。デフォルメってのはモノマネをしながら、そこに何か一つ乗っけて面白さを生むタイプ。コロッケに代表される、いわゆる「モノマネ芸人」はこちらにあたる。その一方で「リアル」タイプは、面白い面白くないではなく、もうとにかく似ていることを追求していくタイプ。イチローに対するニッチローがこれ。


現時点でMr.シャチホコのモノマネは「どっちつかず」な感じがする。以下検討。


シャチホコが和田として登場した場面と、「あの鐘を鳴らすのはあなた」を歌う場面、ともにシャチホコは「和田がノリノリのときの手首(byエハラマサヒロ)」をやっていた。もちろんこれって分かりやすく面白いし(まあエハラの発見だと思うんだけど、そこらへんはまあ置いておく)、和田であることを分かりやすくデフォルメした動きなんだけど、そんなに普段やる動きじゃあないわけですよ。だから「リアル和田アキ子」だとすれば、それは連発すべきではないし、「デフォルメ和田アキ子」であれば、多用すべきなんだろう。


また「あの鐘を鳴らすのはあなた」を歌うときに体を激しく左右に揺らしていた。これも「デフォルメ和田アキ子」としては正しい動き。「古い日記」などを歌う和田ってそういう動きをしているイメージがある。けど「あの鐘」を歌うときの和田は体を動かすことはない。どちらかと言えば直立で歌う感じ。これも「リアル和田」としたならば正しくない動きだ。


さて、今後シャチホコ和田はどちらに進むべきなのか。もちろん「モノマネ芸人」であるとするならば、和田らしいところを強調し笑いを生む「デフォルメ」をするのがいいと思うのだ。だから今やっていることは間違いじゃあないと思う。しかし個人的には「もっと本人を突き詰めた上で、デフォルメ的なことをするのではなくそのままをコピーしたほうが面白い」と思うのだ。


和田アキ子のモノマネをする芸人は珍しいわけではない。特徴のある歌い方や振る舞いはデフォルメの対象としては分かりやすく、モノマネしやすいということがあるんだろう。しかしMr.シャチホコのモノマネはそこらへんのレベルをひとつ突き抜けて「ほとんど本人」なのだ。だからこそ、安易にデフォルメに走るのではなく、「もう和田じゃねえかよ」ってレベルまで本人であることを突き詰めていけば、ただ和田なだけなのに面白いということになるんじゃないだろうか。ていうか、今のレベルが既にその段階に半分足を突っ込んでいる。だからこそデフォルメがなんか余計に感じるわけだ。


和田アキ子っぽいことをするのが面白い」ではなく「和田アキ子であることが既に面白い」。自分はそう思うので、余計な味付けをせずに、ただ淡々と和田アキ子をやればいいんじゃないだろうか、というのが余計な提言なのですけど。まあいいじゃない。

ちょっとだけ、被災して

9/6 3:07

初めは、小刻みな揺れだった。ガタガタ鳴り始める本棚のガラス戸。あまり聴いたことのない音になってきて「おや、これは大きい地震なのでは?」と感じ始める。すると同時に携帯電話が鳴り始めた。

地震です」

知っている。今揺れてるんだ。後に冷静になって気付くが、緊急地震速報震源からある程度離れていないと地震が到達する前に鳴らない。ということは、震源がよっぽど近い場所だったのだ。それはともかく、今までに体験したことのない揺れ。部屋に積んでいる雑誌の山、本の山が雪崩のように崩れ始める。


同時にまだ状況が飲み込めない自分は「あ、本棚倒れてきたら無傷じゃ済まないな」と思う。「逃げなければ」と思うが、体がついてこない。幸いにも本棚が倒れてくることはなかった。揺れが収まり、ようやく意識がはっきりする。部屋の中は本が散乱しているが、ガラスが割れているなどの被害はなさそうだ。足元に気を付けながら家の中を見回す。食器棚からガラスのコップや茶碗が落ちて割れているくらいで、あとは大きな変化はなさそうだ。まだ電気もついているし、とりあえず状況が分からない。テレビをつけて速報を待つ。と、その時電気が全て消える。

9/6 3:20頃

家じゅうの電気が一斉に消え、停電だということに気づく。当然テレビはつかない。何も情報を得る術がなくなってしまった。携帯電話もろくすっぽ充電しておらず(60%そこそこだった)、ここで携帯の電池を無暗に使うわけにはいかない。考えているうちに、部屋にしばらく使っていなかった携帯型のラジオがあることを思い出す。電池もちゃんと入っており、作動。どうやら震度6強(後に7に訂正)の地震が起きたらしいことが判明。「こりゃあえらいことになったな」と思いつつ、真っ暗で何も出来ないので寝ながらラジオを聴く。

9/6 5:00〜9:00

夜明け。天気も良く、カーテンを開ければ不自由なく動ける程度に明るい。停電で中途半端になっていた割れたガラスの処理、自分の部屋の崩れてきた本の後片付けなどをこなす。職場からの連絡はない。この時点で水道もガスも通じている。水道は「断水されている」という情報もあったが、自分の地域では大丈夫そう。とりあえず水が使えるというだけでかなり安心感はあった。報道を見た道外の知人、友人から安否を尋ねるLINEがちらほら届き始める。こういう時に連絡をくれる友人は本当にありがたい。くれない人だって心配してくれているとは思うが、安否を尋ねるメールやLINEはその時返信できなくても皆心の支えになる。過剰な連絡でなければ送るべきだなあと受ける立場になって初めて感じる。

9/6 10:00〜12:00

ラジオを聴きながら断続的に居眠りを繰り返す。地震発生時点からそこまで不安視をしていなかった自分はここまで寝ては起きての繰り返し。もちろん余震は充分に考えられるし、緊迫した状況が続いてはいるのだけど、自分の身ひとつしか守るべきものがない30代のオッサンはこういう時に実に呑気なもんである。食料も家にそこそこあったし、水は出る。電池も買いためたものがあるし、LEDの電灯もある。それゆえの安心感だったのかもしれない。立場によってはもっと深刻な状況ではあるんだろうが、この午前中の時点で「何か買いに行こう」という気持ちは全く起きなかった。そもそも停電も昼くらいを目途に回復すると思っていたし。ここだけが甘かった。供給量に対する需要量の過剰により、全道一気に停電。仕方ないことではあるけども、電力会社の見通しの甘さの指摘もやむなし。これが冬だったら被害は計り知れない。

9/6 12:30〜

職場の上司と連絡がつき、自動車でとりあえず職場に行くことにする。携帯の電池も少なくなっており、自動車であれば充電も出来ることもあり、行くことに躊躇はなかった。そもそもこの時点でもう何もやることがなかったからだ。そこそこ汗臭かったのでお湯の出ないシャワーを気合いで浴びて、着替えて職場へ。


この時点では電気の復旧もままならず、信号も殆ど消えている。こういうときには互いに慎重に運転することもあり、逆に信号でずっと止められるということもなく割とスムーズに職場まで。こういう時に普段から運転しており、信号の少ない道を知っているのは役に立った。


職場で上司と合流。当然のように仕事は休み、自宅待機に。事務所は驚くほどに何事もなく、とりあえず安心して帰宅。帰宅途中に札幌中心部である中央区は電気が一部復旧しはじめ、明かりのついているコンビニや間引かれて主要道路のみついていた信号が少しずつ復活し始めていた。これを見て「ああ、今日中にはなんとかなるんじゃないか」と少し安心する。これもまだ甘かった。

9/6 14:00〜

帰宅しても相変わらずやることはない。まだ明るいうちなら読書が出来ると思い直し、読んでいなかった文庫本「人生エロエロ」(みうらじゅん)を読み始める。地震に被災している人間が読むにはいささかエロが過ぎる内容。「295万戸が停電」とかいう放送がラジオから聞こえてくるたびに「ほう、295まんこ…」と思うくらいにはどうかしていた。本当に被災で苦しんでいるや困っている人がいる中、自分はこんなこと考えてました。心配してくれた方がいるならば本当に速やかに謝りたい。あと断水情報を聞くたびに「断水ぃんオールナイト」ともんたよしのりばりに歌っていたことも謝りたい。

9/6 17:00〜

少しずつ太陽が沈み始め、暗くなってくる。どうやら日が昇っているうちの電気復旧が無理くさいことに軽く失望しつつも、暗くなってからでは調理が出来ん!と思い、停電で冷蔵能力が落ち始めている冷蔵庫から死にかけの鶏肉とレトルトのトマトソースを合わせて簡易版鶏肉のトマト煮を作る。ガスも水道も使えるから、そこそこの調理ならば出来てしまうゆえの結果。

9/6 18:00〜

いよいよ日も沈み、暗くなる。本を読むにも厳しいので、あとはもうひたすら寝ながらラジオを聴くだけ。そして聴いているうちに断続的な眠り、の繰り返し。1時間おきくらいに寝ては起きて、を繰り返す。色々見ることが出来なかった番組のことが頭を過る。けど素直に諦める。

9/7 1:00〜

6日中にやはり電気は復旧せず。寝ながら落胆。そして「おぎやはぎのメガネびいき」があまりに通常放送すぎて「こっちは電気もついてないのに…」とか思いながら、その一方であまりの下らなさに思わず笑ってしまう。こういう時はやっぱりこっちのほうがありがたい。

9/7 8:00〜

携帯の充電が2%を切ったので、いい加減充電しなければと思い、通電しているであろう職場へ向かう。十数分で職場に到着。思った通り通電しており、誰もいない職場で携帯を充電しながら携帯ゲームに興じる。誰もいないし快適。久々に快適。不謹慎と思いつつも快適。

9/7 11:00〜

職場そばのスーパーに「なんかあればいいな」と軽い気持ちで突入。どうやら開店して間もなかったようで、商品は豊富。混み具合もそれほどでもなく、案外すんなり朝飯代わりの食料を確保。ありがたかった。呟きもしたけども、過剰な買いだめをする人もちらほら。物流が途絶えているわけではないので、そこまで買い込まなくてもいいのでは、とは思った。

9/7 12:00〜

いったん帰宅し、改めて出社。どうやら今日から通常営業に戻るとのことで、若干引きつつも通常業務へ。やる気はないけど、ムダにたくさん寝たのでムダに元気なのがなんか腹立たしい。

9/7 18:00〜

自宅から電気復旧の連絡。一安心。実に40時間ぶりの復旧。長かったけど本当に安心した。正直なところ電気がなくて困ったのは冷蔵庫の中身くらいではあったが、それでも回復したと分かるのはほっとする。しかしその一方で「電気はなくても他がちゃんとしていればまだなんとかなる」ことも分かったのは大きい。そもそもネット依存じゃなかったんだな自分はと少し安心した。


電気の復旧に関しては他の地域が次々と復旧する中でなかなか回復せずやきもきした気持ちがないわけではなかった。しかし「自分のところは水もガスも通じるし、まだマシなほうだ」と言い聞かせることで我慢するしかなかった。こういう時は周囲と比べて恨み言を言うのではなく、周囲と比べて自分たちがまだ我慢できるところを探すべきなんだろうなあ、と感じた。

9/7 22:30〜

仕事を終えて帰宅。「チア☆ダン」が無事録画されていることに安堵。電気がついていることにも安堵。現在に至る。



……とまあ、自分の「ちょっとだけ被災体験」を書き並べてみました。「ちょっとだけ」と書いたのは、震災の被災者は本来こんな生易しい状況ではなく、電気以外は使えていた自分は「被災した」うちに入らないのでは、という思いからです。だから「被災体験」としてはあまり参考にならないかもしれない。しかしその一方で「この程度の被災だったらどうにかなるや」という謎の楽観があったからこそ、「ちょっとだけ」と思えたのかもしれない。物事をあまり深刻に捉えるのもこういう場合は得策ではないですし。


実際40時間の停電は結構しんどい。自分のようなテレビ人間にはテレビのない生活も多少堪える。しかし堪えるだけで死にはしないのだ。人間生きていればまたいいこともある。こういう状況ではこういう気持ちも必要なのだろうなあ、と珍しく前向きな気分になった自分がいたのでした。


ただ、今もって停電やそれ以上の深刻な状況にある世帯も多く、また大きな余震、本心に類する大きな地震がいつ来るとも限らない。決して油断は出来ない状況ではあります。でもだからこそ、そのような状況からはちょっとだけマシな自分のような人々は、余計に暗くなることを避け、いつも通り笑っていたほうがいいんじゃないかと思いましたとさ。