続・人類をふたつに分けると

ちょっと話題としては遅くなりましたが、木下優樹菜が引退ですってね。

 

7月に入ってから「反省してるしこれからまたインスタ更新してくんで夜露死苦(意訳)」的な声明を発表したわけですが、1週間も経たずに事務所から三行半を突きつけられました。タピオカ騒動とは別件の不倫が問題とかそうでないとか言われていますが、正直よく分かりません。なんにせよ引退だそうです。ただの事務所解雇であり、フリーの芸能人としてやりゃあいいだけの話のような気もしますが、一応引退らしいです。ライセンスも何もないのに。

 

んでまあヤホーのコメントを見ると、そりゃあもう「そもそもファンじゃないし、引退しても構わない」とか「当然だ」くらいの話が並んでいるんですよね。世界の最底辺の集まりであるヤホーのコメントですが、見ていてオジサンは本当に悲しくなります。

 

木下優樹菜引退で騒ぐのって「いじめられっ子の遅すぎる復讐みたい」で、なんか切なくないっすか。

 

木下優樹菜の出自は本人も認めているようにヤンキーです。いいやただの素行不良です。「やんちゃエピソード」みたいなものを語るときに、ただの質の悪いイジメみたいなものがあったりして、自分のようなヤンキーとは縁遠い人間は「うげえ」と思うわけです。それがタピオカ騒動に繋がったりしているわけなので、批判そのものは仕方ないと思います。

 

しかしそんな木下優樹菜を支持する人間はけっこう「いた」わけです。現在進行形ではないのかもしれませんが。

 

「いた」の根拠になるものとして、インスタグラムのフォロワーの人数になるでしょうか。もう閉鎖されてしまったので確認のしようがありませんが、報道によれば500万人くらいいたようです。もちろんその500万という数の中でどれだけの数が「今(騒動が起こる前)でも熱心なファン」だったのかは分かりません。仮に半分くらいが「惰性でフォローしたまま」だとしても、250万人は支持していたことになります。えらい数です。

 

単に「木下優樹菜のママとしての存在に憧れている」だけであり「ヤンキー気質を支持している」わけではないのかもしれませんが、木下優樹菜という人間を支持するときに「ヤンキー気質は嫌いだがママとして好き」というのはちょっと想像が難しい。となれば、やはり木下優樹菜の「元ヤンだけど今母親として頑張っている」という佇まいを支持している人たちは多かったのではないか、と思います。

 

であればタピオカ騒動は「元ヤンの面目躍如」な事件でしかなく、ここまで騒動になったり自粛したり引退まで追い込まれたり、というのは実はよく分からない感じもあります。強固なヤンキー支持層が「それが優樹菜やん、素敵やん」と言えば騒動は騒動にならなかったのかもしれないのに、さすがにやはりこの世の中そうはいかないのでしょうか。

 

でも世の中は「こういうのが好き」な人たちが実に多いんですよ。そして世の中を動かしているのは「そういう人たち」でもあります。それを自分は過去に「EXILEか否か」と書きました。もう6年も前の話です。

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日本にはなぜか「ちょっと悪いほうがカッコイイ」という謎の嗜好があります。本能的にそっちのほうが生命力が強く感じるのでしょうかね。「EXILE」という単語を用いてますが、EXILEが半グレ集団と言っているのではありません。「EXILEのような少しワルさだとかワイルドさだとかを感じさせるものに惹かれる人たちは一定量いて、そういう人たちが経済を回していたり、社会でも活躍していたりする」という話です。根拠はありません。自分がそう思っているだけです。80年代のヤンキー文化の延長線上にいるのがEXILEですわな。そして、世の中の多数派はEXILEなのです。世の中はEXILEで出来ています。別に本物のEXILEが好き嫌いに関わりなく、根っこにその思想があるかどうかです。自分の感覚だと7割くらいがEXILEです。

 

なので非EXILEの人間がいくらEXILE的なものをバカにしたところで、その立場が逆転することはありません。自分はそれを分かって「どうせバカにされてんだろうな」と思いながらバカにしますが、その認識がなくEXILE的なものに不平不満を垂れ流す「非EXILE正義人間」は、この歪んだ世の中大量に存在しています。自分も同じ側の人間なので気持ちは分かるが、そこにはいたくない。

 

木下優樹菜を否定したところで、非EXILE的人間の立場が変わることはないです。断言します。相変わらず世の中は「EXILE的なもの」が強く、モテます。いくら自分の正義を叫んだところで、非EXILE的な人間がモテる世の中は来ません。生きづらいままです。なのになんでそんなに木下優樹菜で盛り上がることが出来るのか不思議でならない。「やっぱりEXILE的な嗜好は間違っている」と世の中の価値観がひっくり返るとでも考えているのか?という疑念すら抱く。

 

木下優樹菜が引退に追い込まれようとも、非EXILEが大手を振る世の中にはならない。哀しいけどこれ真実なのよね。

 

レッドスネークカモン

「Mr.スーツマンSHOW」を見ました。

 

TBSの看板アナウンサー安住紳一郎がホストとなり、著名人を招いてライブ形式で行われるトーク番組。要するに同局で放送されている「A-studio」の安住版である。なんてことはない。

 

初回のゲストは堺雅人をはじめとした「半沢直樹」の出演者たち。誰がどう見てもドラマの番宣であり、ドラマが4月からスタートするタイミングで放送するはずだったんだろうが、ドラマ放送日程が決まりこちらもようやく放送されるという運びになったのは誰でも分かること。

 

んでまあ「安住アナがメインでトーク番組を仕切る」というのは、テレビ好きには「これは見ておくべきだろうなあ」という気にさせる。TBSの看板アナであると同時に、今のテレビ界を代表するアナウンサーである安住が満を持して的な感じで始める番組、力が入っていないわけがない。「不定期放送という名の番宣時期にのみ垂れ流す都合のいい番組」だったとしても、それを仕切るのが安住アナなら何か面白いものが見れるのではないか、と思わせてくれるのだ。

 

そんな期待を込めながら見た感想が「うん、まあ、こんなもの」ですよね。

 

安住アナが仕切るとはいえ、ゲストに招かれた俳優たちがメインなのは当然だ。しかもそれが堺雅人柄本明及川光博香川照之となれば、そりゃあ濃い話になるし香川照之がグイグイ前に出ますよね。安住アナがでしゃばることは絶対にない。しかし安住アナがホストだからこそ、彼が「ぴったんこカンカン」などで見せてきたゲストに対する絶妙な間合いでもって、何か今まで見ることができなかったゲストの一面を見ることが出来るのでは?という期待もあったんだけど、少なくとも初回の放送では「トークの整理役」でしかなかった。もちろんあれだけの人たちに対してそれが出来るというのは凄いことなのだけど。

 

また、ちょっとした音楽で始まってみたり、番組の終わりには「またいつかお目にかかりましょう see you next time」と言ってみたり、カーテンが閉まる前におどけてみたり、海外のトーク番組を意識したような振る舞いをしている(させられている)のが、やっぱり肌に合わない。以前にフジが「サタデーナイトライブ」を半年間放送していたことがあったけども、あまりなじむことなく終わってしまった。もちろん慣れもあるんだろうけども、いまのところ「海外のトークショー」を真似てみても、少なくとも自分には「なんか無理してる」としか思えなくて辛い。

 

中身が豪華なだけに「面白くなかった」ということはないのだけど、「これだけの装置があるなら、もっと出来ることはあるだろう」というのが正直なところ。安住アナでなければ出来ないような気もするが、かといって安住アナである必要性はあまり感じない。また「番宣番組としては豪華」なのだが「番宣だとすればもっと安っぽくても別にいい」ような気もする。何ていうのだろう、超高級なお肉を使っているのに作っているのは牛丼、みたいな「そりゃあ美味いんだけど、なんかムダじゃない?」という感じ。

 

自分が安住アナに期待するのは海外トークショーの真似事ではなく、「テレビ変態(テレビが好きすぎてテレビに対するこだわりが変態的)によるテレビ変態にしか出来ないトーク番組」だ。次はもうちょっと色々なことが整理されていることを願う。

 

 

記憶よさようなら

30秒に1回くらい「仕事やめてえな」と思ってます。

 

先週は「スイッチ」を見て思い直したわけですが、やっぱりずっと辞めたいです。仕事そのものが嫌いなわけではないのですが、色々「見合わない」ことが増えてきてましてですね。まあ自分は転職をしたことがありませんから、他の仕事のほうがもっと見合わないこともあるんでしょうけどね。所詮は他人の芝生だとも思っている。

 

けどこのコロナ禍のさなか、降って沸いた長期休暇的なものが出来たのにも関わらず、自分のやろうと思っていることの100分の1も出来なかったことを鑑みて「このままでは自分がやろうと思っていることは死ぬまでに100分の1も果たされない」ということが確定し、それなら死ぬまでにちゃんと果たして死のうという気がしないでもありません。それら全てを無に帰して「そんなものはなかった」と思えば済む話でもありますが、それをやってしまうと今度は「今ここにいる自分は何なのか」というもっと虚無的な話になってくるわけで、そっちのほうが恐ろしいですよね。

 

そんなことを考えながら(大嘘)日頃テレビを見続けているわけです。「夜の巷を徘徊する」を見ていました。

 

北海道は首都圏に対して少々の遅れがあり、先日放送されたのは「ごみ処理場見学(再編集版)」である。「夜の巷を徘徊する」はマツコデラックスが夜の巷を徘徊するというその名の通りの番組。もう単純に面白いのでずっと見ている。番組の収録が出来ず再放送で乗り切るという時期が続いた頃の放送回ではあるが、「巷」はそういう事情がなくてもちょいちょい「再編集」と称して同じ放送をするので、そこまでの違和感がない。

 

そんでまあ今回のごみ処理場見学は自分の中で確かに「見た記憶」があります。こんな風に書いた場合、「見た記憶」というのはどこまでの範囲を指すのだろうか。

 

例えばこの回のハイライトとしては、高くそびえる煙突の内部から東京の夜景を眺めるという予定だったものの、鉄の足場で強度に不安を覚えるマツコが少しもエレベーターから動くことが出来ず、結局夜景を見ずに戻ってくるというところ。

 

自分の場合「確かにそんなシーンはあったような気がする」し、いざエレベーターを降りて、のくだりまで来たときに「ああ、確かにそんなことあったわ」と思った。しかしこの一連の流れを見る前に「じゃあこの放送回では何がありましたか?」と問われれば「一切覚えていない」と答えるしかない。

 

また、ゴミを燃やすことに関しては外部委託をしている、という話を聞いて「へー」と思ったのだけど、これも「へー」と思ったあとで「そういやこの話を最初に見たときにもへーと言ったような気がする」ことを思い出す。ある意味記憶の底にはあるのだろうが、そんなことじゃないと甦らない記憶に何の意味があるのだろうか。

 

こういう話をすると他人からは「単に加齢による記憶力の低下」だと片づけられるし、実際自分でもそう思うのだけど、自分としてはどうも「今起きていることをちゃんと記憶しようとする意識に欠けている」気がするのだ。アルツハイマー的な話ではないと思うが(これも実際のところ調べたわけではないので分からないけども)、単に「覚える気がない」というほうが正しい気がする。

 

年を取ると昔のことのほうが覚えている、なんて話もよく聞くが、残念ながら自分は今の話も昔の話も全然覚えていない。いや厳密にいえば「イヤだったことしか覚えてない」である。たまに記憶の扉が開けば「怒られたこと」とか「子どもの浅はかなズルい知恵」とか、まあ思い出さなくていいことだらけ。嬉しかったこととか楽しかったことなんてのが出てこない。そんなに悲しかったり苦しかったりした子ども時代というわけでもなかったが、同時に青春的な記憶も一切ないので、脳に「覚える価値なし」とでも思われているのだろう。自分の脳のくせに。

 

だから仕事のことも、おしなべて「辛かった記憶」しかない。それなりに達成感やら充実感もあったような気もするのだけど、まあ覚えていない。強烈な記憶に残るほどの達成感や充実感をまだ成し遂げていないという言い方も出来るだろうが、この年でそうなのだから、この後そんなことが起こるような気がしない。

 

話を戻す。自分の記憶がいちいちこれらテレビの事象を記憶していないのは「もうとっくに容量の限界なのではないか」という気がしてきた。もうテレビに関してはおそらく他の人よりあまりにムダに大量に見てきているわけで、よっぽど大事なことじゃない限り記憶しようとしないんじゃないだろうか。あまりに入ってくる分量が多すぎて、自分の脳は「いちいち覚えてらんねえよ」という省エネモードなのだろう。だから脳が自動的に「記憶する気がないモード」になっている。

 

そう考えると「もう浴びるようにテレビ見ていても何も記憶しちゃあいないんだから見てないのと同じ」だし、だったらもう一切見なくてもいいような気がしてきた。そうするとこうやってブログを書く動機もなくなるわけで、もうやめちゃえばいいのかもしれない。ただテレビを見なくなると自分の「死ぬまでにやりたいこと」の82%くらいは終わってしまうので、人生大体終わった気がする。こうなりゃ仕事に生きる価値を見い出そうとか考えることもできますが、仕事は現在進行形で絶賛やめたい盛りなので何の歯止めにもならない。

 

とまあ完全に鬱モードに入り、今すぐにでも全てを放り出して海外にでも逃げたい気分は山々なのですが、単に今放送している「帰れま10」でキムタクがノーミスでパーフェクトを出そうと出すまいと1週間後には絶対に覚えていない、ということだけが書きたいゆえの話なので心配とかはしなくて大丈夫です。

 

くじかれ

 

最近は3時間に1回くらい「仕事やめてえなあ」と思ってます。

 

このご時世マトモに仕事があることは幸せなことでもあるのですが、かといってそれが仕事のモチベーションに繋がるわけでもなく、アラフォーになって未だにこんなこと言ってるのもどうかと思うのだけども、それでも思うのだから仕方がないのです。たぶん独身で守るべきものが何もないせいでしょうね。今すぐ死んでも誰も何も困らない。

 

2時間ドラマ「スイッチ」がまあ面白かったんですよ。

 

阿部サダヲ松たか子が主演。元恋人の検事と弁護士が「つきとばし犯」の事件を追ううちに、色々なことが明らかになっていく、という展開。

 

最初のほうは「よくあるバディものかなあ。大人の恋愛的な導入もちょっと時代錯誤かなあ」とか思いながら、全然期待せずに見ていたわけです。しかし話が進むにつれ、進行している事件とは別の「謎」が明らかになっていく。なぜこの二人は出会い、そして別れたのか。なぜ別れたのに未だに関係が続いているのか。この「ズラし方」が絶妙で、現在進行形の事件の謎が解けていくとともに、二人の関係性の謎も解けていく。タイトル「スイッチ」の意味も分かる。簡単に言いたくはないけど「ウェルメイド」ってこういうものですよね。

 

ドラマの最後には、続編を匂わせるような「スイッチ」が入ったところで終わる。いや連ドラにするなら毎回見るから早く予告してほしいよ。

 

こういう作品を見ると「ああ、仕事辞めちゃだめだなあ」と思うのですね。それは励まされているのではなく「大した実力もない人間は黙って働け」と言われているような気がするからです。仕事での挫折ではなく、仕事を辞めることに対する挫折。「誰か僕に才能をくれ」ってミスチル桜井和寿ですら歌うのですから、自分は才能の片鱗などなく朽ちるまでです。

 

そんな自分語りなんてどうでもいいのだ。言いたいことは「スイッチ」連ドラ化は挫折しないでほしいってことよ。あと再放送中(地上波は初)の「犯罪症候群season2」の(木村)多江さんの色気がヤバくて発狂しそうなので仕事辞めたい、という地獄ループ。

 

 

ドリーマーチャンス

 

みなさんは「ドリーマーチャンス」を知っているだろうか。知っているだろうかと書いたものの自分が勝手に作った言葉なので誰も知らないはずだが。

 

テレビ番組には「決めテーマソング」が存在するものがあります。例えば「プロフェッショナル」であれば「Progress」、「ザ・ノンフィクション」であれば「サンサーラ」、「家、ついて行ってイイですか?」であれば「Let it Be」など。番組のシメ前の最高に盛り上がるタイミングで番組のテーマソングが挿入される。視聴者の感情を昂ぶらせるとともに、緩やかに「ああ、番組終わりだなあ」と思わせる効果がある。

 

で、番組を見慣れてくると「どのタイミングでテーマソングが挿入されてくるのか」を見計らうようになります。先日放送された「アメトーーク」の「バラエティ大好き芸人」で「Let it Be」の挿入タイミングの話題で盛り上がっていたけども、まさにああいうこと。視聴者としては「ここで来るなあ」と思っているタイミングをすかされ、意外なタイミングで入ってくるテーマソングに「そこかよ!」とツッコミを入れたくなる。挿入する側も視聴者も、そこらへんのせめぎ合いを楽しんでやっています。たぶん。

 

で、最近自分がずっと戦っているのは「ガイアの夜明け」なのですよ。

 

「ガイア伝統の小芝居を頑なにやらない松下奈緒」でお馴染み「ガイアの夜明け」。社会で奮闘する人々を追いかける「経済お仕事番組」だ。自分のようなオッサンしか見ていない。

 

で、この「ガイア」も松下奈緒が案内人になってリニューアルされた4月以降、番組テーマソングも宮本浩次がうたう「夜明けのうた」に変更された。オープニングでは流れないけども、前述の番組のようにクライマックスのタイミングで「夜明けのうた」が流れるのだけど、他の番組に比べ明らかにそのタイミングがヘタなのだ。なので最近自分はこの曲の歌い出しである「夢見る人そう私はドリーマー」にちなんで、そのタイミングを当てること、あるいは挿入されるタイミングそのものを「ドリーマーチャンス」と呼んでいる。

 

今回放送分のドリーマーチャンスは酷いものだった。医療従事者にとって不足しているマスクや人工呼吸器をなんとか供給できるように奔走する人々を序盤中盤と取り上げ、終盤ちょこっとだけ医療従事者の方々に対して無償で温かい食べ物を届けるキッチンカーの話題に。そしてキッチンカーの人がお弁当を渡すタイミングで「夢見る人~」と曲が流れだす。思わず「ここかよ!」と叫んでしまった。

 

もちろんキッチンカーの人が悪いわけじゃない。取り上げるに値する話題であるし、その取り組みは山場として使われても何ら不思議じゃない。しかし番組の最後のほうにちょこっとだけ出てきて、それで山場のテーマソング流されても「ここ?」となる。キッチンカーは中盤に挟み込んでおいて、割と長尺だった人工呼吸器の完成が一段落したタイミングでのドリーマーチャンスのほうが本来じゃないか。

 

ガイアの夜明け」は経済番組であり、「プロフェッショナル」や「ザ・ノンフィクション」のように分かりやすい起承転結が出ない場合がある。もちろん「ガイア」だって起承転結を意識して作ってはいるだろうが、現在進行形で進んでいるものの一部を切り取ってそこが上手く起承転結になっている保証はない。だからこそドリーマーチャンスは時に「強引に結を作ろうとしている」ように見えるときがある。そこが愛らしく、滑稽だ。褒めている。

 

何も今までそんなことやってなかったんだから、無理にそれらの番組に追従するようなことしなければいいのにな、とは思うんだけど、そこがまた雑味かつ妙味になっている気がするのでこれからもどんどんやってほしい。ちなみに「夜明けのうた」であるが、「ドリーマー」の部分が絶妙に歌いづらいので、ドリーマーチャンスを狙う人は是非練習してから挑戦してみるといい。誰もしないだろうけど。

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自粛と言われても

 

アンジャッシュ渡部健が自身の出演番組への出演自粛を申し入れ。

 

詳細は明らかにされていないが、「視聴者が不快に思うようなスキャンダルを起こしたこと」を理由に自粛を申し入れたという。自粛する前にまずスキャンダルの中身を明らかにしろよ、とは思うが、そこらへんは数日経てば明らかになるのだろう。おおかた不倫とかそんな話題だろうが、食べログに関する不正だとかそっちのほうが面白いと勝手に思っている。

 

なんにせよ「不快に思うようなスキャンダル」の中身が分からないまま勝手に自粛されても「はあそうですか」としかならない。昨今のスキャンダル対応の鉄則として「嘘をつかずに即座に謝る」は間違いではなく、この件も完全に先手先手を打った「いかにも渡部らしい」対応だと思う。ただ何も分からないまま自粛だけ申し入れされても困る。たぶん渡部以外の関係者全員が「うーん」ってなってると思う。そういう意味ではあまりに自分勝手な自粛である。

 

そもそも「番組出演自粛」って何なのだろう。番組に出演するかどうかは本人の意思ではなく番組を作る側が決めるんじゃないのか。「番組出演辞退」とか「番組降板」は分かるけど「出演自粛」は違和感がある。今は騒ぎになってるから大人しくしているけど、ほとぼりが冷めたらまた戻ってきますよ、という意味なのだろうか。そんな都合のいい出演形式ってあるのか。そんな考えのほうが自粛してほしい。

 

出演自粛といえば箕輪厚介。自身の女性問題の報道に対して開き直りでしかない釈明動画を自身のオンラインサロンで垂れ流し、それをまた文春に報道され結局謝罪。ついでにメディアのレギュラーを降板するという、「クソダサい」の一言で済まされる失態を演じた。まあ「死ぬこと以外かすり傷」でしかない箕輪氏にからすれば、この失態もかすり傷でしかない。化膿して死ななければ、だが。

 

一連の報道があったとき、「この件について書こうかなー、どうしようかなー」と思っていた。書きたいことは山ほどあるが、「クソダサい」の一言に集約される話をどれだけ引っ張っても「クソダサい」の結論にしかならないわけで、そんな「クソダサい」話を書いて何か楽しいのだろうかと思っていた。

 

そして何より自分は箕輪氏のことがあんまり好きじゃない。結局批評ってのは批評する対象にどれだけ愛があるか、にかかってくるわけで、その点自分は田中義剛にはありあまる愛(憎さ100倍だけど)があるので批評したくなるが、箕輪氏には一切の愛がないので批評するのも憚られる。前述したように「クソダサい」と直球で書いたり、「化膿して死ななければいいね」とか皮肉を書くくらいが関の山である。何より書いている自分があまり面白くない。

 

面白くないといえば渡部だ。それはバラエティにおける渡部が面白くない、ということではなく、もちろんネタが面白くないわけでもない。今回の「なんかよく分からないけどとりあえず自粛とか言ってやりすごそうとする態度」は間違いなく面白くないだろう。この対応は完全に芸人ではなく、俳優とか文化人のソレである。芸人だったら「のんちゃんごめん!」と泣きながら会見でもしてほしかった。あるいは有吉に2時間ずーっとなじられるとかやってほしかった。佐々木希にしても「何もなければ安泰すぎる」渡部がこんなことになって、それこそ泣きたいくらいだろう。(追記:自分は渡部と佐々木希の結婚に関しては「佐々木希してやったり」だと思っている。記事参照)

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とにかく人力舎の芸人は「何かあったら10年間コンビ活動しない」という前例をアンタッチャブルが作ってくれたわけで、渡部も10年後「渡部がコントの相手をザコシだと思っているが本当は児島」というネタで「脱力タイムズ」で復帰すればいいと思うよ。

 

従順

水曜日のダウンタウン」で「リモート企画」と称して、リアルタイムで視聴者がクロちゃんの行動を決める「リモートコントロールクロちゃん」を放送。

 

なんというかまあ、見事につまらなかったんですよね。

 

いまどき「リモート企画」といえば芸能人が自宅から中継する形で番組に出演する、ということを視聴者は考える。だから今回も「リモートで出来る説を放送するんだろう」くらいなことを漠然と思っていたわけですが、放送されたものはリモートはリモートでも遠隔操作(リモートコントロール)のほうで、クロちゃんが視聴者のdボタンの投票によって操られるというものだった。

 

言ってしまえば「そっちのリモートかよ」という出オチである。だから残りの放送時間は完全に蛇足ともいえるし、クロちゃんをテレビのリモコンでリモコンするというだけで企画の意図が完結しているのだという印象。選択肢によってクロちゃんが動くことの面白さはあまり感じなかった。

 

今バラエティでかなり信頼度の高い「水曜日のダウンタウン」であるから、1回の放送が面白くなかっただけで「もうダメだ」とか言うつもりは全くない(ただまあクロちゃんの企画は搾りすぎて味がしなくなっている感じはしてるけど)。それどころか単につまらなかっただけなのに「これは何か他に企みがあるのでは?」と疑いすらする(そう思ってクロちゃん企画が投げっぱなしだったこともあるけど)。

 

だから「単に今回はつまらなかっただけ」というシンプルな結論がしっくりくるのだけど、一応こんなことを見ながら考えていましたよ、という話。

 

ひとつは「実は操られているのは視聴者」説。

 

番組では「生放送」とテロップが打たれていたので、生放送であるのは間違いないと思うのだけど、これが全て収録されたものの可能性。視聴者は生放送が生放送と確かめる術は実は少なく、ラジオなんかではその日にあったことや天気を述べることで生放送であることをアピールしたりするけども、その意味ではあのクロちゃんが生で動いていた確証はない。電話相手が「放送を見ていた」なんて言ってはいたけど、それも口裏を最初から合わせておけば済む話。

 

そして生放送の割には用意が周到だったところ。クロちゃんの得意なモノマネの選択肢と、ミックスジュースにある選択肢の食材が全て冷蔵庫にあったことを考えると「予め下調べしてあったから、選択肢として提示するのは簡単」というだけなのだろうが、それにしても少しスムーズだったきらいはある。ただこれだけの理由で生放送なのか録画なのかを判断するのは難しい。

 

dボタンの投票で行動が決まっているように「思えた」から生放送なのか、という感じもするけども、あの投票の動向も全て予め決まっており、そのことを知らないクロちゃんがただその指示に対して動いているだけだった可能性もある。さすがにクロちゃんもそのからくりを知って動いているとは思わないけども、スタッフが用意した選択肢の指示をただこなしていくものを、視聴者が「リモートコントロールしている」と勘違いし、「番組側にリモートコントロールされている」というオチだったのであれば「ええやだ怖い」となった、のかもしれない。ただ現時点(6/4朝)では何の発表もされていない。

 

あるいは「リモートコントロールに素直に従うクロちゃんが既に怖い」説もある。

 

クロちゃんはあまりに番組に従順すぎる。もちろんそれがテレビからオモチャとして重宝されるわけだけど、普通に考えたら何も知らされず(知っていた可能性もあるけど)自宅で中継されていたら、普通に抵抗するだろう。止める人間は誰もいない(スタッフが家にいる可能性はあるけど)。何をやっても止める術がない。やる気になれば全裸になって番組そのものをぶち壊すことだって出来るのだ。そこまでしなくても、生放送で指示に一切従わないということも出来るし、家からいなくなることも出来る。

 

しかしそれら一切の選択肢を選ばず、ただ従順に企画の趣旨に従う。もちろんこれでお金が発生しているのだから当たり前なのかもしれないが、それにしても抵抗しないもんだなあと思いながら見ていた。「水曜日のダウンタウン」という大きな力がクロちゃんを操っている、という意味ではこれもリモートコントロールだ、という見方。ただの皮肉かもしれない。

 

なんにせよ見ている間「こういうことを考えさせる余裕(余白ではない)があった」のは間違いない。だって退屈だったから。自分は追いかけ再生で純然たるリアルタイムではなかったけども、リアルタイムで見ていてもdボタンを押すことはなかっただろう。途中で止めてもよかったんだけど「いや最後にはなんかあるのでは」と期待して見てしまう。そして最後まで何もないことにズコーとなるわけですね。最後まで何もないことが逆に「バラエティとして演出(やらせ)のない証左」にはなっているのかもしれないけど、やっぱりこういうのを見るにつけ、「何も(やらせが)ないことが偉い」というのは間違っているとつくづく思うのでした。