ほどよくまとまる

今年の「高校生クイズ」を見ました。感想としては「ほどよくまとまっている」でした。

 

3年1周期の高校生クイズは今年から新ターム。司会も枡アナから安村アナに変更され、パーソナリティも千鳥からかまいたちへ。リニューアルといえばリニューアルだが、縮小再生産といえば縮小再生産である。ただまあ悪くはなっていないのでアリ。

 

コロナ禍での開催ということもあり、大勢のチームがスタジオに来られないのは昨年と同じ。1回戦はリモートで2回戦に進出したチームからスタジオというのも致し方ない。ただまあだからこそ1回戦は「せっかく全国大会に進出したチームに少しでも楽しんでもらいたい」という気持ちが欲しいのだけど、毎度毎度扱いが軽くて哀しい。

 

2回戦からはスタジオで大小のボール仕分け問題。決勝の砂トロフィー引っこ抜きもそうだけど、奇抜なアイディアもさることながら最終的に「理系の実地知識が必要」という着地点は、「東大王」との差別化において非常に重要。結局「知の甲子園(クイズおたくドヤ顔選手権)」時代の高校生クイズは「東大王」が継承した形になり、そこに憧れがあるクイズ研究会の面々はそちらに流れた。今回高校生クイズにはクイズ研究会系の出場者がめっきり減っていた。予選ではじかれたのもあるのだろうが、そもそもこちらを狙ってこなくなったのだろう。自分はそれでいいと思う。棲み分けは必要だ。

 

ボール大小の仕分け問題に関して言えば、自分はずるい大人なのでこんなことを考えていた。仕分けミスは+5秒のペナルティ。200個あるボールを全て大の箱に分ければミスは100個で500秒(=8分20秒)加算。全てを箱に入れるだけで30秒くらいはかかるとしても、それでも8分50秒になる。次のクイズに進んだ高校の一番遅かったタイムが8分49秒だったので、手早くやればこれでも勝てたんじゃないかと、見ながら思っていた。

 

3回戦は3チーム合同の協力戦。やっぱり高校生クイズにはこれが必要なのよ。クイズそのものは「さもありなん」な問題だったが、共同戦線を張るクイズがあるからこそ、次の展開がある。問題そのもので関係性はそこまで見えなかったけども、これは有効打だったなあと。

 

準決勝でマトモなクイズ。ただし単なる知識クイズではなく、今回の高校生クイズのテーマである「ソウゾウ力」を生かした問題。「東大王」との差別化になれば、もうこの路線しかないわけですよ。「オリンピックのサッカーのハーフタイムの時間帯にトイレに行く人が増えるので、その時間帯に水道使用量が上がる」という問題は、ワールドカップのときの高校生クイズの過去問にあったと思う(それとも「雑学王」だっただろうか、定かじゃない)のだけど、一応知識側にも配慮してんのかなあとも少し思いました。

 

決勝は近年恒例の「体力実地知識ミックス問題」。今回は砂に埋まった巨大優勝トロフィーを引き抜く問題。体力も必要といいながら、砂に埋まったトロフィーを引き抜くには明らかに「理系の知識」が必要。ボール仕分け問題で灘高校が「ボールに光を当てて、影の大きさで仕分けする」なんてことをして失敗していたが、自分の持つ知識を基に実地に役立てるというのがいかに難しいかが分かる。この路線は最終的に「知識のみを持つ人間よりも、そこそこの知識を持ちながら発想力や行動力を持った人間が最後にまくっていく」というカタルシスを生み、「これなら自分たちでも勝てるかもしれん」となった高校生が戻ってくる可能性が以前より少し上がったのかなあ、なんてことは思う。

 

高校生クイズはこの路線をブラッシュアップし、あとは高校生同士の友情を生む仕組みさえちゃんと整えれば息を吹き返すんじゃないだろうか。周期1年めにしてはほどよくまとまっており、またかまいたちの有能さが目立った(高校生相手では千鳥よりもかまいたちのほうが優秀)。何百回も書いているけども、高校生クイズは「クイズ大会」ではあるけども、それよりも「青春を軸にした人間ドラマ」であってほしいのよ。クイズマニアのためのクイズは「東大王」に押し付けておいて、高校生クイズは「人間ドラマの復権」を目指そうぜ。自分は高校生が仲良く盛り上がったり、いがみあったりする瞬間が見たいのです。

 

あと最後に声を大にして言っておきたいが「トトトトラーイ」はやめよう。

 

 

愚か

ビートたけしが生放送終了後のTBSで襲撃された」というニュースを聴いたときにはさすがに驚きましたけども、自分には最初から「なんで?」という感想以外に浮かんでこなかったのです。

 

当初は件の生放送「新・情報7days ニュースキャスター」で政治的発言をしたことに対する襲撃か、なんてことが言われていたが、「ふだんから言いたいこと言っていて、そして誰も大した気にも留めていない(と自分は思っている)のに、今さら?なんで?」と思っていた。

 

しかし一夜明けて供述が出てくると「6月に弟子入りを志願して土下座したが、相手にされなかった」ことが理由らしい。

 

なんて愚かな。

 

自分の頭に浮かんだのはたった一言でした。愚かな人間に愚かな理由をいちいち告げていくことほど残酷なことはないが、40代にもなってこんなことする人間は多少残酷なめに遭わなければいけないと思う。可哀想だけどもこの男の何が愚かか、蛇足も蛇足だが説明してみたい。

 

まず、芸能界に入るためにたけしに弟子入りしようと思っているところが完全にズレている。

 

30年前ならいざ知らず、そもそも今のたけしに弟子を育てる余裕もお金もないだろう。一部週刊誌が報道しているようなことが事実であれば、弟子を育てる金銭的余裕も、またその気もないんだろう。自分でもたけし関連の記事を見れば「ああ、なんかちょっとアレだな」と思うわけで、少しでもここらへんの記事を流し見すれば「今たけしの弟子になって芸能界でやっていける」とは思わないだろう。

 

もちろん「たけしに弟子入りする」=「芸能界で成功するためのきっかけ」ではない。たけし軍団とはそもそも「たけしが好きすぎて弟子になってでも近づきたい人たち」なのだから、芸能人として食って行けようがそうであるまいが、弟子になることそのものが大事なのである。この40代の愚か者もそのような志であったならば話は別だ。しかし本人の供述によれば「芸能界に入るためにお願いします」と言ったらしい。そんなんでたけしが弟子にするわけがないだろう。たとえこれが30年前であっても無理。弟子入りを芸能界入りのきっかけとしか考えておらず、たけしに対するリスペクトの欠片もない。たけしが相手にしないのは当然である。そして、この愚か者はそれが分からないから、逆恨みし、襲撃する。そもそもリスペクトしてないんだから当然だ。

 

そして愚か者の行動は同時に「たけしが相手にしなかったことが正しい」ということを自ら証明してしまうのに等しい。だってこんな奴弟子にしてもきっと何かやらかす。たけし軍団も「いろいろやらかしている人たち」ではあるが、たけしに対するリスペクトだけは揺るぎがない。だからこそたけしは今まで「たけし軍団」として彼らを重用してきたのだ。けどたけしに対するリスペクトがない人間は、たけしに対しても何かやらかす。そう、平気で襲撃する。だから相手にしない。たけしが正しい。愚か者はそれが分からない。自分の行動が、憎い相手の正しさを証明していることに気づかない。だから愚かなのだ。

 

そして「襲撃に何のユーモアもない」のも愚かだ。あくまで弟子入り志願者だったなら、襲撃にユーモアくらいもってこいと言いたい。たけしの車を襲撃したのはつるはしらしいが、だったらヘルメットにヒゲで「弟子入り断るなんて冗談じゃないよ!」とやればよかったのだ。あるいは「講談社」とかTシャツに書いていけばよかったのだ。しかしおそらく愚か者はこれを読んでも何のことか分からないだろう。分かっているならやればよかったのだ。読んで分からないのも愚かだし、分かっているのにやらない、やれないのも愚か。もし本当にこの恰好で襲撃してきたなら、出所した後に声くらいかかったかもしれない。それはないか。まあそもそも「たけしに気に入られたい」という発想そのものが最初からないのだから、襲撃にユーモアなんて考えは到底及ばない。

 

「思想的な話でもなんでもない」「ただの逆恨み」で「今芸能界に入るきっかけと考えるにはあまりに先見性がない」うえに「何のリスペクトもしていない」「たけしへの弟子入りを断られた」ことを理由に「何のユーモアもなく襲撃する」「40代男性」に対して、自分が理解できる部分はひとつもない。だからこそ最初から「何で?」としかならないのだ。そんな相手に対して出てくる言葉は「愚か」しかない。

 

最近のニュースは一方的に自分の正義を決めつけ、自分の正義でもってのみ叩くという相手への理解に欠けた言説が多くて本当にげんなりしています。自分もそうならないように気を付けてはいるつもりですが、この事件に関しては「もしかしたらたけしを襲撃しなければならない止むに止まれぬ事情があったのでは?」と考えながら情報を追ったところで、何もない。ただただ理解に苦しむ。意味が分からない。そこが怖い。ずーっと「なんで?」と思っている。

 

 

 

看過できないのは不幸かもしれない

ご無沙汰しております。

 

気付いたらオリンピックが始まって終わってましたね。オリンピックが東京で開催されることが決まったときは、正直「すごい楽しみ」だったんですけど、オリンピック開会が近づくにつれて「なんだかなあ」という話がたくさん降りかかってきて、最終的には「どうでもいいや」のテンションに落ち着きました。仕事上リアルタイムでの視聴が出来ないこともあり、気付いたらいつものオリンピックより見ていない感じです。なんなら自分の職場の近くでマラソン走っていたというのに。

 

開閉会式も酷評されていますが、あんなゴタゴタがあった中で、どんな形であれなんとか披露されたものに、「お疲れ様」という言葉より先に批評の言葉が出てしまうことは卑しいのではないか?とか考えるわけですが、世間はそう思っていないんだなあと感じました。じゃあ自分はどう感じたのか、といえば殆ど見ておらず、閉会式で表示された「ARIGATO」の文字に広末涼子のファーストアルバムを感じただけです。

 

そのくらいどうでもいい感じで終わってしまったのですが、それにしても、みなよくもまあどうでもいいことで怒っているな、と思います。

 

どこぞの市長が他人が苦労して手にした金メダルを勝手にかじったり、どこぞのハリーが女子ボクシングに対するえらい偏見でコメントしてみたり、どこぞのメンタリストがホームレスの命なんて俺の高額の税金で救いたくないよーんと言ってみたりすることに関し、そりゃまあ世間の人たちが怒るのも分からないではないです。

 

しかし、世間のみなさまは本当に怒っているんですかね。自分は正直なところ大した怒りも沸かないのですよ。

 

元々自分の中で社会正義だとか道徳とかモラルってのがあまり高いわけではありません。取り立てて低いわけでもないと思うのですが、かといって他人のモラル低めな言動とか行動を糾弾するほどのテンションにはなりません。口にするかどうかはともかく、自分もそういう面あるしなあ、と思う。シンパシーは感じないけど「自分にもある部分」を殊更責めるようなマネは自分に返ってくると思うので。言ってしまえば自己防衛。

 

しかし何より「元々そういう人たちに何を怒っているのか」という側面が強い。

 

河村市長はメディアに出演が多かった時から「典型的なデリカシーのないオッサン」であったし、張本勲は「サンデーモーニング」が放送されて以来ずっと「狭量なオッサン」であったし、メンタリストDaiGoはもう最初からずっと「いけすかない奴」であったわけで(あくまで個人の感想です)、その印象と違わない彼らのこれらの行動や言動は「まあそうでしょうね」と思うだけだ。

 

例えば動物園でゴリラにウンコを投げつけられたら驚きはするけども怒りはしないんですよ。だって自分はゴリラがウンコ投げるって知ってる。それを知って近づいてウンコ投げられても驚きはしても怒りはしない。ウンコ投げられるのは想定済みとしていないとおかしい。自分からすれば怒っている人はウンコ投げられて怒っている人に近いんです。

 

もちろん彼らの行動や言動は決して褒められたもんじゃないです。自分だってウンコ投げることそのものを肯定しているわけではありません。けどゴリラに対して「ウンコ投げちゃいかん!」と怒ることをしないのは、相手が人間だからじゃない、という理由とともに「そもそもそういうことをする生き物なのに、その前提から怒ることはなんか違うんじゃないのか」と思っているからです。

 

河村市長は「そういうことをする人」であり、ハリーは「そういうことを言う人」であり、DaiGoは「そういう思想を持っている人」なのです。同じ人間として受け入れられないという気持ちも怒りも分かりはしますが、「そういう人」「そういう生き物」に対して「なぜそんなことをするんだ!」と怒っても、「いやそういうふうに生きてきたから」の一言で片付いてしまう問題なのです。

 

河村市長がいくら給料をカットしたところで、記者会見でのふてくされっぷりを見れば「何でこんなことで怒られているのか分からない」ことはすぐに伝わる。あれを見て「まだ反省していないのか!」と怒ることよりも「まあ仕方ないよな、そういう人だから」と思ったほうがどんなに分かりやすいか。

 

自分がこれらの問題に対して何も感じていないわけではない。メダルかじりは気持ち悪いと思うし、女子ボクシングに対する配慮のなさは唾棄すべきだし、納税額でマウントとってくるような奴は社会的地位が高くても見下してます。かといってこれらの話題を他人がいちいち話題に挙げるような話かね、とも思う。心の中で「はああ」と思えばいいだけの話を、いちいち槍玉にあげて怒ることは「自分の中の正義を満たす」という、「彼らの言動や行動と同程度にしょうもない」目的以外に何か使い道はあるんでしょうかね。

 

もちろんメダルを噛まれた人とか女子ボクシング協会とか生活保護とかに関わっているとか、当事者が怒るのは分かる。けどそうじゃない人が無暗に怒っているのを見ると、本来持つべき怒りも萎えてくる。

 

 

自分が本当に怒りたいのは「イモトアヤコ妊娠」のニュースを見て、本来ならば「やっぱり子作りのときはイクじゃなくてイッテQって言って果てたのかな」と思うべきところを「海外ロケないから子作りっていうより、もう番組終わるってことじゃないのか」という感想を抱いてしまったことですね。何冷静にクソみたいな分析してんだよ、と。まずは下ネタに邁進しろよ、と自分で自分を戒めて怒りたい。

 

 

 

今もってこんな文章を読んで下さる人が、いまさらこれを見て「失望した」とか「不謹慎だ」という感想にはならないでしょ?自分の言いたいことはそういうことですよ。

 

 

 

CRAZY GONNA CRAZY

水曜日のダウンタウン」はなぜこんなにヤバさが振り切れているのか。

 

番組後半に放送された「鬼越トマホークドッキリ検証」が頭おかしい。鬼越トマホークのネタである「ケンカを仲裁した人が悪口を言われる」というくだりを、タレントに一般人であるマネージャーが行ったときに気づくのか、というもの。今回が検証3回目でファイナルとなったのだけども、そのラインナップが「長州力」「具志堅用高」と、現在のイメージこそ面白いオジサンであるが、元プロレスラーに元ボクシング世界チャンピオンという普通に考えればキレて激昂してもおかしくない人選。結果二人とも和やかに終わりはしたが、両者ともヒリつく場面はあった。

 

しかし本当に頭がおかしいのはここから。たけし軍団の中でも一番怖い(番組中でも「キレると本当にヤバいから」という理由でFRIDAY襲撃につれていかなかった話が紹介されていた)つまみ枝豆・現TAP社長が登場。芸能人はその武勇伝というか怖さを知っているので、VTRで紹介された瞬間にザワつき始める。これまたガチゲンカで話題となった「おぼん・こぼん」の時の比ではない。

 

そして枝豆はその期待に応えるかのごとく、分かりやすくキレる。ケンカを仲裁した後でマネージャーに言われた「たけしの話題じゃなくて自分の話題をしろ」という言葉に「殺すぞ」の一言。このご時世に「殺すぞ」が轟く番組はヤクザ映画と「水曜日のダウンタウン」だけだ。

 

つまみ枝豆にこの検証を仕掛けるだけでも頭がおかしいのに、これをちゃんと放送するところがやっぱり頭がおかしい。もちろん枝豆側がOKを出しているからこその放送ではある。OKが出ないと板東英二のようになるってのもこの番組が身を以て体験している。元々テレビ番組のコンプライアンスを攻めてきたたけし軍団としては、この放送にNGを出すなんてことは死んでも出来なかったと思うわけで、そこはやっぱり尊敬に値する。

 

しかも今回の放送で「殺す」が出てくるのは2回目なのだ。それは「芸人が今までで凄いと思ったコメント調査」で、バカリズムが同番組の企画で浜田が放った「殺すぞ」を挙げており、その映像が流れた。もちろんバカリズムは本当にこのコメントが凄いのだと思っただろうし、番組の紹介として特に違和感があったわけではない。しかし枝豆の検証を見て自分は思った。「あ、これは殺すを前もって中和したな」と。

 

枝豆の「殺す」だけでは、理由はあれどやっぱり強すぎる。しかしその前に番組MCである浜田の「殺す」が入っていれば、枝豆の「殺す」は浜田の「殺す」が前菜になって、若干エグみが消えるのではないか、と。いや自分で書いてみて「全然消えてないわ」とは思う。ただ、これが偶然バカリズムで「殺す」のコメントをツモったからこういう構成になったのか、それとも枝豆の「殺す」があったから中和の「殺す」を用意したのかは分からない。ただ、ここで「殺す」を揃えたのは確実に意図されたものだ。演出の藤井健太郎も自身のツイートでこう述べている。

 REDRUMは逆から読むと「MURDER」、殺人者の意味である(みんな大好き映画「シャイニング」からの引用ですね)。つまり今回の放送は「殺す」SPであったと宣言している。

 

いやね、分かるのよ。意図はとっても分かるけど、これが分かったところで自分が言えることは「あんたそりゃクレイジーよ」でしかない。

 

YouTuberは何かやったら白っぽい服で白バックで謝罪すれば許されると思っている。しかし「水曜日のダウンタウン」はこんなもん謝罪する気なんてさらさらないのです。なんならYouTuberのマネしてふざけて謝罪しかねない。世の中で面白いとされているYouTuberがどれだけ面白いのか自分は知らないが、何をどう考えても「水曜日のダウンタウン」より頭おかしいことやってる人たちはいないだろうな。今やテレビなんてネットに対して優位性がなくなった、だなんて言われるけども、こんなこと平気でやる、やれるんだからまだまだ優位性はある。

 

結局自分はテレビで何か衝撃があると、こうやって書いてしまうのだ。最近仕事のせいと称して更新をサボってはいたけど、結局テレビからの衝撃が足りてなかったのかなあ、と少し考えさせられた。いやまあ、歳食ってくるというのはこういうことなのかもしれませんけどね。

 

墓場まで持っていく話

ごぶさたしております。お待たせしました。お待たせしすぎたかもしれません。「全裸監督2」がNetflixで公開されたのは先週だったような気がしますが、なんかよく分かってないです。

 

仕事が忙しくて、またこれから忙しくなるのですが、今は一時小休止という感じでたまっていた6月クールのドラマの最終回「コントが始まる」「ゆるキャン△2」「生きるとか死ぬとか父親とか」など、一気にまとめて見ました。まだ「半径5メートル」の最終回が見れていない。「リコカツ」とか見てたけど途中であきらめました。特に後悔はないです。「大豆田とわ子」は割と早めに最終回ちゃんと見てました。最終回直後は「とわ子」さんのよく記事を目にしましたけど、個人的には「コントが始まる」のほうが良かったと思ってます。

 

「とわ子」さんは何のフリもなくかごめ(市川実日子)が亡くなるというカウンターを打ってきたことに「やるなあ」と思わされたわけですが、「日常に突然訪れる死にフラグなんかない」という「起こり得ること」をファンタジーめいた作品中に現実を突きつけたわけですね。ドラマっぽいドラマでありながら、唐突にドラマチックであることを拒否する強さ。やっぱり作品性は高いと言わざるを得ない。

 

一方で「コントが始まる」は、「グループ解散」という決して前向きではない終わりを迎える事象に対し、「終わることとそれからまた始まること」を非常に淡々と描いた作品でした。「淡々と」とは書いたけども、ちゃんとドラマ的な話の流れがありながらも、過剰にならず、とても心地よく沁みる作品でした。最終回のラストライブを劇的に描くこともなく(そしてコントがさほど面白いこともなく)、ともすれば退屈でしかない展開ではあったのだけど、こういうのが面白いと思える年齢になったんだなあと自分の年寄り感を自覚するドラマでもありました。

 

で、とりあえずドラマの感想書いておけばテレビブログだろ、くらいの完全に投げやりな態度でこの先の話を進めますね。覚えてないかもしれませんがブログのタイトルが「投げヤリズム」ですから、そこは勘弁願いたい。全然関係ない話します。

 

みなさんは「墓場まで持っていく話」がおありだろうか。

 

こう話を切り出せば「他人には死ぬまで話せないヤバい話」のことを指すとたぶん殆どの人が思います。ちなみに自分にはそんな話はありません。そもそもつまらない人生を歩んできましたので、武勇伝もなければ修羅場もなく、「話してもらえれば100万円差し上げます」と言われれば、少し悩んで話すくらいのレベルです。

 

じゃあなんで「墓場まで持っていく話」なんてことを言い出すのかといえば、今自分は「自分は面白いと思っている話なんだけど、自分が伝えたいニュアンスを100%相手に伝えるのが難しい話」をひとつ抱えています。内容としては他愛のない話なのですが、どうにも話しにくい。

 

「生きるとか死ぬとか父親とか」では、最終回で「他人に相談事を話すことの意味」について少し触れられていました。自分の中でため込んでいるよりは、他人にすっと話してしまうほうが気持ちも楽になるんでしょう。たとえば自分の場合はここのように「全く利害関係のない不特定少数に伝えることが出来る場所」があるにも関わらず、そこに書くことすらできない。

 

理由としては①「自分の本名と仕事を伝えないと話が伝わらない」②「人によっては割と気を遣う内容が含まれている」③「自分のニュアンスを正しく理解できる程度の、そのジャンルに対する認識がある」という3点である。職場の人間に対して①は何の問題もないのだけど、②③を考えると「あまり話したくないかなあ」と思う。自分が知らないうちに地雷を踏む可能性もあるし、相手の認識を正しく理解しているわけでもない。何よりそんなリスクを冒してまで話すような内容でもないからだ。

 

3つの条件を満たすことが出来るのは「お互いに相当の認識がある人」なわけで、自分にも少ないながら友人はいるが、残念ながら②がちょっと怪しいのだ。知っているようでいて「え?そうなの?」ということを今まで少なからず経験していることもあり、正直二の足を踏む。だからこそ「あえて」この話はしない。しないほうがいいこともある。あと考えられるとしたら互いの大抵のことを知る関係になる嫁くらいか。まあそんなものは一生現れないのだが。

 

というわけで「あまりに話せる条件が狭い」ことと「そんな条件を縫ってまで話すような話でもない」ということを総合すると、この話はどうやら「墓場まで持っていく」ことになるのである。もちろんこの後ブログに書くようなこともしない。みなさんにもやもやだけを提供して終わるのである。なぜならそれが目的だから。何のために。

 

不健全な世界を生きるのは辛い

いまさら麻生千晶にめくじら立てるなよ、と思っている。

 

何の話かといえば、元プロ野球選手の上原浩治麻生千晶(当該コラムでは黄蘭のペンネーム)のコラムで「上原の顔が苦手で好意を持っていなかった」と書かれたことに不快感を表明し、そのコラムを掲載していたJCASTが記事を一部削除して再編集したとのこと。

 

ああ、バカくさい。

 

そもそもの話として、上原が怒るのは当たり前ですね。だって顔が好きじゃないと言われているんだから。それは怒る権利があるしSNSで怒りを表明してもいいと思うんです。もう一度言いますが、上原は怒っていいのです。

 

しかし、それ以上でも以下でもないんだよこの話。そして麻生千晶の記事なんて。そもそも毎回大した話してないただのオバサン、いやもうお婆さんの感想なんだから。テレビジョンの「ドラマアカデミー賞」のコメントでも毎回大したこと書いてなかったんだから(最近は知らんけど、書いてないと断言する)。たまたまオバアサンの好みじゃなかった顔で記事を目にしてしまった上原は気の毒ではあるが、麻生千晶がそういう人ってことを知らないんだからしゃあない。知ってたら「ああはいはいババアババア」で済ませているって。自分は「そういう人」だって知っているから、今更上原の顔が好みじゃないとか書いてても何も思わないよ。麻生も麻生で遠慮して「嫌い」じゃなくて「好みじゃない」って書いてくれてるじゃん。そのくらいの遠慮はあるババアよ。でも麻生千晶はキムタク大好きだから上原の顔はそりゃ好みじゃないんだよ。

 

上原も上原で40過ぎてまだ容姿のことでヘコむんだな、とオジサンは思ったよ。トータルで麻生より酷いこと書いている自覚はある。謝罪はしない。こんな自分ですら謝罪したくないのに、記事を掲載したJCASTがとっとと謝罪して記事を取り下げるのは「バカかよ」の一言ですね。上原が怒りを表明したからといって取り下げるなら、最初から掲載させんなよと言うだけです。それを掲載した以上筆者のみならず編集部が内容のケツをもたないでどうするよ、と思う。自分が麻生千晶なら「自分の書いたもの勝手に取り下げたりするんじゃねえよ」と思うだろう。少なくともこの編集部は信頼に足りない、と感じる。もっとも麻生が「取り下げてよい」と許可した可能性はあるんだけど。

 

そして一番バカなのが、この記事に対して群がって大して知りもしない麻生の批判をしている人たちですね。オジサンだけど若者ぶって「うっせえわ」と言いたい。麻生千晶の個人的な感想は発表しちゃいかんのかね。「顔が好きじゃない」っていう感情は、テレビを見ているうえで立派な感想だと思うのは自分だけかね。思ってもいいけど記事にしてはダメなのか。それとも思うのもダメなのか。個人的には本人にSNSで直接「顔が好みじゃない」って言うのはさすがにどうかと思うが、コラムという体裁でもって「顔が好みじゃなかったけど解説よかったよ」というのは、そんなに悪いことなのか。本人が傷ついたらダメなのか。ナンシー関なんかどれだけの人傷つけてると思ってるんだよ。

 

麻生千晶なんて元々好きじゃないから擁護する気なんかないし、これをもって「言論の自由」がどうこうとか大それた話として扱いたいわけではない。しかしテレビの感想として「上原の顔は好みじゃなかったけど解説よかったよ」というのがダメなら、もう自分はテレビの感想は書けないな、と思う。テレビで見た目の感想を述べるときは基本的に賛美しか許されないってことだね。不健全で気持ち悪いな。二回言う。不健全で気持ち悪いな。

 

 

リハビリ

どうも、生きてます。

 

お金をもらう対価としてやっている作業がいっちょまえに忙しくて、かといってテレビを全然見れていないわけではないのですが、なんかこう文章を書く意欲が減退しているのですね。それはお金をもらう対価としてやっている作業も同じように文章をしこたま書く作業で(決してライターとか原稿とかそんな話ではなく、ただのサラリーマンの仕事の一環としての作業です)、そっちで手いっぱいだったというだけの話ですね。

 

それでも何か自分の気持ちを動かすような事件やテレビがあれば這ってでも書くのでしょうが、そこまでの情熱はなく、僕の情熱はいまや流したはずの涙より冷たくなってしまったとスガシカオばりにつぶやくだけなのです。黄金の月。

 

最近の数少ない楽しみは「山之内すずが感情が死んだようなコメントを繰り返す」のを見ることくらいです。山之内すずは「コメントに一切の感情がこもってない」才能があります。本人には精いっぱいの感情をこめているとしたらそれが全く伝わってこないのがすごい。本当に一切こもっていないのだとしたら、それが全てバレているのもすごい。どっちにしても才能なのです。

 

あと「ガイアの夜明け」で松下奈緒が見せたババアリアクションも最高でした。ゴジラのアトラクションを体験した松下奈緒は、怖がって自分の顔のあたりで手を小刻みに動かすババア的なリアクションをしたわけです。予告映像で見ることができる。22秒あたり。

www.youtube.com

別にババア的なリアクションが悪いというわけではなく、普段ババア感を一切見せない松下奈緒が恐怖によって一瞬だけ見せた隙に、オッサンは大喜びですよ。性格が悪いと言われても甘んじて受け入れるより他ない。

 

カトパンこと加藤綾子の結婚相手が「一般男性」という名の年商2000億円のスーパーの社長だっていうんだから「そりゃそうなりますわ」って言いますよね。でもカトパンが「お金なんかなくたっていいんです。ブログで変なテレビの感想とか書いていなければいいんです」って言われたらもう返す言葉がないんです。けどカトパンはたぶんババアリアクションしないと思うんですよね。松下奈緒カトパンって同い年なんだって今知ったけど。学年は松下のほうが1つ上のようだが、30代になったらそんなの誤差だ。

 

こんな風に読んだ人がちょっとだけイヤな気分になるような文章を量産して、死にます。何のために生きているんだろうね。