通常営業だ

「青春高校3年C組」の深夜初回を見ましてですね。

 

元々はテレ東(関東ローカル)の夕方の帯で放送されていたものが枠移動して深夜に。北海道では放送されていなかったものが急に放送されるようになったので(いやまあ見ようと思えば色々見る手段はあったのだけど、そこまでのもんじゃないとは思っていた)一回は見てみようということで見ました。

 

テレ東夕方時代の流れを汲んでいるから、番組にとっては「お馴染みの生徒たち」なんだけど、こっちからすれば「初めて見る生徒たちたくさん」となる。もちろんそれは番組としても重々承知なんだろうけど、かといって今まで応援してくれていた夕方時代からの視聴者を切り離して最初から、というわけにもいかず、そこらへんどうやってバランスを取ればいいのかとっても難しいですよ、というのが番組全体から伝わってくる感じでした。総じて仕方ない。

 

このまま見続けるとなると、関東ローカル時代から応援していた人たちに追いつかなければならない。かといって熱心に応援しようというわけでもなく、なんかどうしたらいいか分からないですよね。どういう温度でこのまま見続けるべきなのか難しいなあ。でもとりあえず1ヶ月くらいは見ちゃうんでしょうね。

 

同じく「映像研には手を出すな!」のドラマがHBC(TBS系列)で放送されましてですね。これも見ました。

 

NHKでアニメで放送された同作は評判が良かったという話を耳にしまして、だったら実写のドラマも面白いんじゃないかと思って見たわけですが、なんだかよくついていけませんでした。主演の人たちが乃木坂46の人たちだから、というわけではないんでしょうけど、世界観が飲み込めないままあっという間に終わったなあと。

 

これはそもそも原作が自分にフィットしていないのか、それともドラマがあまり良くないのか、それを確かめるためにはNHK版のアニメを見るのが一番だなあ、と思いまして、あまりいい方法ではないのでしょうが、ネットの荒波を乗り越えましてNHKアニメ版の初回を見たわけですね。

 

こっちはとても引き込まれました。一言で言えば「面白い」です。

 

ドラマ版の何が良くなかったのか、といえば主人公である浅草さんがなぜああのなか、という部分の説明が薄かったわけで、そこがあるのとないのとではアニメ制作に対するこっちののめり込み方が違うんじゃないのかとは思うのですね。簡単に言えばドラマは必要な部分の取捨を間違ったんじゃないかというだけ。原作を知らずドラマから初めて見る自分がそう思ったのだからたぶんそうなんだと思う。

 

原作をたっぷり知っている人間ならばドラマ版(ひいては実写映画版)はそれなりに楽しめて、そうでない人はけっこう厳しい。そうでなくても楽しめるのは乃木坂ファンだけ。一方でアニメは(原作もなのかな)初めて見る人にもちゃんと引き込まれる要素がある。まあドラマ版もあくまで初回を見ての感想なので、2話以降はそんなことないのかもしれないけど、初回における野球部云々のくだりが必要なかったことを考えても、ここから大きく挽回するとは思わない。あくまで自分の意見ではあるが。

 

ちゅうわけでドラマはこれ以上追いかけなくてもいいけど、アニメ版はネットの荒波を乗り越えながら最後まで追いかける価値があるのかもなあ、とはちょっと思った。緊急事態宣言で何もやることない人は“あくまで正規の方法で”ではあるけど「映像研には手を出すな!」のアニメを見てもいいのかなあとは思います。

 

まあオジサンは古い人間なので、これを書いている間ずっとこれが流れていました。

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大都市圏では緊急事態宣言が出て、テレビもワーワー言ってますけども、こういう時にやっぱり自分は「所詮テレビ局は関東ローカルよのう」と思います。まあ別にいいんですけどね。

 

自分に出来るのは通常営業でテレビのああだこうだを書くだけです。テレビを見る機会が増えるかもしれません。こういう時こそテレビの面白みとおかしみを受け取ってもらえたらな、と思います。たとえば「バイキング」の坂上忍に目くじらを立てるのではなく、その裏でテレワークされまくりでひとり孤独にスタジオにいるナンチャンがちょっと面白いことをやろうとしていること。スタジオに誰もいなければナンチャンははしゃぐ。これがテレビの「おかしみ」であることに多くの人が気付くようになれば、在宅率が上がり、そしてコロナが収束する。

 

今こそ、テレビ見ようぜ。

 

どうせ死ぬなら

いやー、緊急事態宣言ですか。北海道は含まれていませんけども、大都市は行動制限などがかかるんでしょう。2020年が始まったときには思いもしなかったような事態に突入していますね。自分が生きている間にこんなことになるとはねえ。仕方ない。

 

かなり捨て鉢なタイトルになっていますけども、別に絶望しているわけでも投げやりになっているわけでもなく、単にあいみょんの曲のタイトルから拝借しているだけです。ただまあそういう気持ちの話をこのあと書きますけども。

 

テレビ局もこの事態に対応するために右往左往している。TBSとテレ東が2週間の番組の収録を中止を発表すると、続いて日テレもロケとスタジオ収録を休止すると発表。おそらく他局も最終的には追随する形になり、実質バラエティ番組はしばらく休止に追い込まれることになるだろう。さすがにニュースやワイドショーは休止になることはないだろうけども、テレビの娯楽部分が止まることになるのはほぼ間違いなさそうだ。

 

こういう機会に再放送をガンガン流すのは賛成だ。もちろん権利関係があるので、そんなに簡単に昔のものを何でも流すわけにはいかないのだろうけども、こういう機会だからこそ頑張って権利関係をクリアして、昔の面白いものを流すことができるというのは、テレビ局にとって逆にチャンスなのではないかとすら思う。志村けんの追悼番組が軒並み高視聴率なのも、志村けんが国民に愛されていたことはもちろんのこと、仕方なく在宅している人たちの興味をしっかりひきつけていたことが大きいだろう。家にいて興味のあるコンテンツがあれば、まだまだテレビは見られる立場にある。

 

というわけで世間の人はかつてのテレビの名作に目を輝かせながら再放送を見てほしい。自分はその間、今まで録りために録りためていた膨大な録画群をここぞとばかりに消化したいと思う。新しいものが放送されない今、見るものなんぞ再放送がなくとも手前でいくらでも有している。

 

死ぬ間際まで自分はテレビの録画を消化し続けるんだろうな、という不毛な予感はある。でも死ぬ前には「いやあ、もう思い残すことも見てない番組もない」という状態でありたい。見ても見ても新たに見るものが登場する現状ではその状態はとても無理。新たな番組が収録できない今が自分にとってもチャンスとしか言えない。地上波は2週間休んでよし!その間に自分は録画を思いっきり消化する!

 

でもおそらく魅力的な再放送を放送されるとなれば、それも見ちゃうし録画しちゃう。そして結局録画がたまっていくんだ。これはもはや業でしかない。何の業かはさっぱり分からないんだけど。とりあえず地上波のバラエティが止まったら、その間に自分は「デート」「カルテット」「逃げるは恥だが役に立つ」あたりのドラマを消化したいと思う。どれも再放送されそうなラインナップだな。

 

ヒラヒラヒラク秘密の扉

「99人の壁」に不適切演出があったと。

 

「99人の壁」は佐藤二朗がMCを務めるクイズ番組。100人の挑戦者が各人得意なジャンルで問題に挑戦し、残り99人が敵となる。5問勝ち抜けることが出来たら100万円がもらえる。最近では当初のルールからは色々と変わってしまったけども、「99人VS1人」という構図が変わらなければいいのかな、とは思いながら見ていた。

 

そんでまあ、実際は100人の中に解答権がないエキストラが混じっていたとのこと。正確に99人いなかったというわけですね。多い時には20人くらいエキストラがいたのだとか。番組コンセプトを自ら逸脱してしまっているわけで、これは怒られても仕方ないと思う。ただ、番組が終わったりすることはない、との情報。まあそんなもんじゃないっすか。そのくらいの温度の問題だと思う。

 

こういう問題が出てくると「ヤラセ良くない派」と「テレビなんてヤラセばっかりじゃん派」が必ず出てくる。ヤラセ(≒演出)の許容範囲は各人によって違うと思う。自分はわりかし寛容なほう(楽しければいいじゃない)ではあるけれど、「クレイジージャーニー」のやつはやっぱりちょっと違うかなあ、と感じたりもした。だから今回の件も怒る人もいれば自分のように何も感じない人もいるのはごく自然。

 

実のことを言えば、普段から見ている番組なんだけど、なぜかあまり何か書こうという気分にならなかった。自分の心の奥底で「そうであっても不思議じゃあないな」と思っていたんだろう。もちろん普段から「どうせ出演者はエキストラなんだろ?」と疑いながら見ていたわけではない。割とまっすぐに楽しんでいた部類だ。なのにこういう問題が表面化したときに「えーー」とならず「あーー」となったのは、やっぱりそういうことなんだろう。普段顕在化していない意識ってのは、こういうときにはっきりしますね。

 

ここまでが前置きである。どうだーい、うっとうしいだろー?(くまだまさし風)

 

アメトーーク」を見てはっきりしたね。自分はみちょぱみちょぱをちょぱちょぱしたいんだと。

 

アメトーーク」では「実はすごいぞみちょぱ芸人」ということで、みちょぱこと池田美優が女性タレントとしていかに優れているかを芸人たちが力説する回が放送されました。先週の予告段階からとても楽しみで、そして実際録画を酒飲みながら確認して、最初から最後までニヤニヤしながら見ていました。たぶんスタジオに登場したクロちゃんよりキモい感じで見ていたと思います。

 

自分がみちょぱを「手練れだ」と感じたのは、「キングオブコント2018」のアンバサダーとして登場したとき。まだバラエティに出始めの頃で、自分も「ギャルのモデル」くらいの認識しかなかった。おそらくギャルという立場でのかき回しを求められていたはずなのだが、随所に芸人に対する細かなリスペクトが見られ、「ああ、これはいいギャル」だと思ったものです。

 

それ以降自分はみちょぱを「手練れ」だとは思いつつもそれほど意識することなく、単純にエロい目線で見ていたわけですが、まさかこんなみちょぱの芸能人スキルに光を当てる回が放送されるとは夢にも思わず、そのあまりに素晴らしい内容に珍しく「出たい!」と思いました。自分にとってテレビは見るものであり出るものではないので、あんまり「出たい!」とは思わないんですが、これはちょっと出たかった。出てみちょぱのいいところとエロいところを力説したかったです。

 

けどね、こんな風にいかにも「みちょぱの魅力を最初から気付いていたぞ」といわゆる事後諸葛亮的に書いてはいますけども、実際のところみちょぱの話なんて普段はほとんど口にしていないんですよ。普段自分の口から出る(ブログに書いている)事といえば「堀北真希のワキは聖域である」とか「広瀬アリスと相撲したい」とか、頭のおかしいことばかりです。みちょぱに対して言及したことはおそらくないはず。理由はふたつあって、ひとつは「ギャル好きと思われるのがちょっと恥ずかしい」という単純なもの、もうひとつは「実はそこまでみちょぱが好きだって自分で気付いていなかった」ということです。

 

しかし、先週の予告段階でのワクワクと、その放送を実際に見たドキドキが「ああ、自分はみちょぱ好きだねこれは。間違いないわ」と自分の内なるポテンシャルを気付かせてくれたのですよ。変態チックに言えば「新たな性癖の扉が開いた」ということですね。先日吉本を退社したデッカちゃん風に言えば「きーづいちゃった、きーづいちゃった、わーいわい」です。全く必要ない一文を書いてしまった。

 

ちゅうわけで「アメトーーク」は自分の新たな性癖を顕在化させるという罪深いことをしてくれました。なんてことしてくれたんやアメトーークはん……(海原雄山の用意した鮎を食べる京極さん風に)

 

 

 

 

悲しさと違和感

志村けんが亡くなる。70歳。

 

新型コロナウイルスに陽性反応が出て入院という報道が出たのが1週間前。本当にあっという間の出来事だった。入院して人工心肺による治療を行っているという情報や、主演映画になるはずだった「キネマの神様」の出演辞退が発表された時点で「これはだいぶ危ないんだろうなあ」とは思っていたけども、まさかこんなに早く訃報を聞くとは思っていなかった。

 

志村けんの訃報は「日本におけるコロナウイルスが原因で亡くなった有名人」として最大級のインパクトであると同時に、つい最近まで元気に活動していた人が急死するという恐ろしさを久々に世間に与えた。自分の印象だと大杉漣以来。そして日本のお笑い史においては必ず名前が挙がるであろう重要人物が亡くなったというのも大きい。

 

志村けんの死が与えた悲しみはあまりに大きい。コロナウイルスに対する恐怖と無力感、そして日本芸能史における大きな損失。誰しもが悲しみにくれる気持ちはとても分かる。自分も悲しい。

 

しかし敢えて言わせてもらえば、そんなにみんな志村のことを「今現在」愛していたのかなあとはちょっとだけ思うのだよね。不謹慎と言われるかもしれないが。

 

自分がこういう感情になったのっていつ以来かと考えたら、「いいとも」の時だった。いや皆さんそんなに悲しんでいるけど、本当に志村けんのことを今もってそんなに熱く支持していたのかい?と。悲しいし悲しむのはいいんだけど、そんなに志村けんが亡くなったことで自己表現するほどに悲しいのかな?とはちょっと疑う。

 

もうちょっと突っ込んで言えば、「泣くほど悲しい」と言ってる人は「志村でナイト」をどのくらい見ていたのかな?とか思ってしまうんだ。いやもちろん悲しみに暮れるというのは単にそういうことじゃないとは分かっているんだけど、自分の中にそういうことを言いたくなる自分がいるのもまた事実で。

 

自分の中の「お笑い」の核に間違いなく志村けんはいる。「志村けんのだいじょうぶだあ」は見ていたし、お笑いの中にエロをまぶしてくれたあの得も言われぬ感情はやっぱり志村けんのおかげだし、もちろん「ドリフ大爆笑」も見ていた(「全員集合」はギリギリ世代じゃない)。亡くなったことが悲しいのは間違いないんだ。

 

しかし「今の自分」が志村けんが亡くなったことに対してどこまで悲しいのかといえば、訃報を聞いて泣くほど悲しいわけではない。悲しいけど。けど、「今自分が見ている番組に志村けんはいない」という事実が、「そこまで悲しくはないかな」と思わせる。今泣くほど悲しい人はやっぱり「志村でナイト」くらい熱心に見ている人なんだろなあと考えてしまう。思い出でそんなに人は悲しくなれるもんか。正しく伝わっているかなあ。

 

実際に仕事をしていた芸能人がその死を悼むのはよく分かる。今もって実感があるから。けど自分は「志村どうぶつ園」すら見ておらず、志村けんが今いなくなることにどうしても実感がない。そんな実感がない自分が、過去の思い出だけをよすが志村けんの死を大袈裟なくらいに悲しむことは、冒涜なのではないかとすら思えてしまって。

 

自分の感覚からいけば、今回の志村けんの死は本当に悲しいことであるが、ネットに流れるその悲しみ方は、ちょっと自分の実感よりも「大袈裟」な感じがする。それは今の自分が志村けんに対する実感が伴っていないからなんだろう。世間の人は自分よりもはるかに現在の志村けん摂取量が多く、今そこにある危機志村けんの喪失が相俟って大きな悲しみを呼び起こしているのだろう。そうじゃないと説明がつかないような気がして。悲しむことはもちろん否定しないけど、でもなんかその温度に違和感はある、とでも言えば伝わるか。

 

自分は自分で悲しいことを悲しいと書けばいいんだけども、冷静な自分が「そこまで悲しいわけじゃない」と軌道修正をするジレンマ。ただ素直に「悲しい」と書けばいいだけなのか。でもそれはある種都合のいいウソだと思うと、それも気持ち悪い。なんだかもうよく分からなくなってきた。言いたいことがどこまで伝わっているか、久々にすっきりしない。

 

 

 

とにかく笑えれば

無観客「笑点」は、なかなかに衝撃でしたね。

 

長年後楽園ホールで収録を行っている「笑点」であるが、コロナウイルスの影響で初の無観客収録。笑点の観覧客の多くは老人であり、それがあんだけ集まって万が一発症者が出てしまった場合は冗談抜きに大惨事になる。番組が終わりかねない「笑えない」事態になってしまう。なので他の番組より早い段階から無観客収録を決めていたわけだが、今回の放送分から無観客に。

 

とっても当たり前のことを堂々と書くけども、やっぱり観客の笑い声って大事だなあと思いました。

 

たとえば先日放送された「R-1ぐらんぷり」は割と多く集めたスタッフが、「ENGEIグランドスラムは出演者の芸人が観客として存在し、それなりに笑い声が出ていたように思う。もちろん観客が入っているときとは比べ物にならないけども、それでもテレビで見ていて大きく気になる感じはなかった。もちろん違和感がなかったわけではないけども。

 

しかし今回の「笑点」は、そもそもスタッフの数も多くないし、何より笑い声に張りがない。スタッフもそれなりに高齢なのだろうか、それとも笑点メンバーが作り出す笑いに張りのある笑いがそぐわないのか、それとも単に現場のスタッフがそもそも「笑おう」という気が少なかったのかは分からない。けども、今回の笑点の圧倒的な「笑いの足りない感じ」はまさに異様な光景。メンバーも雰囲気が最後までつかめないまま今回の放送が終わった感じ。

 

「自分の感情が決して投影されているわけではない」と言い聞かせながら書くけども、「終身名誉林家いっ平」(伊集院光命名)こと林家三平の答えに対する乾いた笑いは、「スタッフもっと気を遣えよ!」とテレビの前で少しムカついたくらいだ。三平の面白くない解答にムカついたのではない。スタッフのあまりの正直さにムカついたのだ。

 

普段の笑点における三平の「ただうまいこと言ってるだけで全然面白くない」答えに対して毒づく自分を含むその他大勢の感情を、会場の慈悲に溢れた笑いと拍手が包み込むことによって「それはそれでいいのかもしれないな」と自分の心まで浄化してくれていた。しかしどうだろう。乾いたわずかな笑い声は三平の三平でしかない部分を顕著にし、そして三平の面白くなさを先鋭化する。笑いの少なさは心の余裕の少なさだ。

 

コロナの収束が先か、視聴者と笑点スタッフの笑いが三平に耐えられなくなるのが先か。これは由々しき問題である。だから今後日テレは笑点でも「エンタの神様」よろしく「笑いの付け足し」をやるべきじゃないか。政府が国民に現金を給付するのと同様に、今の三平には笑いの給付が必要だ。そんな奴メンバーにいるのってどうよ、という疑問はさておき。

 

 

 

行き着く先

ちょいと前ですが、「有吉ジャポン」にクイズ王の伊沢拓司が出てました。

 

「東大王」「クイズノック」などに代表される高学歴クイズブームを水上颯(医師になるのでクイズ引退)と牽引してきた中心人物であり、このブームの象徴であることは間違いないのだけど、個人的には「クイズ=高学歴」というやや偏った意識を植え付けている感があんまり馴染まず(もちろん全く関係がないわけではない)、少し引いた意識で見ている。あと「高校生クイズ」に関する考察とかも「うーん」と思ったこともあったりする。こう書いちゃうと嫌っているような印象を持たれるけども、決してそんなことはない。積極的に好きということはないけど、嫌いでは全然ない。これは本当。

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「有吉ジャポン」はその名の通り「サンデー・ジャポン」をベースに有吉が司会を務める、簡単にいえば「ふざけた番組」である。そんなふざけた番組がクイズ王の伊沢氏を呼んでクイズやるって言うんだから、そりゃあマトモなわけがない。そして自分はそういう番組が大好きなので、これは見てしまう。

 

クイズは「有ジャポ」ファミリーからの出題。いわゆる「普通のクイズ」的なものは全く出てこないんだけど、それでもなんとか持ち前の推理力と知識で答えを出そうとするのはさすが。「ドウケツエビが浮気を出来ない理由は?」という問題に対して「偕老同穴の契り」を持ち出して「カイロウドウケツ(という生物)の中から出られないから」と答えを出したのは「有ジャポなのにちゃんとマジメに考えてる!」と思えて自分は少し面白くかった。

 

伊沢氏がクイズプレイヤーとして凄いのはもう分かっていることで、これが少しずつ「割とムチャなクイズに挑戦していく」というフェーズに突入したのはちょっと興味深い。惜しむらくは「BAZOOKA!!」で放送され、しみけんのもう一つの顔を明らかにした「地下クイズ王決定戦」は既に終わってしまった。しかし、もし復活することがあるなら、これはもう伊沢氏を呼ぶべきである。そして伊沢氏がしみけん相手に奮戦したならファンになってしまうかもしれない。

 

それはともかく、今後伊沢氏が自分の専門外のジャンルから色々出題されていき、無茶振りと思えるような問題をバッサバッサ解いていく番組が出来るかもしれないねー。

 

 

それは「林先生の初耳学」だな。

 

ないものねだり

NANAMIっちゅう人は堀北真希の妹らしいじゃないっすか。

 

自分はNANAMIさんのことは一切何も存じ上げません。一応今回の報道で「モデル」であり「アイデザイナー」であるらしいことは分かったけども、モデルとして活動しているところも、はたまた「アイデザイナー」が何をする人なのかもよく分からない。要するに殆ど何者なのかよく分かりません。

 

しかし姉であるところの堀北真希に関してはよく知っている。これを読んでいただければ自分が堀北真希に関して知っていることが全て書かれている。予め書いておくが、初めて読まれる方は読んでから後悔しないように。久々に読み返したが、これは酷い。自分で書いておいて。

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堀北真希は結婚を機に事務所も辞めている。本人が「復帰するつもりはない」と言っているのだから引退状態だ。もちろん芸能人にはライセンスがあるわけではないので、ある日ふらっと戻ってくる可能性もあるから「休業中」くらいの扱いでいいのかもしれない。ただまあ、戻ってこないんだろうなあという気はする。そのくらい堀北は気高く、ワキは尊い

 

そんな自分のような人間の心の隙間を埋めるかのように妹であるNANAMIさんは登場しました。確かに写真によっては堀北真希の面影がある。さすが妹。二親等だぜ。ただのそっくりさんではない。

 

しかし敢えて言おう。NANAMIは堀北真希ではない!

 

物凄く当たり前のことを太字で言いましたが、少しだけ説明を。

 

今このタイミングでNANAMIさんが堀北さんの妹であることをカムアウトしたのは「うやむやにしていても不自然だから」と言ってますけど、それは「そろそろ堀北真希の妹とバラして注目を浴びておきたいから」ということですよね。全然いいと思います。話題になるものはコロナウイルスでも使えということですからね。堀北真希の妹というトランプゲーム大富豪ならば2くらい強いカードを使わないのは、カッコイイけども勿体ないだけ。存分に使うべきだ。

 

しかしそのカードを今まで使ってこなかったのは危険性も承知しているからだろう。NANAMIさん本人がどんなに頑張っても「堀北真希の妹」という色眼鏡が簡単に消えることはない。堀北真希を凌駕する、あるいは同等の活躍をしてはじめて払拭されるものだ。そしてそれを為すために超えるべき壁はあまりに高い。今までカードを使いたくなかった気持ちも分かる。

 

一方で時間だけは誰しも平等に進む。姉である堀北は引退したので、芸能人としては「あの時のまま」であるが、妹は活動をしている以上「ちょっとずつ歳をとっていく」のだ。女性が美しいまま有名になるならば少しでも若いほうがいい。主に女性から異論はあるだろうが、現実そんなもんである。だからこそカードを切るならば、今のタイミングが正直ギリギリだったのだと思う。姉のイメージがあるうちに、しかし姉のイメージが強すぎても辛い。おそらくこの数年は「ずっとタイミングを図っていた」はずだ。

 

ただ、自分は思う。堀北真希の影を利用するようなこの出方は、やっぱり本人が後々キツくなるだけだ。売れなくても、やらないほうが良かったんじゃないかなあ、と。

 

今後NANAMIさんが消費されるとすれば、それは「ジェネリック堀北」でしかない。堀北真希本人がいないから、より堀北に近いもの、しかも血統が同じという「これ以上ないジェネリック」があればそりゃ、堀北を求める人たちからは重宝される。しかしその重宝のされ方は堀北真希の価値であり、NANAMIさんの価値じゃあないわな。それは辛いことではないのか。

 

兄弟や姉妹は、そこに「同じもの」を求めると不幸になる。真っ先に思いつくのは有村藍里だ。妹は有村架純。姉は姉で決して超絶美人ではないが、普通に生活しているぶんには全然問題ないレベルだった。しかし同じ系統の顔として「正解」というべき妹が存在したものだから、そこに執着するあまり、大掛かりな整形をした。もちろんそのことが悪いとは言わない。しかしどんなに頑張っても有村藍里有村架純ではないわけで、今現在有村架純がいる限り、同じ舞台に藍里の出る幕はないのだ。藍里は藍里のまま「自分が求められるもの」を探るべきだった。兄弟姉妹は似ていても基本は別者なのだ。

 

その好対照が広瀬アリス・すず姉妹である。広瀬すずが世代を代表する女優であることはおそらくそんなに異論が出ない。一方でアリスはすずと比べれば若干ガタイも良いし、ゴリっぽさがある。どちらも美しいが、どっちかと言われればやっぱりすずだろう。しかしアリスはアリスですずと同じ方向を追うのではなく、コメディエンヌとしての才能を開花させた。また脇役でも活躍出来るという強さも身に着けた。すずと同じ方向に向かっていたら、間違いなく腐って潰れていただろう。姉妹は似てはいるが同じではないという良い例である。

 

NANAMIさんは今か今かと、堀北真希の妹であるというカードを使う時期をずーっと見定めてきたはずだ。しかし堀北真希が引退して「ないもの」になったあと、それを公表するのは「堀北真希の代わりになる」という選択の余地のない選択肢を選ぶ作業でしかない。しかも相手は人々の記憶の中で神格化されていく。それを「現在」として別人であるNANAMIさんは受け止めきれるのだろうか。

 

 

偉そうなことを書きましたが、「NANAMIさんのワキは堀北真希のワキではなく、それはジェネリックとかではなく最早どうしようもないので、ただのないものねだりでしかない」という意味です。それだけです。