新会長決定

東京オリンピック組織委員会の後任会長に求める「5つの資質」みたいなのが話し合われているそうですね。

 

1「五輪・パラリンピック、スポーツへの造詣の深さ」

2「男女平等や多様性など五輪憲章の理念を実現できる」

3「国際的な知名度や国際感覚がある」

4「東京大会の経緯や準備状況への理解がある」

5「組織運営能力や調整力がある」

 

だそうです。この条件からは「女性である」なんてことは一言も言ってないような気がするんですが、これまでの経緯から女性がなることが前提条件みたいになっているのは気持ち悪いですね。ただまあ自分が気持ち悪いと思おうが思うまいが、それで決まるのであれば別にいいのです。気持ち悪いとは思うが否定する理由がない。

 

このままで行けば橋本聖子がなるのでしょうが、そこはいったん「本当に橋本聖子でいいのか?」とは考えたいですね。自分はもっといい人物を知っているので、推挙してみたいと思います。おそらくみなさんお気づきでしょうが、そう、江角マキコですね。以下条件に適合していることを検証。

 

1「五輪・パラリンピック、スポーツへの造詣の深さ」

江角マキコといえばタレント活動する前はバレーボール選手だったことは全世界が知るところです。五輪・パラリンピックへの造詣が深いのかは知ったことではありませんが、少なくともスポーツへの造詣は自分よりは深いはずなので平気です。

 

2「男女平等や多様性など五輪憲章の理念を実現できる」

長嶋一茂の自宅の塀に「バカ息子」と意見できる江角は、そもそも男女差をもろともしない胆力があります。平等かどうかを論じることすら虚しい。五輪憲章に「塀に落書きしてはいけない」という理念はないので、これも問題なしです。

 

3「国際的な知名度や国際感覚がある」

橋本聖子に比べれば国際的な知名度は劣るのでしょうが、国民年金保険料の未納があったにも関わらずキャラクターを務めていた、という面で「どうせ返ってこないものを払っても仕方ないだろう」というシニカルさは橋本聖子よりも国際感覚があるような気がします。もっとも江角が未納だったのはわざとではなかったのですが。

 

4「東京大会の経緯や準備状況への理解がある」

ある。間違いない。長井秀和にでも言わせておけば説得力もあるだろう。

 

5「組織運営能力や調整力がある」

江角のドラマ代表作である「ショムニ」を見れば分かるとおり、全てはミニスカを履いて言い切りのセリフで決めれば組織は運営できるわけです。これぞ適任。

 

 

というわけで次の会長は江角マキコに任せてみましょう。橋本聖子と違って閣僚を辞任する必要もないのだから。ついでに言えばたぶん今年もオリンピックは出来ないはずだから、誰がなってもとりあえず大丈夫よ。

 

 

 

お別れにむけて

「俺の家の話」を3話まで。

 

宮藤官九郎の最新作にして、長瀬智也の最終作になるであろうこのドラマ「IWGP」「タイガー&ドラゴン」のクドカン・長瀬・磯山晶Pの座組みによる最後の作品におそらくなるのだろう。もちろん未来は分からないが。

 

プロレスラーとしてピークを過ぎた主人公の寿一(長瀬)は、父親であり能楽人間国宝である寿三郎(西田敏行)が倒れたこともあり、宗家を継ぐ決心をし、実家に戻ってくるところから話が始まる。導入部分だけを聞けば、今までのクドカンドラマのような小ネタありつつのドタバタかつスピーディーな展開が待っていてもおかしくない。実際長州力に関しては小ネタが炸裂しているが、もう、そういうんじゃないのだ。

 

このドラマは、全てが「終わり」に向かっているように自分には思え、見ていてずーっと何とも言えない寂しさに襲われるのだ。

 

まず最初に「これが長瀬智也という俳優の最後のドラマなのか」という寂しさ。ジャニーズ事務所を退所し、今後は裏方に回るという発表をしている長瀬。額面通りに受け取れば、これが最後の出演作になる。しかし画面の中の長瀬は相変わらずカッコよく、そして華がある。こんな裏方いないだろ、とすぐにでも言いたくなる。ジャニーズじゃなくても俳優はできるじゃないかよ。軽々しくそんなことを言いたくなる。しかし長瀬智也の俳優人生は、このドラマの最終回とともに終わりに確実に終わりに向かっている。惜しい。哀しい。

 

そして次に介護問題とリンクした「寿三郎の終わり」が見える。余命宣告をされている寿三郎。第3話では「死に方が分からない」と、介護士であり後妻業の女でもあるさくら(戸田恵梨香)に漏らす。自分の死に際を見つめながら、なおかつ能楽師として舞台復帰を諦めておらず、その上で「風呂敷を広げ過ぎた」と自分の最後を模索する姿は、「終わり」の究極である「人生の終わり」とともに、全ての「終わりとは何か」を問うている気がする。それは長瀬智也の俳優業の終わり方にもつながるのかもしれない。

 

座組みもクドカンドラマではお馴染みの人が集まっている。いつもの人たち、というだけなのだけど、これも「終わり」という視点と考えれば「クドカン×長瀬の集大成」的な意味合いにしか見えない。ただの気のせいであることは百も承知なのだけど、もうずーっと寂しい。涙が出る。

 

ドラマは始まれば終わる。人生も始まれば終わる。人は生まれ、いつか死ぬ。長瀬智也もデビューすればいつかは引退する。ドラマは予め終わりが決まっているものではあるが、ドラマの中の役者が、ドラマの中での人生が、そして自分の中の大切な何かが、全て「終わり」に向かっているのを意識させられることはあまりない。いろんな意識が綯い交ぜになり、自分は涙が止まらなかった。これを見たら、確実に何かが終わるんだと。

 

決して自分の人生が終わるわけではない。出役としては引退かもしれないが、長瀬智也の人生が終わるわけでもない。しかしこのドラマは確実に何かを終わらせる。終わりから目を背けない覚悟はあるか。そんな風に問われている気がした。あくまで気がするだけで、ドラマの作り手はもっと気軽に楽しんでほしいと思っているはずだが、得てして作者と読者、作り手と受けての意識が合致することは稀であり、これでいいのだと思う

 

 

たりないふたり

花田優一がせっかく父親のモラハラや暴力を告発したのに、全然話題になってない。

 

記事の中身はけっこうすごいことが書いてあり、自分は「貴乃花ならさもありなん」と思いながら読んでいた。一方で告発したのが優一でしかないので、鵜呑みには出来ないとも思っていた。そこそこナイーブなネタではあるので、なんか書きにくいなあと思っていたんだけども、そこを身も蓋もない形で見事な文章にしていたサイゾーウーマン(サイゾーは普段ももクロちゃんを無意味にディスるので大嫌いだよ!)の文章を引用してみたい。

 

そして心配した母の進言で病院に行ったという。しかし、なぜか記事には診断結果(たとえば全治⚫週間とか)の記載はない。かなり盛っているのでは、と疑問に思わざるを得ないのだ。

 一方で、貴乃花も「離婚は優一のせい」だと週刊誌で発言するなど、息子への不信感をあらわにしてきた。そもそも自分たちの離婚を息子のせいにするというのは、どういう神経だと思うが、そんな父親なのだろう。つまりどっちもどっち。

 そう考えると、この告発も半分くらいに思いながら読むといい。

 

www.cyzowoman.com

「つまりどっちもどっち」にこの騒動の全てが凝縮されており、非情に味わい深い。知の集合体ヤフコメを見ると貴乃花擁護のコメントが多く見受けられるが、いくら告発したのが優一とはいえ、加害者とされているほうを擁護している神経がよく分からんし、貴乃花が相撲道に邁進している(していた)と未だに思っている人がそこそこいるんだなあ、気持ち悪いなあという気分にはなる。いくら優一でも本当に暴力振るわれていたなら同情の余地はあるだろうに。

 

普段は「暴力は絶対良くない」的な論調がはびこっているのに、なんで貴乃花が優一に暴力振るうのは見過ごされるのか。本来ならもっと大騒動になってもいいだろ。家庭の事だからスルーという話でもないだろう。「事実かどうか怪しい」というのがあるにせよ、結局「殴られているのが優一ならしゃあないね」ということじゃないのか。あるいは「何の根拠もないけど、相撲道に邁進している貴乃花はそんなことしない」と、謎の幻想を抱いている人が一定程度いるってことじゃないのか。こういうことがたまに透けて見えるから、世論なんて信用ならんわけですよ。たとえ相手が大悪党でも善人でも「暴力はいかん」の論調になるべきだし、ならんのなら何の意味もないだろうよ。こういうダブルスタンダードってなんなのでしょうね。

 

そりゃ花田家の内輪揉めなんて週刊誌巻き込まずに勝手にやってろ、とはみんな思っている。自分ですら思っているのだから、世間は完全に興味はないのだ。しかしいくら優一が告発しているからといってウソと決めつけてはいけないし、貴乃花だからといってやってないということにはならない。優一は世間の反応の薄さに「何でだよ!」と思ってそうだけど、「そりゃそうだよ!」って伯山が薄ら笑いしながら言ってあげるのが優しさじゃないかとも思う。そんなことないな。

 

 

 

新橋ミュージックホール

NHKの朝ドラ「おちょやん」が面白くないですねえ。

 

始まった時から「あー、これはヤバそうなやつだな」という感じはありましたが、そこから持ち直すドラマもたまにありますが、大体は下降線をくだり徐々に面白くなさが増していきます。「おちょやん」はまさにこれ。類似性が指摘される「わろてんか」、名倉潤ゲームしかやることがなかった「べっぴんさん」レベルでヤバいです。自己ワースト「ファイト」ほどではありませんが、まあまあヤバいやつです。

nageyarism.hatenablog.com

主演の杉崎花ちゃんの素晴らしさは語るまでもないのですが、主演が素晴らしいのとドラマが素晴らしいのは全く別。「べっぴんさん」の芳根京子さんも「ファイト」本仮屋ユイカさんも素晴らしい女優ですが、ドラマが面白いことの担保にはなりません。逆に言えば主演が素晴らしい(あるいは出演者が素晴らしい)ので最後までなんとなく見てしまうことに朝ドラらしさがあるとも言えます。

 

だから「おちょやん」も既に録画を消化するのが少々ダルい感じになっていますが、それでも惰性で見てしまうのです。自分の中で朝ドラは一回見なくなるとまたしばらく見なくなりそうな気がするのです。次の次の朝ドラ「カムカムエヴリバディ」は期待しているので、そこまでは見たい。

 

「おちょやん」のつまらなさは色々指摘されておりますが、その中でもよく見るのが「父親のクズっぷりがキツい」というもの。トータス松本演じる父親テルヲが借金ばかりこしらえて主人公の千代(杉崎)に迷惑ばかりかける、というもの。千代が奉公に出されるきっかけになった、だけだったならまだしも、奉公先の大阪でも、そして現在進行形の京都でも千代に迷惑をかけ続ける父親にうんざり、という声は分からんでもない。

 

自分もトータス松本が出てくるたびに「ああ、またか」とげんなりするのですが、ちょっとだけ他の人が感じている理由と違う部分があるような気がします。それは「トータス松本の演技が苦手」というもの。

 

日本の知の集合体こと「ヤフーコメント」を見ると、「父親が出てくるたびにイヤな気分になるが、それはイヤな父親を演じているトータス松本の演技が素晴らしいからだ」みたいなコメントを見かける。自分はそれを見て「本当かよ」と思う。だって、トータス松本の演技って上手いか?

 

こんなことを書けばアンチトータス松本だと思われるのかもしれないが、自分は20年来のウルフルズのファンなのです。アンチなわけがない。めちゃくちゃ好きです。でもそれはウルフルズが好きなのであり、トータス松本全肯定の好きではないことも添えなければいけない。

 

自分はウルフルズを追いかけていますので、かつてトータス松本が歌を辞めて演技一本で勝負しようか、と思いかけていたことを知っています。そのきっかけになる映画が「UDON」なのですが、どのくらいの人が見たでしょうか。「踊る大捜査線THE MOVIE」で特大ヒットを飛ばしたあとの本広克行監督がメガホンを取ったのでご存じの方も多いかもしれません。映画はつまらないです。

 

「UDON」はユースケサンタマリアと小西真奈美が主演で、トータスは3番手だったと記憶しています。そこでバリバリ演技しているのですが、自分は「下手ではないけど、なんか演技が鼻につく」と思っていました。これで演技一本でやれるのかよ、と思いました。映画そのものも最後にトータスに唐突に代表曲「バンザイ」を歌わせたりと、いいところがひとつもないです。

 

そして自分は当時の日テレ月10枠(読売テレビが制作していた枠)で最低視聴率を叩き出し、早々に打ち切りになった「ギンザの恋」も見ているのです。トータス松本主演の最初で最後のドラマです。中村玉緒と親子の役でした。今となっては視聴率5%前後のドラマなど珍しくもないですが、2002年当時はドラマで10%を切るなんてのは爆死もいいところでした。

 

自分はこのドラマに関して殆ど何も覚えてませんが、少なくとも「ドラマそのものがめちゃくちゃつまらない」とは思っていなかったと思います(もちろん面白いとも思っていなかったと思いますが)。ただ、やっぱり記憶におぼろげに残っているのは「トータス松本の演技はなあ」である。

 

「いだてん」では「前畑ガンバレ」の実況で有名な河西三省アナウンサーを演じていましたが、ここにはあまり違和感がなかった。おそらくトータスに余計な演技をさせなかったからだと思います。だから使い方によっては悪くない。けど、ドラマの中で目立つ役になってしまうと、途端にそのエグみが出てくる。

 

そして時は流れ2021、やっぱりテレビの前で見るトータス松本の演技は「いやあ、なんだかなあ」なのだ。役柄のクズっぷりがどうこう、ではなくて、単にトータス松本の演技のエグみがそのままエグみとして伝わってくる。だから、出てくるたびに自分は「またかあ」と思ってしまいます。

 

これは単に好みの問題であり、もちろんトータス松本の演技を評価する人がいても不思議ではありません。ただ、長いことトータス松本の演技をちょいちょい眺めていた自分としては「そんなわけあるかよ」とは思うだけです。

 

「おちょやん」が面白くないのはトータス松本のせい「だけ」ではありません。そこは誤解のないようにしたい。トータス松本の役が別の人だったとしても、それはそれできっちりつまらないはずですから。これは冗談でもなんでもなく、タイトルとあらすじだけを見たらふざけているとしか思えない「江戸モワゼル」のほうが全然面白いですから。制作しているのは「ギンザの恋」で爆死した読売テレビなんですけどね。

 

 

気付いてしまった

「千鳥のクセがすごいGP」を見ていて、気付いてしまったことがある。

 

水曜日のダウンタウン」で令和を自力で的中させたコンビとして一躍有名になったななまがりがネタを披露していた。ムーシー藤田としても有名な(有名な?)ボケの森下が次々と変なやつとして登場するネタ。

 

その中で「架空の下ネタ」を持って登場する変なやつが登場する。架空の下ネタはギンモといい、謎の塊で23cmある。ツッコミ初瀬の身長が180cmでギンモの7.82倍でありいやらしいと言って去っていく。ネタとしては初瀬が「計算早かった」というのがさらに面白いのだけど、今回はそこじゃない。

 

この後VTR明けでスタジオゲストだった川栄李奈(人妻子持ち)に千鳥が「架空なんでギンモって言ってもらってよいか」と迫る。そして川栄も架空なので「ギンモ」と言ってくれる。スタジオでは「言い方がやらしい」と盛り上がっていた。それでおしまい。

 

しかし酒を飲みながら上機嫌で「おもしれえなあ」と思って見ていた自分は、ふと我に返り、気付いてしまった。

 

 

これ、日常生活でも応用できるんじゃないか?

 

 

頭おかしいと思って人はそっとページを閉じてくださいね。以下続く。

 

まず最初に考えたのが、このギンモ同様「架空の下ネタ」を相手に言わせて興奮するパターン。これは自分が恥も外聞もない高校生くらいだったら実際にやっていたかもしれない。もちろんギンモでもいいし、なにかもうちょっと絶妙にやらしそうでやらしくない単語を考案し、それを大した理由はないけど言ってもらう。まあそんなコミュニケーション力が高校生の頃にあったら、そんな周りくどいことしなくてももっといやらしいことも出来たろうに、とかは思うけど、実行に移していても不思議ではない。

 

しかし自分もいい加減オッサン。さすがに日常生活でそんなことを言わせようとしていたら、下ネタではないけども「あいつガチでヤバい」という評価に直結するわけで、さすがにそんなことは出来ない。まあやろうと思えばできるけど。

 

となれば、もうこれは勝手に自分が意識改革すればいいだけである。日常生活にある言葉を架空の下ネタに仕立て上げればいいだけですね。例えば今のご時世ならば「テレワーク」。いったんテレワークの意味をバカにすれば、日常会話で「ここ最近はどのくらいテレワークしましたか?」と聞いて「週3回くらいですかね」と答えられたら「え?テレワーク週3回もやってんの?週3でテレワーク?」と興奮できるわけです。字面も反応もいたって普通ですが、自分の中では「あんな人が週3でテレワークやってるとかこれはもうめちゃいやらしいじゃないですか」となる。もちろん興奮はその時点でおくびにも出してはいけない。出したら逮捕。

 

そんな「セルフ架空下ネタ変換術」が日常生活で出来たら、もうこれは最強。AVいらず。普段の生活がエロスで溢れ、ただテレビで流れる何気ない会話が全てエロスに。身が持たないかもしれないが。

 

しかしななまがり森下のキャラくらいヤバい人である自分は、さらにこんなこと考えちゃうわけです。

 

あれ?この真理に気づいている人はもう世界に何万人と存在するのでは?

 

だって自分くらいのしょうもない人間でもこの世界の真理に到達してしまうのだもの、自分以前にこの真理に到達している人たちがいないはずがない。しかもそんなことにいとも簡単に気付けてしまうのは、そりゃあ頭の回転が速くキレ者に決まってますね。しかもその事に気づいた人間だけが、そのエロスを共有し皆で興奮する。そんなことをしている人たちが世界にはいますね。

 

そう、メンサです。

 

メンサとは自称「人口上位2%の知能指数 を有する者の交流を主たる目的とした非営利団体」を標榜していますが、その実際のところは「セルフ架空下ネタ変換術を自由に操る集団」だったのです。こんな集団であることを大っぴらに開示してしまうと恥ずかしいので、気取って「知能指数高い集団」を名乗っているんでしょう。だってよく考えてほしい。メンサって名前がそもそも架空下ネタっぽいじゃないですか。堂々と架空下ネタを名乗っている大胆不敵な集団、それがメンサ。

 

「セルフ架空下ネタ変換術を自由に操る者の交流を主たる目的とした非営利団体」だとすれば、こんなに合点がいくことがない。たまにテレビで「メンサの会員です」みたいな人間が登場しますが、何を堂々とメンサであることを名乗っているのか。今後自分はメンサの会員と名乗る芸能人は、全てななまがり森下みたいなもんだと思って見ることにします。

 

ななまがりのネタ以上に頭おかしいことを書いてる自覚は、ある。

 

精神の谷間

気付いたらもう1月後半でやんの。仕方ない。2週間休みなしで働かされていたらこうなる。テレビもあんまり見れてない。最低限こなしている感じです。「江戸モアゼル」のことを全力で書きたい気持ちは山々なのですが、いかんせん疲れていて、いまいち気分が乗らないのです。

 

テレビ見れてないってのが一番の理由ですけど、それと同時に年末にオリエンタルラジオが吉本辞めて独立つう話に対して、自分の中で「なんか喉に小骨引っかかってる感」があり、自分の考えを言語化するまでにもうちょっと時間がかかりそうで、そこもすっごいもやもやしていたり。年明けてからずーっと精神的に「やや下降気味」です。仕事のせいもありますが。

 

もう少し仕事が落ち着いてきたり、テレビを見る時間ができたりと余裕が出来れば変わってくるのでしょうが、今はまだ精神的に谷間にいる感じですね。

 

と、ここまでが前置きです。言いたかったのは「谷間」だけです。もちろん書いたことは嘘ではないのですけど。

 

映画「記憶にございません!」の地上波放送があったので、録画を見ました。三谷映画は極力映画館で見ようと思ってはいたのですが、いかんせん気付いたら映画終わってたくらいの生活をしているので、今回も見ることなく普通にスルーしてました。だから地上波でやってくれるのは本当にありがたい。「ギャラクシー街道」は完全に無視されてますけども。

 

内容としては、「三谷幸喜は『総理と呼ばないで』をもう一回しっかりやりたかったんだろうなあ」という感じです。かつて田村正和主演で放送された連ドラ。前評判は高かったけれど、それほど話題になることなく終わったドラマ。三谷幸喜の中で消化不良だったんだろうなあ、と。今の田村正和では難しいので、中井貴一で多少設定を変えて再挑戦、みたいな印象でした。普通に面白かったですが、映画の尺では逆に物足りなくて、連ドラで見たかったなあと。

 

とまあ今更映画の感想なんて書いたところで誰も読まないわけです。そんなことを書きたいわけではない。自分が精神の谷間で気になったのは「無駄に炸裂した吉田羊の谷間」です。

 

ただのスケベじゃねえか、と言われればそれまでですが、スケベを置いておきいったん冷静に考えると「吉田羊が谷間を晒す必然性はあんまりなかった」という事実がなんとなーく最後まで頭に残る映画なんですよね。

 

吉田羊の役は記憶喪失の総理大臣(中井貴一)の同期の議員で野党第二党の党首であり不倫相手。ホテルで密会して情事に及ぼうとする役なので、そりゃあ脱ぐんですけども、なぜか中途半端に谷間だけ見せつけてくるのです。誰も「吉田羊がヌードになるかも」とは思ってません。そもそもこの映画のテンションにおいて吉田羊が不意に谷間を晒してくるとは誰も思っていないのです。しかし吉田羊は「女優だから谷間くらい見せるわよ!」ばりの圧力で谷間を晒すのです。

 

得、したのかなあ。

 

自分は映画が終わるまでずーっとそんなことを考えてました。そして映画が終わってました。吉田羊の谷間は予想外にエロく、普通に考えたら「期待してなかったけどいいもの見れたな」となるような気がするのですが、今これを書いている最中ですら「あの吉田羊の谷間はなんの意味があったのだろう」と思っている。しかしエロに対して冷静になれることはただの敗北でしかなく、やっぱり不要だったのではないかと思えてしまう。

 

そして何より映画の感想そっちのけで吉田羊の谷間について自分が考えている時点で、映画のストーリーには不要でしかないと分かる。よって結論は「三谷幸喜が見たかっただけ」だろう。

 

自分の精神的には谷間でも、三谷幸喜が谷間を欲していたことは分かる。そんな映画。

 

 

ふるくさいテレビ

あけましたね。何も変わりません。

 

NHKで「あたらしいテレビ」が放送されましてですね。昨年までは「新春テレビ放談」が放送されておりましたが、コロナ禍のさなかに放送されたこちらの番組が取って替わる形で新春に放送されることになりました。

 

でまあ、見たわけですが、昨年までの「新春テレビ放談」を見たときの「自分はテレビをたくさん見ているつもりではあるけど、この会話のど真ん中には決していない」という感覚がさらに加速していくような感じがしました。それというのも、この番組のタイトル「あたらしいテレビ」とは、地上波だけではなく映像コンテンツ一般を指し、それを「あたらしいテレビ」と定義しようとしているからです。

 

「テレビ」とは、地上波テレビだけを指すわけではありません。家庭のテレビ、パソコン、スマホなど、あらゆる媒体で目にする映像コンテンツを上に載せ、映像文化のこれから──<あたらしいテレビ>について考え、深く鋭く語り合います。

www6.nhk.or.jp

そうなると自分はもう「あたらしいテレビ」の住人ではないし、居所がなさそうです。だって地上波以外の映像コンテンツなんて全然見てないもの。YouTubeで見ているものは「アルピーチャンネル」と「東野幸治の幻ラジオ」くらいなものだ。有料配信コンテンツはいまどきひとつやふたつ入会しているのが当たり前なのかもしれないが、はっきり言おう、そんなもの見ている時間などないのだ。自分は地上波の消化だけで手いっぱいなのに、何を有料配信のものまで手が回るというのか。無理無理無理無理。ラジオも聴いてる。仕事の時間が本当に邪魔くさい。

 

有料配信のコンテンツやYouTubeのコンテンツに面白いものがたくさんあることは間違いないだろう。そこを否定するつもりはないのだが、自分は「トータルで地上波より面白いコンテンツなんてあるの?」と未だに思っている。なぜならどんなに頑張っても地上波のみを録画しているHDレコーダーの録画容量が一向に減らないからだ。もし自分の見たい番組が減っている、つまらなくなっているならば、もっとHDレコーダーの負担は減るだろう。減る気配がないっつうことは、まだまだ地上波で自分は充分だ。

 

そして自分は「つまらない番組にもテレビのおかしみがある」と思っているタイプの人間なので、ただ面白い「だけ」のコンテンツにあまり興味がなかったりするのです。甘いものを食べて甘いと思うだけでなく、自分はその中に雑味としての渋味や苦味も味わいたい。渋味や苦味があるからこそ、その甘さが際立つとでもいうのか。

 

カッコつけて書いてみたものの、つまるところ自分は「ふるくさいテレビ」に取り残される人間でしかないということです。十年後には朽ちて消えているかもしれません。ただ自分は朽ちるまで「ミヤネ屋」で芸能人の自殺に対して親身に寄り添うフリをして下世話でしかない様を見て「これこれえ」と思いたいし、そんな内容に怒りを覚えているとテレビで怒るヒャダインを見て「うるせえなあミキモト真珠」と思ったりするのです。

 

正しいもの、面白いだけのものがはびこるテレビなんて何が面白いんだよ。これが目指すべき「あたらしいテレビ」なら、テレビ見るのやめようかな。