ネオ

映画「君の膵臓を食べたい」を見ました。


どんな映画だったか、と問われれば「俺の童貞をあげたい」です。作者こと童貞が思い描く理想の女の子とそのシチュエーションをフルコースで丁寧に映像化しただけ。ラジオ「山里亮太の不毛な議論」で年に何度かメールテーマで募集される「理想の童貞喪失シチュエーション」と大差なく、それを2時間近くの超大作にしたらこうなる、くらいなもんです。いや劇中で童貞喪失はしないんですけども。


とにかく最初から最後まで「都合のいい展開」が起こる。それはまあ小説やドラマであれば仕方のない話ではあるんですが、徹頭徹尾都合が良すぎて、もうどこから突っ込んでいいのか分からない。もうエロゲと同じ。「そういう世界のもの」として見ないとダメ。ハリーポッターに「いや魔法とか使えないから」と突っ込んでしまってはダメなのと同じ。若者はこれに没入できるのが凄い。最初から「そういうもの」という棲み分けが出来ているのならさすがの若さだし、そもそも突っ込みどころが気にならないのであれば、もう住む世界が違う。ただまあ30代の我々の世代は「世界の中心で、愛をさけぶ」あたりで涙していた世代。バカにはされてもバカには出来ないのだ。


この映画が「そんな事起きるわけねえだろ!」と最後夢オチで頭を叩かれたほうがどんなに救いがあるか。これを無理やり感動の話に着地させようとしているところが逆に地獄。救いがない。無論救われないのは「これに感動してしまった若い頃の自分と対峙するとき」であるが。これを堂々と作品として上梓している作者住野よるは皮肉ではなく大した才能だと思う。SEKAI NO OWARIの突き抜け方と同じで今後「恥ずかしい」という概念に捕まることがなければ、という条件でだけど。


若者(特に10代)に受ける映画ってのは確かにあって、そういうのは大体が少女漫画原作でカワイイ主人公がイケメンと結ばれるつう話で、そちらは散々量産し尽くされているのだけど、この映画及び原作はそうじゃない。主人公こそ女性メインだけども、その中身は「男性の目線から描かれた完全なる童貞映画」である。これは珍しいんじゃないか。


童貞映画といえば「パンツの穴」みたいなちょっとHなラブコメみたいなのを思い浮かべる。この映画にも出演していた小栗旬も昔「Stand Up!!」という童貞卒業を目標にしたドラマをやっていた。童貞映画及びドラマっていうジャンルは昔からある。ただまあそのどれもが「童貞である」ことを隠さず標榜し、そのまっすぐさや滑稽さを青春のカウンターパンチとして笑うわけだ。


しかしこの映画は「君の膵臓をたべたい」というキャッチーなタイトルからして童貞っぽさを隠す。オサレを、純愛ドラマを気取る。しかし中身は隠しても隠しきれないほどの童貞臭。そのくせ「童貞こそ純愛」みたいな描き方をして、恥ずかしさをごまかしている。今の若者の童貞の距離感ってこんな感じなのかもしれない。まさに「ネオ童貞映画」と呼ぶに相応しい。童貞のしょうもないイマジネーションは小説にしろ、ということか。何度も言うけど地獄だな。

思てたのと違う

となりのトトロ」をついうっかり見てしまったのです。


となりのトトロ」に説明なんかいらないような気はしますが、一応書いておけば宮崎駿の監督作品の映画。1988年の作品だから、もう30年前のものだ。30年前のドラマが再放送されることはめったにないが、30年前の映画はこうしていまだに放送されるのだから、やはり映画の凄さというのを改めて思い知らされる。無論「となりのトトロ」という超名作だからこそ、ではあるんだけども。


自分が小学生の頃から、事あるごとに目にしてきたこの作品。テレビはもちろん、学校なんかでも上映されたりして、そのストーリーはしっかりと頭に入っている。だから今更見たところで「懐かしさ」こそあれ、何か改めて感動するとかそんなことはないと思っていた。思っていたのよ。


しかし自分は齢をとっていた。子どもの頃見ていたものとは全く別のところがガンガン心に引っかかる。全く同じものを見ているはずなのに、自分の記憶とは全然違うところが刺激されてくる。なんだろう、全然思っていたのと違う。「トトロがかわいらしい」とかいう感想じゃない。「映画全体を貫く無垢さが自分に完全に欠落していて、なんか辛い」だ。自分のことを必要以上に卑下しているわけじゃない。けど、自分にはこの無垢さはちょっと眩しい。反省したくなる。


自分が子どもだったころ、その時の大人は今の自分と同じような気分でこの映画を見ていたのだろうか。それとも子どもたちと同じように無垢な気持ちで見ていたのだろうか。なんというか、自分の「大人としての至らなさ(簡単に言うと独身子どもなし)」が今の感想を惹起しているだけで、普通の大人はこんな気分にならないのかも。


結局ドラマとか映画とか、人間は物語に自分を反映させてしか見ることが出来ないものなのかもしれません。なんかマジメなこと書いてるっぽい感じなのでとりあえず「おっぱい」って書いておきますね。中和。

バズるとはなんぞや

NHK「テンゴちゃん」を見ました。


若者に人気のミュージシャン岡崎体育と3ピースバンドヤバイTシャツ屋さんの4人による、ゆるーい番組。彼らがVTRを見ながらゆるーく感想を述べる生放送だ。以前パイロット版としてファミレスから生中継されていたが、月イチレギュラーが決まったようで、今回はスタジオからCGをバックにお届け。視聴者のtwitterによる反応が番組の背後に浮かんでくるなど、NHKが前々からやっている双方向の放送をふんだんに取り入れた形。


初回のパイロット版はかなりユルかったものの、今回放送されたのは「82歳の被爆体験者森口さんがVチューバ―となって戦争体験を伝える」というもの。まあ放送日が終戦記念日ということもあり、NHKが若者に興味を持ってもらいつつも「こういう変化球な硬派もできまっせ」的なものになっていた。自分からすれば「そういうしゃらくさい感じがNHKっぽくて自分が若者ならとてもイヤですね」ちゅう感じなのだが、実際の若者はどう思ったのだろう。楽しんだのだろうか。


そもそもの話になるが、この手の双方向番組を見るたびに、「本当に双方向番組って盛り上がってるのか?」と毎回思う。この番組中でも「twitterのトレンド1位になった」とか言っていて、画面にはどのくらいの反応があったかが表示されているんだけども、その数は10000を超えるくらいの数だった。まあ深夜番組だし若者向けだし、10000くらいの反応があれば充分に盛り上がっているしバズっていることになるんだろうけども、自分の感覚からすれば「それって視聴率にしたら0.1%にも満たない数じゃないか」と思ってしまうわけで。


まあ単純に見ている数=ネットでリアクションをしている数ではないわけだから、10000を超える数というのは単純に凄いと言えるのかもしれない。しかし逆に考えたら、今やテレビなんてのはケータイ片手に見ているのが当たり前のような若者が、たったの10000そこらの反応しかしていないと考えると、いやあそれは全然少ないんじゃないのかね、とか思ってしまう。


ネットで話題になることを「バズる」といいますが、何をもって「バズっている」と言うのか。定義つう話になると堅苦しいが、単純に「ネットで“ちょっと”話題になっている」くらいで「バズる」っていうんなら、それはもう「局地的に盛り上がっているだけでどうにもなってない」って言い換えていいんじゃないだろうか。


特にテレビ番組が、もっと言えばNHKが用いる「バズる」は相当に怪しいところがあって、「オマエラ誰も追及しないことをいいことに、大してバズってないものでもバズったことにして都合よく用いていやしないか?」と単純に思ったりする。まあNHKの番組「NETBUZZ」を指しているんですけど。


ネットとテレビの融合が叫ばれて久しいけども、いまだに有効な策が見えず、せいぜい「バズったから放送するよ」とNHKが胡散臭いことを言ってるにとどまる。これって本当に最終的にどうにかなるんですかね。個人的には「もうネットの言ってることなんて100%無視する」あたりが一番面白い番組になりそうなんだけどいかがだろうか。あと10年もしたら「ネットの意見なんて所詮ネットの中の個人のしょうもないいち意見」くらいにまで相対評価が下がっているような気はしているんで。マスコミがどの段階でこの考え方にシフトできるかにかかっているだろうけど。


あと若者にとってこれが「面白い」になるんなら、こりゃあもうテレビの未来ってないのかもなあ、とかなり深刻な気分にはなる。なるけど、自分はテレビの未来を担っているわけではないので基本的に危機感はない。テレビの中の人は頑張ってほしい。

庄司直人さん

「99人の壁」を見たのですがね。


「99人の壁」とは佐藤二朗が司会を務めるクイズ番組。自分の得意ジャンルのクイズが出題され、5問連続で答えることができれば100万円。しかし1問ごとに「壁」と呼ばれる25人の対戦相手が増え、最終的には99人を相手に早押しクイズを答えなければならないというもの。もちろん得意ジャンルから出題されているので、基本的には順調に進むのだけども、なかには得意ジャンルがかぶっている人が壁に入っていたりするので、そんなに簡単には100万円を獲らせてはもらえない。


特番が何度か放送されており、今回満を持してのゴールデン登場。MCを佐藤二朗のままゴールデンに持ってきたし、今後何度かの特番を経て来年春くらいにはレギュラー化だろうか、なんて思っていたら秋からもうレギュラーだってさ。とかく今クイズ番組が充実していないフジなので、なんとか上手いことやってほしい。今のままだったらあんまり上手くいかない感じがする。


こういう素人参加系の番組は「自分だったらどうするか」というのをやはり考えてしまう。この番組の場合は「どんな出題ジャンルを選択するか」になるだろう。「ももクロ」ってのが一番分かりやすいんだけど、競合相手も多そうでけっこう大変だ。こういうものは「競合相手がおらず、自分が得意」というニッチを狙っていかなければいけない。となれば自分の出題ジャンルは「田中義剛」になるのか。すげえイヤだな。せいぜい「美味しんぼ」あたりにしておきたい。



それはどうでもよく、今回の番組で気になった点をベスト5形式で振り返ってみたので、まあ適当に読み流してください。

第5位 実況解説がいらない

長嶋一茂とYOUとアナウンサーが解説として存在していたのだけども、単純に番組のテンポが悪くなって邪魔。彼らが挟まらなければもうちょっと解答者の出番が増えたんじゃないのかと普通に思った。

第4位 出題不備ありすぎ

出題不備はクイズ番組には少なからずあるんだけども、それをバカ正直に放送しなくてもいいと思うのですね。それは「やらせだ」とか「誤魔化している」だとかそういう話じゃなくて、その状態を晒すことはクイズ番組にとって必ずしもいいことじゃないでしょう。出題側に信頼があってこそのクイズ番組。不備が出るのは仕方ないけど、極力番組としては省いてほしいなあ。

第3位 今日イチの問題

モノマネ芸人Mr.シャチホコがジャンル「和田アキ子」で勝負。出題されたのが「今年の和田アキ子の誕生日に出席した芸能人の穴埋め」だった。これは笑った。順調に解答していったものの、「岡   」が分からずアウト。シャチホコ曰く「ますだおかだの岡田さんであることは分かっていたが、下の名前が分からなかった」とのこと。正解は岡田圭右(けいすけ)。図らずもいい問題。

第2位 聞いたことある応援歌

ジャンル「古田敦也」にて、挑戦者の紹介VTRが流れている間、古田の現役の時の応援歌がBGMとして流れていた。まあ聞いて応援歌だということはすぐ分かったんだけども、「あれ?この応援歌なんかどこか他で最近聞いたことがあるような?」と思って記憶を辿ったら、全然最近じゃないのだけども「ラブレターズオールナイトニッポン0」における応援歌の替え歌コーナーだった。ラブレターズ溜口は大のヤクルトファンです。

第1位 ビトタケシ放送されず

おそらくジャンル「ビートたけし」で解答者席に回ったはずのたけしの公認モノマネ芸人ビトタケシ。せっかく解答者席に回ったのに、その様子が「敗れた挑戦者たち」みたいな1コマの中に紛れているだけで一切放送されず。同じ芸人でも前述のMr.シャチホコだったり、中井貴一モノマネでおなじみきくりんだったりが放送されているのにこの差はなんだ。自身のブログでもこんなふうに気合いの入った告知をしてくれているにも関わらず、この扱いは酷い。もし自分がビトなら次回の放送に乱入してアウトレイジよろしくマシンガンぶっ放して帰る。ハトヤビトタケシさんを応援しています。

Awa Come

阿波おどり、揉めてるようですね。


赤字の解消策として、一番盛り上がる(=売り上げがある)「総踊り」を分散するかしないか、で市長側(分散を指示したほう)と振興協会(総踊りを強行したほう)が対立。この手の対立は利権をめぐっての話になるので、もうどっちが正しい正しくないのレベルで解決できる話ではない。たぶん来年も再来年ももめるし、何か第三者が仲裁する形でないと決着はつかないだろう。


ただまあ祭りのダイナミズムとして「集団で大量に踊る」というのは欠かせないわけで、そりゃ分散されるよりもまとめて踊ってもらったほうが盛り上がるに決まっている。札幌でもすっかり一時の勢いを失った「YOSAKOIソーラン祭り」があるけども、これだってさすがにファイナルを会場分散でやるとなったら反発は出るだろう。だから祭りとしては振興協会側が正しいような気がするんだけども、果たしてこの騒動は「それだけのこと」なのかは、自分には知る由もない。


そんなことはどうでもいいのだ。


「どうでもよくはないだろう」とは思うけど、北海道の片隅から阿波おどりの騒動の是非を考えたところで、結論は「当事者じゃないゆえ分からん事情も多いし、ここで何を考えたところで」としかならない。だったら考えることはただひとつ。


三田村邦彦は元気なのか。


自分のような阿波おどりに全く知識がない人間としては、「阿波おどり」の関連検索ワード上位に来るのは「阿波おどり 三田村邦彦」となる。三田村邦彦といえば不倫騒動の際に阿波おどりの映像をやたら放送されて「不倫騒動でやけになって踊る阿呆になる三田村邦彦」というイメージが強いのだけど、三田村邦彦はただ阿波おどりが好きなだけの俳優であり、不倫と阿波おどりは全く関係がない。


だからこそとりあえず三田村邦彦wikipedia大先生で調べる。するとこんな記述が!

極度の近眼であり、コンタクトレンズかメガネを使用していたが、2006年、レーシック手術を受け、現在は裸眼である。


12年前にレーシック手術していたんですね。知らなかった。てか12年前のことなのに今初めて知った。三田村邦彦にこれだけ興味がなかった期間が長かったことに反省しなければならない。誰がだ。たぶん全人類が。


そんな「レーシック三田村」に衝撃を受けつつも、色々調べた結果、三田村邦彦が今年阿波おどりに参加した形跡は認められない。あくまでネットの芸能人参加情報によるので、もう一般人としてバリバリ参加していた可能性は否定できないのだけども、少なくとも「芸能人三田村邦彦」としての参加はないようだ。


その代わりに「幸福の科学連」(「連」とは踊り手のグループ)に清水富美加こと千眼美子さんが参加していたようです。とりあえずレプロ連に謝れと言いたい。レプロ連参加してないだろうけど。


阿波おどりの時期はお盆である。お盆とは亡くなった人のことを忘れないように想いを巡らせる期間のこと。そんなこんなで皆さんも阿波おどりの話が出てきたら三田村邦彦に想いを巡らせてみてはいかがだろうか。三田村死んでないけど。

働く人の顔

先日、ススキノのちょっとエロい店で飲んできたんですよ。


あんまり書くとお里が知れてしまうので詳細は省きますけども、なんというかお店のお姉さんのおっぱいが揉める店です。んでハッスルタイムみたいな時間(て書いたけどもハッスルタイム以外の何物でもないか)に、お店のお姉さんのおっぱいが揉めるわけですが、お姉さんが後ろ向きでになって、背中越しからおっぱいを揉めるわけです。背中越しですから揉んでいるほうからはお姉さんの顔は見せません。しかし、対岸で行われている同様の行為が自分からは見えてしまうわけですね。その時の揉まれているお姉さんの顔が「これでもか!」というくらいに真顔だったわけです。


真顔でおっぱいを揉まれる仕事。


揉んでいるほうからすれば「お姉さんが感じまくってすげえイヤらしい顔してるんじゃないだろうかグヘヘ」とか思って揉むんですけど、そうなっているのは揉んでいる男のほうだけで、揉まれているほうは完全なる真顔。揉んでいるほうは非日常のイヤらしい空間ですが、揉まれているほうは日常。そりゃ毎日の仕事のルーティーンですもの真顔になる。それが仕事ってもんです。


何も自分は「プロなら真顔でもまれてるんじゃねえよ!」とか言いたいわけじゃない。むしろ自分は真顔でおっぱい揉まれているお姉さんと、それが見えずにハッスルして揉んでいる男、という構図が面白くて、自分も揉んでいるくせに面白くなってしまう人間なので、そこらへんの機微はどうでもいいのです。


揉みにきているこちらとしても、そういうことは分かっているうえで揉んでいるわけですが、改めて真顔のお姉さんを目の当たりにして、「仕事とはなんだろうか」と考えてしまったのです。


今日、お盆だったので、お坊さんの読経と説法を聞いてきました。とてもシステマチックなものでした。良く言えば現代的、悪く言えば職業坊主、という感じ。仏道を極めんがため、という感覚ではなく、完全に「お寺ってこういうもんですから」という感じ。まあ自分はそれほど信心があるわけではないので、それもあまり気にならない。ちゃんとやってくれればそれでいいんです。


真顔でお経を読む仕事。


そりゃそうですね。ヘラヘラしながらお経は読むものではないです。しかしその真顔には魂の供養感はあんまりなく(個人の感想です)、やっぱり仕事感が強いような気がして。書き入れ時じゃあ、みたいな。感覚としておっぱいを揉まれているお姉さんとそんなに変わらないのでは?とちょっと思ったわけです。


そんなことを考えたのち、録画してあった「クレイジージャーニーSP」を見たわけです。そこには真顔とは程遠い、とてもいい笑顔をしたクレイジーな旅人が自分の仕事をまっとうしていたわけです。真顔とは対極にいるなあ、と素直に思ったわけです。仕事と人生はかくあるべき、みたいな感じ。その一方で「こういう生き方は覚悟がないと出来ないわけで、大部分の人はみんな真顔で仕事をしているよなあ」と再び考える。


もちろん「こんな生き方が出来るのは幸せかもしれない」とも思うんだけど、ここに出てくる人たちはある種の信念と覚悟がないと到達できない領域にいるわけで、「羨ましい」という気持ちと同時に「そんなことはできないなあ」とも思うわけです。だから真顔で仕事している「ことも」幸せなのかもしれない、とちょっと思ったわけですね。


その後「ボクらの時代」でモーリー・ロバートソンが「35歳までに何かに気づいて自分を律した人は目の輝きが違う。周りの顔色を窺っているような人は目が輝いてこない」みたいな話をしているのを見て、今年36歳の目が輝かない大人の自分は「うるせえよバーカ」と思って静かに録画を消去するのでした。その時の自分の顔は間違いなくおっぱいを揉まれていたお姉さんと同じ顔をしていた。


そういう生き方をしています。

僕らが旅に出る理由

更新を2か月もさぼっていましたが、やめたわけではないんですよ。単に更新するチャンスがなかっただけです。ウソです。さぼってました。まあ誰にも強制されてないんでサボったという言い方が正しいのか分かりませんけども。


じゃあなんでいきなり更新しようと思ったのか。なんとなく書きたいと思ったからです。


北海道では東京での放送からそこそこ遅れて「タモリ倶楽部」が放送されています。んでもって先日「旧型の信号機が絶滅しつつあるよ」という回を見たのですね。そこで北海道の信号マニアの学生さんが呼ばれて、色々説明をしていたわけです。


んで彼は信号マニアと同時にAKBの柏木由紀さんのファンでもあったらしく、ゲストとして呼ばれた柏木さんと握手会で写真を撮ったことがあるという話をしていました。実際にその写真も放送されていました。まあこれを「キモい」と一蹴するのは簡単なわけですが、自分はこれを見て「ああ、何かを突き詰めていくとこういうこともあるんだなあ」と妙に考えさせられたわけです。いや全然深い話ではないんですけども。


信号機マニアの彼がどう思っていたか分かりませんけど、テレビを長いこと見ている人間からすれば、「タモリ倶楽部に出演する」なんてことは発想としてないわけです。もちろんタモリ倶楽部にはマニアックなテーマが題材の回があるので、そのマニアックなものにピンズボではまれば出演することもあるんでしょうけど、それは宝くじにあたるようなものであり、普通はありません。


信号機マニアの彼は学生にしてその宝くじに当選したようなものです。それだけでも一生モノの自慢のような気が自分はするのですけども、そこにさらに上乗せして「握手会に参加するほど好きな柏木由紀といっしょに出演する」なんてことが起きたら、もし自分が同じ立場なら卒倒してしまうのではないかと。それが市川紗椰ならともかく、柏木由紀タモリ倶楽部ですから。夢の話でしかないです。裏を返せば、普段テレビで見ているような憧れの人物と「一般人」が出会うには、こういうことでも起きないと無理なんだよなあとも思いました。


だから金持ってる社長が芸能人と付き合う、というのは「金でその権利を得た」という意味では自分は「ある意味健全なのでは」とふと思ったわけです。好き嫌いは別として。手の届かない存在である人物と出会うには「運」か「金」がいる。運はどうにもならないわけで、だったら努力次第ではどうにかなるかもしれない「金」によってそれを得るのは、実は一番正攻法なんだろうなあ、と。タモリ倶楽部のマニアックなテーマで呼ばれたときに自分の好きな人がゲストとして呼ばれる確率と、大金持ちになって芸能人と近づく確率であれば、僅かながら後者のほうが高いのでは?


そんなことを考えながら自分は「チア☆ダン」で土屋太鳳ちゃんの太ももを見てホクホクしています。奇跡は起きない。死ねばいいのに。