働く人の顔

先日、ススキノのちょっとエロい店で飲んできたんですよ。


あんまり書くとお里が知れてしまうので詳細は省きますけども、なんというかお店のお姉さんのおっぱいが揉める店です。んでハッスルタイムみたいな時間(て書いたけどもハッスルタイム以外の何物でもないか)に、お店のお姉さんのおっぱいが揉めるわけですが、お姉さんが後ろ向きでになって、背中越しからおっぱいを揉めるわけです。背中越しですから揉んでいるほうからはお姉さんの顔は見せません。しかし、対岸で行われている同様の行為が自分からは見えてしまうわけですね。その時の揉まれているお姉さんの顔が「これでもか!」というくらいに真顔だったわけです。


真顔でおっぱいを揉まれる仕事。


揉んでいるほうからすれば「お姉さんが感じまくってすげえイヤらしい顔してるんじゃないだろうかグヘヘ」とか思って揉むんですけど、そうなっているのは揉んでいる男のほうだけで、揉まれているほうは完全なる真顔。揉んでいるほうは非日常のイヤらしい空間ですが、揉まれているほうは日常。そりゃ毎日の仕事のルーティーンですもの真顔になる。それが仕事ってもんです。


何も自分は「プロなら真顔でもまれてるんじゃねえよ!」とか言いたいわけじゃない。むしろ自分は真顔でおっぱい揉まれているお姉さんと、それが見えずにハッスルして揉んでいる男、という構図が面白くて、自分も揉んでいるくせに面白くなってしまう人間なので、そこらへんの機微はどうでもいいのです。


揉みにきているこちらとしても、そういうことは分かっているうえで揉んでいるわけですが、改めて真顔のお姉さんを目の当たりにして、「仕事とはなんだろうか」と考えてしまったのです。


今日、お盆だったので、お坊さんの読経と説法を聞いてきました。とてもシステマチックなものでした。良く言えば現代的、悪く言えば職業坊主、という感じ。仏道を極めんがため、という感覚ではなく、完全に「お寺ってこういうもんですから」という感じ。まあ自分はそれほど信心があるわけではないので、それもあまり気にならない。ちゃんとやってくれればそれでいいんです。


真顔でお経を読む仕事。


そりゃそうですね。ヘラヘラしながらお経は読むものではないです。しかしその真顔には魂の供養感はあんまりなく(個人の感想です)、やっぱり仕事感が強いような気がして。書き入れ時じゃあ、みたいな。感覚としておっぱいを揉まれているお姉さんとそんなに変わらないのでは?とちょっと思ったわけです。


そんなことを考えたのち、録画してあった「クレイジージャーニーSP」を見たわけです。そこには真顔とは程遠い、とてもいい笑顔をしたクレイジーな旅人が自分の仕事をまっとうしていたわけです。真顔とは対極にいるなあ、と素直に思ったわけです。仕事と人生はかくあるべき、みたいな感じ。その一方で「こういう生き方は覚悟がないと出来ないわけで、大部分の人はみんな真顔で仕事をしているよなあ」と再び考える。


もちろん「こんな生き方が出来るのは幸せかもしれない」とも思うんだけど、ここに出てくる人たちはある種の信念と覚悟がないと到達できない領域にいるわけで、「羨ましい」という気持ちと同時に「そんなことはできないなあ」とも思うわけです。だから真顔で仕事している「ことも」幸せなのかもしれない、とちょっと思ったわけですね。


その後「ボクらの時代」でモーリー・ロバートソンが「35歳までに何かに気づいて自分を律した人は目の輝きが違う。周りの顔色を窺っているような人は目が輝いてこない」みたいな話をしているのを見て、今年36歳の目が輝かない大人の自分は「うるせえよバーカ」と思って静かに録画を消去するのでした。その時の自分の顔は間違いなくおっぱいを揉まれていたお姉さんと同じ顔をしていた。


そういう生き方をしています。