紙ちゃんが夏帆より「いい」理由

とりあえずコメント欄にリクエストがあったんで書いてみますね。ま、あろうとなかろうと書くつもりだったんですけども。


自分は平岩紙という女優が好きでありますが、同じくらい夏帆も好きです。以前から自分は夏帆のことを「常に絶好調の紙ちゃん」という位置付けであり、両者が同じ系統の顔だということは疑いようもなく、事実「ホームレス中学生」を見ていても「これは紙ちゃんなのでは?」と思って見ている部分がありました。だから単に「好みの顔の系統」であるのは間違いないのです。



これはかみちゃん



これはかほちゃん



これはかみちゃん



これはかほちゃん


というわけで両者が似ていることはなんとなく理解していただいたと思います。それではなぜ夏帆より紙ちゃんのほうがいいのか?という点を説明しようかと思います。


喩えて言うならば「打率9割のバッターのヒットと打率2割のバッターのヒットは、どちらが嬉しいか」という事なのです。


自分はこの二人を同系列の顔と書きましたが、基本的には夏帆のほうがヒエラルキーの上位に位置するわけです。紙ちゃんはいくら自分が好きだとはいえ脇役が似合う個性派女優に過ぎませんが、夏帆は映画の主演を何本もこなす紛れもないスター性を持った見目麗しい若手の有望女優。比較するまでもないのです。


しかしだからといって紙ちゃんが夏帆に美しさが劣っているわけではありません。普段はややもするとブサイク寄りのお顔ですが、ふとした瞬間に超絶美人(は言い過ぎかもしれませんが)に見えることがあります。その時の顔は夏帆に全然負けておりません。しかし、紙ちゃんがその超絶美人を発するのが例えば「タイノッチ」の放送30分につき1度だと仮定するなら、夏帆の場合はその超絶美人っぷりが30分続くわけです。いやもちろんたまにブサイクなこともありますから30分は言いすぎでしょうけど、大袈裟に言えばそういう感じ。だから自分は夏帆のことを「ずっと調子のいい紙ちゃん」と言うわけです。


ここで疑問のある方もいるでしょう。夏帆が「ずっと調子のいい紙ちゃん」ならば、それはもう夏帆のファンでいいじゃねえか、と。調子のいいほうをずっと見続けたほうがいいのではと思われることでしょう。


でも、ずっとキレイなままより、「たまに見せるキレイ」のほうがより価値があると思いませんか?


普段からキレイな人は言い方が悪いかもしれませんが「慣れてしまう」のです。キレイなことが当たり前になってしまい、キレイなことへの価値が薄れてしまうとでも言うのでしょうか。100の評価はずっと100のままです。振り幅がありません。しかし紙ちゃんの場合は「たまにすごくキレイ」なわけであって、普段の振り幅から考えるとその美しさの価値が格段に跳ね上がります。普段を50としてキレイを100としたなら、その振り幅は倍。ずっとキレイな人よりもその美しさの価値も倍なわけです。美しさの価値も跳ね上がれば、それと同時に美しい瞬間を見たときの「得した気分」は半端ないでしょう。自分は紙ちゃんが持つこの「美しさの振り幅」にやられてしまうのです。


もちろんこれは「見た目の美しさ」という点に限った話であり、紙ちゃんが持つ独特の雰囲気だとか言動だとか、「タイノッチ」を見続けることで明らかになるパーソナリティにもたまらないものを感じてはおりますが、最初に紙ちゃんにハマった理由はこの振り幅にあることは否定のしようがないのです。夏帆も好きなことは好きなのですが、振り幅という意味では紙ちゃんにはかないません。


というわけで自分が夏帆よりも紙ちゃんが「いい」理由を書いてみましたが、完全に自己満足の代物であることを実感しつつ本日は終わりにしたいと思います。ありがとうございました。