「いいとも」以後の世界を我々は生きる

笑っていいとも!」が来年3月で番組終了を発表。


1か月も更新をほったらかしにしていたら飛び込んできたこの話題。この発表がなされたのは火曜の番組終了間際の出来事、事の真相を確かめに来た(という演出なのか?)笑福亭鶴瓶からもたらされた一言だった。自分は残念ながらその瞬間を生放送で目撃することは出来なかった。その時「いいとも」を見れる環境にあったが、自分は録画した番組を見ていた。


さすがにキーボードを打つ指が動くというものだ。テレビ界の一大事である。もちろん頭の中ではそう分かっているのだが、これほどまでに「実感のない」一大事も珍しいのではないかと一方で思うわけだ。なぜこの一大事に実感がないのか。それは自分にとって既に「いいとも」は“終わった”番組だからに他ならないだろう。既に終わっているものを「終わった」と嘆き悲しむことはない。


「いいとも」が面白くなくなったというのは何も最近に始まったわけではない。もうここ数年はずっと面白くなかったのだ。誤解なきように言えば、もちろん「いいとも」の面白さは単純にゲラゲラ笑うような面白さではなく、平日のお昼に芸能人が過ごす様を「なんとなく」観るという行為そのものなのである。尖った企画は必要ない。そこそこベタでありながら平日の昼を実感できる装置として永遠に機能すると思われていたのも無理はない。しかし今やその最低限で許される面白さすら満たさなくなった。


理由とされるものを数え上げればキリがないだろう。出演者の閉塞感、タモリの老化、なんでもいい。「ヒルナンデス!」の台頭という理由だけは認めたくないが*1、それ以外なら挙げるものはすべて理由としても構わないくらいだ。それだけ番組の体力がなくなっていたということだ。32年。経年劣化しないわけがない。番組のアイデンティティが長寿やギネス記録ではさすがに厳しい。視聴者もそれは気づく。


おそらく同じことを思っている人が何万人といるだろうが、「面白くなくなったこと」の決定打となったのは「テレフォンショッキングの友達紹介の廃止」だろう。番組が始まった当初はともかく、今までだってそれが本物の友達ではないことは承知のうえで見ていた。しかし、その建前を排した時点で「それでいいのかよ」という視聴者と番組が共犯的に抱えていた「お約束」が壊れたことに失望した人は多かったんじゃないかと思う。自分もそのうちの一人だ。「笑点」が座布団ではなくパネルにポイント表示をされるようになって喜ぶ人はいるのだろうか。分かり易いけどそういうもんじゃない。テレフォンの友達紹介廃止ってこういうことをしていたんだと思う。


そんなわけで、自分の中ではとっくに整理がついていた「いいとも」の終了。ただ、自分は「いいとも亡きあとの世界」を生きることに関しては戸惑いを隠せない。


いいともが始まったのは1982年10月。自分は1982年の9月生まれなので、自分が生まれてからわずか1か月後に「いいとも」が始まった。要するに同い年だ。なもんで、自分は物心ついた頃から「いいとも」は「既にそこにあるもの」だった。自分の心の中では「終わっていた」のと同じことだったとはいえ、いざ本当に自分の目の前から姿を消すということの想像がつかないのだ。


今だって「いいとも」を見ているわけではないので、平日の昼間に「いいとも」を見ないことは平気だ。しかし「そこにあるべきものがない」という、えも言われぬ不安を自分はこれから体験することになる。選択肢として「見ない」を選ぶことは出来ても、「そこにない」ことがどのような作用をもたらすのか自分には分からないのだ。おそらくは「何も変わりはしない」ような気がする。それならばそれでいいのだ。しかし、自分の人生で「ない」ことがないので、その喪失感は思った以上に深い、なんてことがあるのかもしれない。


ナンシー関は「いいとも」がまだ元気なときにこの世を去った。彼女が亡くなったことは不幸なことではあるが、「いいとも」の終焉を知らないまま亡くなった彼女はもしかしたらテレビ好きとしてこれ以上ない幸せなことだったのかもしれないな、と今更ながら思うのである。ナンシーに、そしていいともに合掌。

*1:もちろん原因の数%に寄与しているとは思うし、現時点で「ヒルナンデス!」のほうが数字が良く、昼の番組として面白いことに異論はない。しかし「ヒルナンデス!」側が「いいともを倒した!」と怪気炎を上げているのならそれは違うとはっきり言いたい