ややこしや

「ヒットメーカー 阿久悠物語」を見た。


昭和の歌謡曲史に多大なる功績を残した作詞家の阿久悠。昨年亡くなったことを受け(放送日8月1日は一周忌)、また日テレの開局55周年記念番組として制作された。同じく昨年亡くなった植木等もそうだが、昭和(特に自分の場合はテレビ芸能史)を語る上で欠かせない人物が次々と亡くなっている。彼らの功績を忘れないためにも、そして偉大なる足跡を称えるためにも、さらには昭和の偉人を知らない人のためにもこの手の番組は必要だと思える。


でまあ、ドラマそのものの出来はどうだったかといえば、あまり褒められたもんじゃない。


ここ数年日テレのドラマの出来が悪くなく、元々あったよみうりテレビのドラマ枠を減らし2本にした時代もあったが、作品の質(および視聴率)が戻ってきてから新たに火曜22時をドラマ枠を設け3本に増やした。しかし今回制作されたドラマはドラマ枠を減らした頃の出来の如く、どうにもドラマのツボを外しまくった2時間半。昭和歌謡史をなぞるという意味ではそれなりに見応えはあったけども、ドラマの出来としては酷く退屈。


それというのも、「阿久悠物語」を標榜しておきながら、阿久悠に主軸を置いた「スター誕生!」物語というきらいが強すぎた。阿久悠がどれだけ凄い作詞家だったのかが、あのドラマからでは全然イメージが出来ない。彼の作詞家としての矜持も見えてこない。阿久悠といえば「スター誕生!」とは切っても切れない関係であることは否定しないけども、だからといって阿久悠物語においえ「スタ誕」をメインに据えた物語は些か強引が過ぎるような気がする。んまあ、日テレが持ちうるカードを最大限に使用したいという意図は分かるが、だったら最初から「スター誕生!物語」にすりゃあ良かったのである。


どうしても比較してしまうのは、昨年に放送された「渡辺晋物語」だろう。ナベプロの創設者である渡辺晋を、ナベプロ総がかりで制作。こちらはいささか渡辺晋の賛美が過ぎた(特に後編)とは思うが、ストーリーテリングや起承転結の付け方が上手かったのでドラマとしてもそこそこの見応えがあった。それに比べると残念ながら見劣りはしてしまう。


というわけで「ドラマとしての出来」はこれ以上書くべきことがない。ただ、見所は結構あった。実際のスタ誕の映像を使えるのが強みであり、当時の音源に合わせてVTRを創るというのはなかなか面白かった。特に「スタ誕」における萩本欽一のアテ振りは何か知らんけど凄い上手かったし。桜田淳子℃-ute鈴木愛理だとかピンクレディーモー娘。の高橋新垣だとか、はたまた山口百恵星野真里だというのは、単に自分へのサービスなのではないかと思えた。


で、ここからは本題かつドラマとは全く関係ない話になってしまうが、自分は最後まで作曲家の都倉俊一を演じていたのが黄川田将也(きかわだまさや)だと思って見ていたのだけど、後から調べてみると都倉を演じていたのは黄川田ではなく内田朝陽(うちだあさひ)だった。しかも黄川田は沢井という他の役で出演していたのである。


なぜ内田を黄川田と間違えたのか。一番の理由はドラマの最初のクレジットで黄川田を見ていたので、戸倉を演じている内田を見て「ああ、これが黄川田だな」と思い込んでしまったことだ。しかし同時に自分は内田朝陽のクレジットだって見ていたわけで、これが最大の原因ではあるもののそれだけで片付く問題でもない。じゃあなぜ間違えたか。


はっきり言おう。自分はこの二人の区別がつかない。


ふたりとも「好青年」という形容がぴったりだと思う。NHKの朝ドラが似合う感じ。実際にふたりとも朝ドラに出演済みではある。速水もこみちくらいまでに分かりやすい顔立ちのイケメンであれば識別も容易なのだけども、内田と黄川田程度の濃い(あるいは薄い)程度のイケメンでは、そこそこかっこいいという印象はあっても、次に見たときに同じく正しく認識するのは自分のレベルだとまだまだ難しい。


もちろん彼らどちらかのファンからすれば「全然違う!お前の目は腐っているのか!」とお叱りを受けそうなもんだが、そんな人に限ってモー娘。を識別出来ない。要するに人には得意分野がそれぞれあって、自分の興味のあるものは自ずと見分けがつくし、そうでないものは曖昧なのである。自分は決して彼らを軽視しているわけでもないし、むしろ黄川田将也に関してはちょっと応援してたりするくらいなのにこの有様。自分はまだまだイケメンを見分ける眼力が必要なんだなと思い知らされた。


しかしそう思うのと同時に「なにも似たような雰囲気の俳優をキャスティングしなくてもいいだろ」と、自分可愛さに思ってしまうのもまた確か。日テレドラマらしく、キャスティングの中途半端さときたらない。もちろんモー娘。の二人含め、である。