お別れにむけて

「俺の家の話」を3話まで。

 

宮藤官九郎の最新作にして、長瀬智也の最終作になるであろうこのドラマ「IWGP」「タイガー&ドラゴン」のクドカン・長瀬・磯山晶Pの座組みによる最後の作品におそらくなるのだろう。もちろん未来は分からないが。

 

プロレスラーとしてピークを過ぎた主人公の寿一(長瀬)は、父親であり能楽人間国宝である寿三郎(西田敏行)が倒れたこともあり、宗家を継ぐ決心をし、実家に戻ってくるところから話が始まる。導入部分だけを聞けば、今までのクドカンドラマのような小ネタありつつのドタバタかつスピーディーな展開が待っていてもおかしくない。実際長州力に関しては小ネタが炸裂しているが、もう、そういうんじゃないのだ。

 

このドラマは、全てが「終わり」に向かっているように自分には思え、見ていてずーっと何とも言えない寂しさに襲われるのだ。

 

まず最初に「これが長瀬智也という俳優の最後のドラマなのか」という寂しさ。ジャニーズ事務所を退所し、今後は裏方に回るという発表をしている長瀬。額面通りに受け取れば、これが最後の出演作になる。しかし画面の中の長瀬は相変わらずカッコよく、そして華がある。こんな裏方いないだろ、とすぐにでも言いたくなる。ジャニーズじゃなくても俳優はできるじゃないかよ。軽々しくそんなことを言いたくなる。しかし長瀬智也の俳優人生は、このドラマの最終回とともに終わりに確実に終わりに向かっている。惜しい。哀しい。

 

そして次に介護問題とリンクした「寿三郎の終わり」が見える。余命宣告をされている寿三郎。第3話では「死に方が分からない」と、介護士であり後妻業の女でもあるさくら(戸田恵梨香)に漏らす。自分の死に際を見つめながら、なおかつ能楽師として舞台復帰を諦めておらず、その上で「風呂敷を広げ過ぎた」と自分の最後を模索する姿は、「終わり」の究極である「人生の終わり」とともに、全ての「終わりとは何か」を問うている気がする。それは長瀬智也の俳優業の終わり方にもつながるのかもしれない。

 

座組みもクドカンドラマではお馴染みの人が集まっている。いつもの人たち、というだけなのだけど、これも「終わり」という視点と考えれば「クドカン×長瀬の集大成」的な意味合いにしか見えない。ただの気のせいであることは百も承知なのだけど、もうずーっと寂しい。涙が出る。

 

ドラマは始まれば終わる。人生も始まれば終わる。人は生まれ、いつか死ぬ。長瀬智也もデビューすればいつかは引退する。ドラマは予め終わりが決まっているものではあるが、ドラマの中の役者が、ドラマの中での人生が、そして自分の中の大切な何かが、全て「終わり」に向かっているのを意識させられることはあまりない。いろんな意識が綯い交ぜになり、自分は涙が止まらなかった。これを見たら、確実に何かが終わるんだと。

 

決して自分の人生が終わるわけではない。出役としては引退かもしれないが、長瀬智也の人生が終わるわけでもない。しかしこのドラマは確実に何かを終わらせる。終わりから目を背けない覚悟はあるか。そんな風に問われている気がした。あくまで気がするだけで、ドラマの作り手はもっと気軽に楽しんでほしいと思っているはずだが、得てして作者と読者、作り手と受けての意識が合致することは稀であり、これでいいのだと思う