墓場まで持っていく話

ごぶさたしております。お待たせしました。お待たせしすぎたかもしれません。「全裸監督2」がNetflixで公開されたのは先週だったような気がしますが、なんかよく分かってないです。

 

仕事が忙しくて、またこれから忙しくなるのですが、今は一時小休止という感じでたまっていた6月クールのドラマの最終回「コントが始まる」「ゆるキャン△2」「生きるとか死ぬとか父親とか」など、一気にまとめて見ました。まだ「半径5メートル」の最終回が見れていない。「リコカツ」とか見てたけど途中であきらめました。特に後悔はないです。「大豆田とわ子」は割と早めに最終回ちゃんと見てました。最終回直後は「とわ子」さんのよく記事を目にしましたけど、個人的には「コントが始まる」のほうが良かったと思ってます。

 

「とわ子」さんは何のフリもなくかごめ(市川実日子)が亡くなるというカウンターを打ってきたことに「やるなあ」と思わされたわけですが、「日常に突然訪れる死にフラグなんかない」という「起こり得ること」をファンタジーめいた作品中に現実を突きつけたわけですね。ドラマっぽいドラマでありながら、唐突にドラマチックであることを拒否する強さ。やっぱり作品性は高いと言わざるを得ない。

 

一方で「コントが始まる」は、「グループ解散」という決して前向きではない終わりを迎える事象に対し、「終わることとそれからまた始まること」を非常に淡々と描いた作品でした。「淡々と」とは書いたけども、ちゃんとドラマ的な話の流れがありながらも、過剰にならず、とても心地よく沁みる作品でした。最終回のラストライブを劇的に描くこともなく(そしてコントがさほど面白いこともなく)、ともすれば退屈でしかない展開ではあったのだけど、こういうのが面白いと思える年齢になったんだなあと自分の年寄り感を自覚するドラマでもありました。

 

で、とりあえずドラマの感想書いておけばテレビブログだろ、くらいの完全に投げやりな態度でこの先の話を進めますね。覚えてないかもしれませんがブログのタイトルが「投げヤリズム」ですから、そこは勘弁願いたい。全然関係ない話します。

 

みなさんは「墓場まで持っていく話」がおありだろうか。

 

こう話を切り出せば「他人には死ぬまで話せないヤバい話」のことを指すとたぶん殆どの人が思います。ちなみに自分にはそんな話はありません。そもそもつまらない人生を歩んできましたので、武勇伝もなければ修羅場もなく、「話してもらえれば100万円差し上げます」と言われれば、少し悩んで話すくらいのレベルです。

 

じゃあなんで「墓場まで持っていく話」なんてことを言い出すのかといえば、今自分は「自分は面白いと思っている話なんだけど、自分が伝えたいニュアンスを100%相手に伝えるのが難しい話」をひとつ抱えています。内容としては他愛のない話なのですが、どうにも話しにくい。

 

「生きるとか死ぬとか父親とか」では、最終回で「他人に相談事を話すことの意味」について少し触れられていました。自分の中でため込んでいるよりは、他人にすっと話してしまうほうが気持ちも楽になるんでしょう。たとえば自分の場合はここのように「全く利害関係のない不特定少数に伝えることが出来る場所」があるにも関わらず、そこに書くことすらできない。

 

理由としては①「自分の本名と仕事を伝えないと話が伝わらない」②「人によっては割と気を遣う内容が含まれている」③「自分のニュアンスを正しく理解できる程度の、そのジャンルに対する認識がある」という3点である。職場の人間に対して①は何の問題もないのだけど、②③を考えると「あまり話したくないかなあ」と思う。自分が知らないうちに地雷を踏む可能性もあるし、相手の認識を正しく理解しているわけでもない。何よりそんなリスクを冒してまで話すような内容でもないからだ。

 

3つの条件を満たすことが出来るのは「お互いに相当の認識がある人」なわけで、自分にも少ないながら友人はいるが、残念ながら②がちょっと怪しいのだ。知っているようでいて「え?そうなの?」ということを今まで少なからず経験していることもあり、正直二の足を踏む。だからこそ「あえて」この話はしない。しないほうがいいこともある。あと考えられるとしたら互いの大抵のことを知る関係になる嫁くらいか。まあそんなものは一生現れないのだが。

 

というわけで「あまりに話せる条件が狭い」ことと「そんな条件を縫ってまで話すような話でもない」ということを総合すると、この話はどうやら「墓場まで持っていく」ことになるのである。もちろんこの後ブログに書くようなこともしない。みなさんにもやもやだけを提供して終わるのである。なぜならそれが目的だから。何のために。