私刑という感覚

久々に二時間ドラマを見ました。「私刑人~正義の証明」です。2004年に刊行された森村誠一の小説が原作。法では裁かれない犯罪者に鉄槌を下す「私刑人」と警察の攻防を描く作品。

 

正直な感想としては「私刑っていまどきどう捉えられてるもんかね」とは思った。

 

悪人を正義の味方が懲らしめる、いわゆる勧善懲悪は日本人のみならず全世界共通の「盛り上がる話」である。なにせ構図として分かりやすい。しかものさばる悪を懲らしめるなんてのは見ているほうの溜飲が下がるわけであり、共感と賛美を生みやすい。

 

我々の社会では悪いことをした相手には「社会が制裁する」という形で刑罰が下る。決して人間対人間が勝手に手を下していいことになっていない。それを許すと秩序は瞬く間に乱れ、社会が立ち行かなくなる。しかし時には法の抜け穴をかいくぐった悪は存在し、その悪人に「私刑」という形でなんらかの制裁を加えるという物語は、これまた珍しくない。日本のドラマでいえば「必殺仕事人」シリーズが代表例だろう。

 

だからまあ「私刑」というのはダークヒーロー的に扱われることもあるのだが(今回のドラマも描き方としてはそのタイプである)、身も蓋もない言い方をすれば「法に頼れない場合の解決としての暴力」であり、実際は許されるものではない。物語の中だからこそこういう話は面白いが、実際にこんな事件が起きたら結構世間がザワつくと思うのだが。

 

しかしドラマの中の「世間」は、この私刑人をそれこそヒーロー扱いしていた。結果的に狙われたほうは悪人であるから齟齬はないのだけど、本当に悪人かどうか分からない状態で「狙撃された」という事件が起きたら、私刑をほのめかす犯行予告が出てきたときに本当にヒーロー扱いされるのか。いやそんなに今の世の中能天気じゃあない気がするんだけど。

 

特に今の世の中「法律しか判断基準を持たない人たち」がネットの中には多すぎる。このドラマの中の「私刑人」は法律よりも義憤(そして私憤)を判断基準に動いている。自分からすれば全然分からない話じゃないんだけど、今だったら「それは法律に反しているから悪いこと」みたいな流れになるほうが自然なのかなあ、と思う。それとも単純に「私刑はよくない」となるのか。なんにせよ令和のこの時代、私刑人のようなヒーローは存在を許されないんじゃないか。

 

だからまあ、ドラマとしてはそれなりに楽しめたんだけど「なんか時代には合ってないかな」とは思った。もちろん私刑は元来この社会では許されてないことであるから、「それを許さない社会」は普通だ。その一方で私刑人のような存在を世間が肯定するような世界が「今ある世間」として描かれているのは違和感があるけど、かつての世間の在り方として認知されていたのかなあ、と思うとちと複雑な気分になる。どこから世間の感覚はズレていったのか。それとも私刑人を許容する社会なんてのは元々日本になかったのだとしたら、こういう話はどうして生まれるのか。頭がぐるぐるする。

 

そんなことを考えつつ、何にせよ北村有起哉はいいよなあ、という平凡なおじさんの感想でおしまい。

 

 

 

余談。最近レコーダーに録画されっぱなしの「ボクらの時代」をちょいちょい見ているのだけど、捕まる前のエリカ様だとか、病気が見つかる前の笠井アナだとか、なんかちょっといろいろ去来するものがある。番組の定点観測ってのはこういうのがあるから続けてしまうんだよなあ。