天使なんかじゃない

白い春
阿部寛主演。関西テレビ×尾崎将也×阿部寛という「アットホームダッド」「結婚できない男」のチームが送る感動作。


阿部寛の演技が上手いのは今更取り立てて書くべきことでもないんだろうけど、それでもやっぱり「上手いなあ」と言いたくなる。最近ではコメディのイメージが強いけども、こういうシリアスな役をやらせても抜群。「湯けむりスナイパー」の主演と掛け持ちで出演している遠藤憲一のほうがヤクザっぽいけども、こちらはパン屋。


ドラマもまだまだ序盤ではあるが描き方が丁寧で、1時間という時間が短く感じられた。どうしてもこの枠なので阿部寛が何か笑わせてくるんじゃないかと身構えてしまうものの(シリアスな中に入れるくすぐりってのは、コメディだったら笑わせるのにもってこいの“間”ですから)、そんなことは一切なくマジメ。脇役もみんな芸達者ばかりで安心して見ていられる。


でまあ、阿部寛やその他脇役の方々には何の問題もないのですが、問題は大橋のぞみだ。


いやね、大橋のぞみ、ヘタじゃないです。ヘタじゃない。自分が想像していたよりずっと達者です。演技力に関しては問題がないんです。けど、自分が気になるのは「大橋のぞみちゃんは『ポニョ』のイメージそのままに純真無垢な子どもでありまして、そののぞみちゃんが天使のような心持そのままにドラマに登場!」みたいな起用の仕方でありまして、なんか「違うんじゃなかろうか」という気分にさせてくれます。


おそらく今回のドラマは大橋のぞみありきで脚本が書かれていると思います。仮に脚本が先だった場合、オーディションで今回の純真無垢な女の子を探し出した場合に、大橋ではない別の子役になっていたような気がします。大橋はヘタではないけど、もっと上手い子役はいるはずですから。


ま、仮に大橋が先でも脚本が先でも、ひとつだけ言えることは「世間が大橋のぞみに対するイメージを最大限に利用している」ということでしょう。大橋が先ならば言わずもがな、脚本が先でも、その脚本の「純粋な子供」という側面を生かすために、純粋というイメージを視聴者に最大限に与えることができるのは、そういうイメージを最初から持つ子供なわけで、その点で大橋は適任であるといえます。


しかしこの手法が有効なのは「大橋のぞみは純真無垢」というイメージを持っている人に対してなのです。この「人」という部分を「世間」に置き換えても、おそらく殆どの人が違和感を持たないのでしょうが、どうも自分にはこの点で世間とのギャップがあり、「大橋のぞみ=純真無垢」という公式が成り立ちません。


以前に書いた気もしますが、大橋のぞみは結構な野心家だと思います。少なくとも単に「周りの大人に乗せられているだけの可愛い子供」ではないでしょう。そう思っているのは自分だけでしょうか?彼女がしている活動の端々から、周りの大人が乗せている部分と、本人がノリノリの部分が並存しているように見えます。


だからいかにドラマとはいえ大橋のぞみが「純真無垢」を演じたところで、「その純粋さは結局のところ世間に対して放っている純粋さと同質の“野心”があるんじゃないか?」と、ドラマの娘の「純粋である」という設定そのものを疑うほうに機能してしまうのです。いわゆる「しょうもない深読み」というやつなんですけど、これは自分だけが悪いのでしょうか?実際は野心家なのにそれを上手いこと隠している大橋にも責任はないのでしょうか?ま、ないでしょうけど。


というわけで、大橋のぞみ1点のみちょいとケチがつくんですが、あとは概ね「今後も期待」と締めていいドラマ。このドラマを見終えた頃には自分も「大橋のぞみは天使!天使!」と、路上で叫んで警察の厄介になるようなレベルまでになっているかもしれません。ドラマならびに自分の命運は良くも悪くも大橋のぞみ次第。