侍ス

久々に「ガキの使い」を見た。電波少年が枠移動してからは「電波→ガキ」のコンボで番組を見る機会も減り、つくづくテレビってのは習慣なんだと思うばかり。そうは言いつつも今回ガキの使いを見た理由を問われれば、それは「〜〜の限界に迫る」シリーズだったからだ。

このシリーズはガキの中でも屈指の名シリーズだと思う。たとえば「冷やし中華」はどこまで「冷やし中華」として通用するのかとして「話し中か」とかに言葉を変えていき、最終的にはぜんぜん違う言葉になっても通用するのか、という企画である。結論から言えば、通じようと通じまいとどちらでもよく、いかにその言葉を通じさせようとして悪戦苦闘するかが面白い。個人的に最大のヒットは「アイスコーヒー」を「欧陽琲琲(おーやんふぃーふぃー)」で通じるかどうかで、松本が挙句の果てに「おうやんアイスコーヒー」と言ってしまったこと。

で、昨日は「オムライス」の限界に迫っていた。その言葉によってレベルがあるのだが、昨日は「ホモサピエンス」「ホームレス」などで、一番難しいレベルが「侍」となっていた。でまあ結局最後に松本が「侍」にチャレンジするのだが、「侍ス」と言ったことで通じたが反則としてアウトになってしまうのでした。

さて、しかしよく考えてみると、どう考えても「侍」よりも「ホモサピエンス」のほうが難易度が上のような気がする。「さむらい」の語感は「あうあい(う)」であり、オムライスの「おうあいう」に結構近いのである。しかし「ホモサピエンス」は字数も語感もぜんぜん違うため、どこをどう頑張っても「オムライス」に聞き取られることはなさそうである。それなのになぜ侍の難易度が最大だったのか?

それはきっと「松本でオチをつける」という大前提があったからだろう。もちろんホモサピエンスが侍よりも難易度が高いのはスタッフも気づいていたはずだ。しかし「ホモサピエンス」では「ただ難しい」だけで、オチとしてはこの企画として不充分なのである。しかし「侍」はその語感がオムライスに似ていることもあり、どうしても「侍ス」と言いたくなってしまう。それが意識的であれ、無意識であれ。

つまりは「侍ス」はもともと「オチ専用」のワードだったと考えられるわけだ。もちろんあそこで松本がそのことを知ってか知らずかはわからないが(そういうお笑い感が鋭い松本は分かっていたであろうが)、誰にも仕込みをされることなく、もしくは無意識に「侍ス」という発言が出たということ自体が既に番組の予想範囲内であったのだろう。

実際に「侍」はそんなに難しくねえんじゃねえの?と思って見ていた人もいるであろうが、あの番組(というか殆どのバラエティ番組)に「ルールにマトモを求める」ことなど無意味なことであり、楽しみ方としてはダウトなのである。つまりは、オチのためにはどのような伏線を張ろうとも構わないという見ている側の態度が重要なのであろう。ルールに細かいこだわりを持つ必要などないという非常に分かりやすい例でした。