実感として

ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川氏が死去。87歳。

 

数週間前から入院していることが報じられ、一時は死亡説も流されたりしたのだが事務所側が否定。嵐が記者会見の場でそのことに触れるなどして、あくまで経過は良好であることをアピールしていたが、帰らぬ人となった。

 

個人的にはなんら実感のない話である。別に個人を悼んでいないわけではない。もちろん「ジャニー喜多川」という人が存在し、ジャニーズ事務所を率いているカリスマであることは知っている。しかし自分は直接はもちろんのこと、テレビの中で動いているジャニー喜多川を見た記憶がない。だから「いるんだろうけど、その存在が定かじゃあない」という位置づけにしかならない。

 

もちろんガチガチのファンならジャニー喜多川を目撃したことはあるんだろうし、テレビをくまなく見ている人はテレビにて動いているジャニー喜多川を見たことがあるのかもしれない。一応自分もそこらへんの人よりはテレビを見ているという自覚はあるんだけど、特段ジャニーズを中心に追いかけているわけではないので、その画面に入ってくることはなかった。

 

だからテレビの中でジャニー喜多川追悼一色になったところで「いやあ、あんま実感ないなあ」という気持ちになる。そもそも存在している実感がないのに、亡くなったところで急に実感が沸くというのも変な話じゃないかと思う。

 

例えば先日高島忠夫も亡くなった。自分の中で高島といえば「ドレミファドン」の司会であったり、芸能一家の高島ファミリーの人であったりと、もちろん直接会ったことはないけどもテレビの中の高島忠夫のイメージがあり、ここ数年は闘病でテレビで見ることはなかったけども、「ああ、高島忠夫が亡くなったのか」という実感がなんとなくはある。

 

もう一度書くがテレビの中で(あるいはネットの中で)死去を惜しむ声を否定しているわけじゃあない。だってテレビの中ではジャニーズ事務所の人間が多数いるわけで、実感を伴った死があるわけだ。自分とは違って実際に会ったことがある人間も多いわけで、そうなることは分かる。もちろん芸能史に偉大な足跡を残しているという側面からも、である。

 

自分はそのことを認識しつつも、やはり実感がない。このまま死去したことを隠され、所属タレントが「ジャニーエピソード」をしれっと語り続け、年齢が「ジャニー喜多川(92)」くらいになっていても、自分は「本当に生きてるのかよ」と思いつつも、そもそも実感がないからそこまで疑いもしないだろう。さすがに「ジャニー喜多川(135)」は気付くだろうけど。

 

つうわけで、自分は今回のこの報道に関しての感想がとてもふわっとしている。日本一うすっぺらい感想だと思う。けど、本当に世間の人はこの死を実感できているんだろう、という気持ちはある。なにはともあれ合掌。

 

吸わせてやれよタバコくらい

 

いやー、しばらくブログ放置してました。仕事忙しかったという社会人のベタな言い訳ですけども。本当は毎日更新したいくらいの気合いはあるんですけども、いかんせん闇営業問題で若干嫌気がさしていたのも事実でして。宮迫が必要以上に叩かれているのは可哀想だとは思うけど、今までの累積されていたものが原因でもあるので仕方ないかなあとも思う。

 

それより新しい北海道議会新庁舎に喫煙室が出来ることで怒っている道民がいるんですって。うわー、テレビ関係ないし道民以外興味ねえー。いや、道民もあんまり興味ねえー。どこにいるんだ怒れる道民。

 

hre-net.com

タイトルからめっちゃ怒ってますよね。なんでそんなに怒るんでしょうかね。喫煙の一番の問題は「受動喫煙したくない人に迷惑がかかる」ことであり、それを避けるための喫煙室なんだから、あってしかるべきじゃねえかと思うよ。本当に。

 

何も総大理石の超豪華喫煙室を作ろうって言ってるわけじゃない。そりゃ新庁舎は税金から作っているわけだけども、その中には喫煙者からの税金も入ってるんだろ?もしかして税金を納めている金額や企業を調べて見たら喫煙室賛成かもしれんぞ?そんな考えもなしに「ふざけるな!」とはちょっと過激ですね。まあ自分がそう感じているだけかもしれないけども。

 

個人的に思う「喫煙の悪」は前述の受動喫煙と、あとは「ポイ捨てマナー」「単純に臭い」「仕事サボるな」くらいなもんだ。それ以外は自分の健康を害するだとかお金けっこうかかるとか、個人の嗜好品として済ますことの出来る範疇じゃないのかと思うのだ。しっかり税金取られているんだし。さすがに道議会で未成年タバコ吸わないだろうし。

 

マナーや臭いの件はそれこそ「喫煙室あってしかるべき」じゃないのかね。吸う場所が決められ、出ていく際にはしっかり消臭を義務付ける(ファブリーズとか置けばいい)ことにする。そして仕事時間にしょっちゅうサボっているのならともかく、休憩時間中に喫煙くらいしたっていいだろう。ダメなのか?ちょっと自分にはよく分からない。「マナーを守らせるための喫煙所」は逆にあるべきじゃないの?

 

最初に触れた闇営業の件もそうだけど、本当に「自分が正しいと思っている側からの物言い」は厄介でしかない。喫煙所の何がいけないのか。世界的な趨勢として公共の場所では禁煙が進んでいるからだろうか。でもそれは「吸わない人間の正義」だろうよ。もちろん今まで「吸う側の正義」がまかり通りすぎていたことの反動ではあるとは思う。だからといって「喫煙所」はなくさなければいけないのか。なんだろう。窮屈だな。

 

非喫煙者である自分は「喫煙所」は必要だと思っている。なぜなら、なければ勝手に外で吸い始めるからだ。外で吸わせないためにもちゃんと場所を確保する。必要な措置だろうよ。換気扇と狭いスペースに押し込められても「吸う」人は吸えばいいだけ。それがイヤなら吸わなければいい。しかし最初から「吸わせない」のはちょっとやっぱり違うと思うんだよな。

 

安住紳一郎と2019年上半期のTBS

テレビの話も少しだけ。いまやTBSどころか日本を代表するアナウンサー安住紳一郎と「水曜日のダウンタウン」の演出でも有名な藤井健太郎がコンビを組んだ番組。

 

見終わって思ったことは「安住がテレビの中にいればまだ20年テレビは大丈夫」だということ。この人はテレビと自分の職業を愛しすぎている。逆に安住がTBSを辞めてネット番組とかに進出し始めたら「ああ、もうテレビは終わりなのかな」という時期なのかもしれない。それも分からず安住の意見を聞くこともなく「ぴったんこカンカン」でしょうもない引っ張りをやってしまったTBSは、本当に反省してほしい。

 

崇徳院

「テレ東音楽祭」にてW(ダブルユー)が出演していました。

 

ダブルユーとは辻希美加護亜依によるユニットであり、前者は「ブログで何を書いても炎上する」でお馴染み辻ちゃんであり、後者は「タバコ吸ったらローリングストーン」でお馴染み加護ちゃんである。ともにモーニング娘。4期メンバーである。自分の10代は彼女らとともにあった。いまやこの文章を全く調べることなく書いている、くらいしか役に立ってないが、それはそれでいい。

 

さてダブルユーとしての活動は加護ちゃんが未成年でタバコ吸ってたのがフライデーにすっぱ抜かれて謹慎となったことで白紙に。その間辻ちゃん杉浦太陽と結婚し今や4児の母。加護ちゃんは完全に紆余曲折あったが、今では2児の母。色々あった。本当に。なもんで正式に解散とか活動休止が発表されたわけではなく、なんとなくフェードアウトしていったのだ。完全なる不完全燃焼だ。

 

加護ちゃんが事務所を離れてしまったという理由もあるが、辻ちゃん辻ちゃんで育児に忙しく、とてもではないが再結成とか言ってる場合ではなかった。もちろん数年後再結成したところで需要があったわけでもなく、復活する理由も機会もなかった。ただそれだけである。

 

しかし時代は令和。モー娘。OGが集まってテレビに出てみたり、なし崩しに福田明日香が合流してたり、時の流れはいろんなことを「なあなあ」にする。「うやむや」にするでもいい。もちろん参議院選挙に出馬してみたり、タバコどころではないガチの犯罪者になって引退した人がいたり、なあなあにできない事情があるメンバーもいるわけで、それに比べれば加護ちゃんはもう赦されたと言ってもいい。

 

だから決して去り際がキレイではなかった加護ちゃん辻ちゃんと共演するのは自然な流れ。今年のハロプロのライブでしれっと復活したのだ。その流れを受けての今回のテレビ出演。披露されたWinkのカバー「淋しい熱帯魚」はともかく(一応「デュオU&U」に収録されてるけど)、持ち歌「ロボキッス」に自分は不覚にもグっときてしまった。

 

若い人からすれば30過ぎのオバサンがブリブリのアイドル衣装で珍妙な曲を歌っているだけにしか見えなかっただろう。大した思い入れのない人たちは「劣化しまくりかよ」とか思ってるんだろう。しかし自分には当時のことを思い出すどころか、当時見ていた記憶よりも遥かにダブルユーの二人が神々しく見えた。こう思ってしまったんだよ。

 

「人生はいくらでもやり直せる」

 

たかだか昔のアイドルがちょいとテレビで昔の曲を披露しただけで何を大袈裟な、と思われるだろう。冷静に考えればそうだ。しかし当時加護ちゃんがあんな形で活動休止を余儀なくされ、そして分かりやすくダメな方向に転がっていき、自分を含めた誰もが「ああ、こりゃもうダメだなあ」と思った。もちろん現状の加護ちゃんが当時と同じ輝きを放っているとは思わない。しかしこうして辻ちゃんと二人並んでダブルユーとして歌っている姿は、確かに神々しかったんだ。なぜだろう。記憶補正じゃないんだ。だって記憶より素晴らしいんだから。

 

「すべていつか納得できるさ」とは娘。の曲「I WISH」の一節であるが、自分は今回のダブルユーを見て、このフレーズが頭に浮かんだ。今そう思えるために過去の失敗がある。人生は何度でもやり直せる。そう、人生って素晴らしい。

 

 

 

 

 

そんなことを考えたのち、元KARAのハラさんがブラ丸出しで歌っていたのを見て自分は「そう、おっぱいって素晴らしい」に記憶を上書きした。

 

緒川たまき

吉本興業が所属芸人11人の謹慎処分を発表。

 

5年前の反社会的勢力(要するに振り込め詐欺グループ)の誕生会に出席し、金銭を授受したことが判明したとのこと。カラテカ入江は早々に解雇を言い渡されていたが、「反社会勢力とは知らなかった」「金銭は授受してない」との説明を受け、出席者である数名のタレントは厳重注意処分となっていた。しかし週刊誌報道の二の矢三の矢を受け、それではごまかしがきかなくなり、今回の処分に至る。

 

んまあ、この件に関しては「そりゃそうだろうね」しか感想がない。身内にあたる松本人志が「金銭の授受がなかったなんてことは考えられない」とまで言い切っていた。芸人、芸能人の常識として「お金が発生していないところであんなに全力で歌や芸を披露するわけがない」ということだろう。それは芸人の矜持と言ってもいい。

 

だから「金銭の授受がなかった」のであれば、謹慎した芸人は逆に「じゃあなんであんなに全力で芸をやっているのか」という説明をしなければいけなかった。その一方で「お金が発生してないのに芸を全力でやらないといけないような雰囲気があった」とするならば、それは薄々、いやがっちりと「反社会的勢力」だということに気づいていた、という考え方も出来る。だから「知らなかったし、お金を受け取ってもいない」は説明として詰んでいる。

 

また、吉本だって「反社会的勢力」だったことを出演者が把握していたかどうかはまだしも、金銭の授受があっただろうことは容易に分かったはずだ。しかしそれを最初に「厳重注意処分」としたことは、これはもう悪手でしかない。言い訳をかました芸人たちも悪手だろうが、それを糺す立場にあったはずの会社が、その言い訳に一旦乗っかった形で、あとから「やっぱり処分します」は、会社としてのマネジメント能力がゼロですよと自ら白状しているようなもんだ。

 

個人的には「反社会的勢力から金銭を受け取ってしまったこと」はイカンことだとは思うが、本当に普段からの繋がりがなかったのであれば、速やかに謝ればそれで済んだ話だと思う。「知らなかったとはいえ(あるいは知っていたことを隠しているとはいえ)、受け取ってしまったことは事実であり、速やかに然るべき対応を取りたい」と発表していれば、大げさな話になることはなかったろうに。少なくとも現時点で当事者以外全員が思っているであろう「ただの嘘つき」というレッテルは免れたであろう。

 

しかし吉本が、早々にカラテカ入江を「切る」ことで他のタレントを下手にかばおうとして事態の収束を図ろうとした結果、もはや反社会的勢力から金銭を授受したことよりも、保身のため完全なるウソをついたことのマイナスイメージが拭えなくなっている。ミスには寛容でありたいが、保身のためのウソはそうそう寛容になれない。どうなんだろう。

 

さああと問題なのは、彼らが関わっている番組がどんな措置を取るかだ。一番の注目はやはり「アメトーーク」。番組の構成上宮迫がいなくてもどうにかなるとはいえ、かといって宮迫抜きで番組を成立させるべきなのか、という問題に直面する。蛍原一人で司会を続けるのか、それとも誰か代役を立てるのか、はたまた番組そのものをどうにかしてしまうのか。たぶんテレ朝はもう既に対策を打っているはずなんだ。何かを「知っていた」からこそ、先週「立ちトーク」を放送したんじゃないかなあ、と何となく思っている。

 

あとは非吉本なので完全にいなかったことになっているザブングルが本当に誰にも話題にされず干されていくのかと思うと、これは悲しい。「向上委員会」でもう魔王は見られないんだろうね。合掌。

 

本当は昨日札幌競馬場で見てきたとんねるず石橋貴明の素晴らしさについて書こうと思っていたんだけど、まあ今日はこれでいいや。

 

敏感

西川史子篠田麻里子の握ったにぎりを食べるのがイヤだったようで。

 

篠田が「サンデージャポン」にゲスト出演し、結婚の決め手が玄米だということで、自ら玄米おにぎりを作って出演者に振る舞った。しかし西川は他人の作るおにぎりが苦手だったようで、食べることに乗り気ではなかた。しかし周りから色々言われて渋々食べていた、という話。字面を見ると西川が酷い女に見えるが、実際の放送を見ればそこまで拒否していたわけではない。

 

現象だけを見れば「そこまで神経質になる話でもないだろう」と思う。現に篠田のおにぎりは美味しそうだったし、ちゃんとラップで握っているから潔癖症の人が口にする「菌がついてそう」みたいな話にはならない。だからまあ西川が拒否したのは単に「そういう食べ物が苦手」ということでしかない。個人的にはさっりその気持ちが分からないんだけど、かといって「そういう人がいる」ということは知っているので、特段滑稽だとも思わない。

 

自分はこの手の話題が出るとき、つくづく色々なものに鈍感で良かったなあと思う。

 

例えば霊感。ある人からすれば「これはやば」とすぐ分かるようだけども、霊感がマイナスにまで振り切れているらしい自分は全く何も感じない。変なことを言えば、この手の現象を一切信じていないわけではないのだ。むしろ「まだまだ人間がよく分かってない何かはあるんじゃないか」とすら思っている。しかし生まれたときからステータスに霊感を振り分け忘れたようで、何も感じない。

 

また、この手の潔癖の話題も全然分からない。ちろん「得体の知れない人物がどこで作ったか知れないおにぎり」はちょっと怖いけども、「誰が作ったか分かるおにぎり」であれば何の問題もなく食べることが出来る。むしろガンガン行けるクチである。そりゃあ泥まみれの手で握られたらそりゃ無理だけども、普通に手を洗って作っているのに何の問題があるのかよく分からない。

 

そりゃ目にえない雑菌ってのはいる。最悪食あたりなんてことにもなるんだろうけど、殆どの場合が「そこ気にするならもっとダメなものがたくさんあるだろう」と思う。よく言われるのがスマホの雑菌だけども、そういうこと言う人に限ってスマホとかバリバリ汚かったりすることもある。だからまあ「何をどう気にするか」だけの問題だよなあとは思う。自分はトイレでスマホ使うのも平気平気。

 

世の中は敏感なほうがてはやされる。そりゃあ他人が気づかないことを気付けるのが「敏感」なのだから、能力的に優れているつうことになるんだろう。しっかし本来はどうでもいいことに気づくのは敏感なのか。それとも「過敏」なのかは難しいところですわなあ。今の世の中はあらゆることに対して「過敏」のような気がします。

 

西川のおにぎりに対する感覚は「過敏」だと自分は思うし、またそのことに対して特に関係のない人たちがわーわー言うのも「過敏」だろう。「ここがヘンだよ日本人」でわーわー言ってたのは「ケビン・クローン」だし、自分が敬愛してやまない西内まりやの恋人は「呂敏」だ。

 

……たいな、この程度のしょうもないボケに目くじらを立てるのはやっぱり「過敏」だと思う。そんなことに怒るならもっと敏感にならなければいけないことがあるんじゃないのか。たとえば自分がこの文章にしたためた魂の叫びとか、さ。

 

 

そして何になる

仕事休みでHDDのお掃除(=ただひたすら録画を消化する)をしていました。そこそこ時間があったので、普段億劫で見るのを後回しにしている映画でも見たろかいな、と思いまして「そして父になる」を見ました。日付見たら4年前に録画したやつ。今日がたまたま父の日なのですが、全然意識したわけではないです。「そういや今日集団左遷あるなー」くらいのノリです。

 

言っても6年前の映画であり、今更あらすじを述べたところで誰の何の役にも立たない。簡単に書けば「もしも6年間育てた子どもが他人の子だったら」という話です。「水曜日のダウンタウン」がうっかりノリで「6年育てたのが他人の子どもでも、やっぱり自分の本当の子どものほうが可愛い説」とかやってしまいかねないですね。やったら番組が跡形もなく終わるけども。

 

自分はHDDの番組を寝かせることはよくあるわけで、今見ると別の味わいが出てくることもある。一番簡単なところでいけば、ちょっとだけピエール瀧が出てたりする。「このくらいの出演ならサクっとカットして終わりだなあ」とか余計なことを思う。CMとして「(「そして父になる」の)是枝監督の最新作」という触れ込みで「海街diary」の宣伝が流れているのだけど、自分の録画リストの中には「海街diary」もあったりする。あと「幕が上がる」(ももクロちゃん主演の映画)のCMが出てきてちょっと照れる。なぜお前が照れると言われても困る。

 

最後まで見た自分の正直な気持ちは「自分がこれを見て何を思うべきなんだろう」だった。結婚してないし。子どもいないし。そりゃあ「いち人間」としては映画の肝の「家族とは何か」という部分で思うところがないわけではない。しかしその自分の感慨の大部分は「それを考えてどうなる」という切なさが後からやってくる。その感慨は「もし自分が蒼井優と結婚したら」と同じレベルであり「時間の無駄」感が半端ない。そしてそういうことを考えている自分がイヤになる。素直に感動すりゃあいいだろうよ。

 

エンディングになり福山の「家族になろうよ」が流れたらやっぱり泣いちゃうんだろうなあ自分は、とか考えてたらエンディングに流れない。どうやら「家族になろうよ」はこの映画と関係がなかった、ということに見終わって気付く。どこかで記憶がごっちゃになっていた。

 

とまあ映画とはおおよそ関係なかったり、考えても落ち込むだけの要素だったりと、素直な映画の感想とは程遠い惨めな気持ちになったのだけど、録画の最後にちょっとだけ入っていた「ミレニアムズ」の残骸を見て、ちょっとだけ笑顔になった。所詮自分はその程度の人間だ。そしてクズになる。

 

 

選ばれし人間

いきなり自分の話から入りますけども、自分自身の評価が高い人間ではありません。謙遜ではなく。

 

社会的な地位も高くないただのサラリーマンですし、なにせこの歳で結婚もしてませんし(綺麗な戸籍です)、何か特殊な才能があるわけでもないですし、話は面白くありませんし、人付き合い悪いですし、人間の総合評価なんてものをつけるとすれば、まあ結構な低評価でしょう。俺ログ0.8の人間です。

 

だから自己肯定感はあんまりなく、自分がここでこうしてどうでもいい意見を垂れ流しているのも「自分の言うことなんてハナクソ程度の意見でしかない」と思っているからです。「自分の意見はまず正しい」と思っている人間は堀北真希のワキをペロペロしたいなんてことは言わないです。ただ結構な割合で「そういう人間がいる」から世の中は生きにくいんですけども。それはまあいい。

 

そんなわけで、自分が「選ばれし人間」だなんて思うことは殆どありません。しかし最近、ちょっと自分が「選ばれし人間」なんじゃないかなあと思うことが一つだけあるんです。

 

それは大河ドラマ「いだてん」を面白いと思っていることです。

 

ここまで読んで「はいはい他人が面白いと思わないものを自分だけは分かっているというよくあるクソみたいな自己肯定」だと思ったあなた、落ち着こう。

 

もちろんそう思って頂いても構わない。しかし自分が「いだてん」に対して思うことは「これは面白いと思う人間の条件が限られているんじゃないかなあ」ということだ。ちょっと説明してみたい。

 

まず「いだてん」の一番可哀想なところは「大河ドラマ」であることだ。NHKの大河ドラマは1年で歴史上の人物や出来事を扱うドラマとして定着している。「いだてん」も金栗四三古今亭志ん朝という実在の人物を描いているれっきとした大河なのだけど、どうしても現代劇の側面が強く、そして大河ドラマを毎年楽しみにしている人たちは「歴史ドラマ」を期待してしまう。もうこの時点で「いだてん」は「なんだかなあ」となってしまっているんだろう。たぶん。自分がそうは思わないのであくまで推測でしかない。

 

そして脚本宮藤官九郎にありがちな「展開がよく分からない」という批判。宮藤が「池袋ウエストゲートパーク」(IWGP)で連ドラ脚本家デビューしたのが2000年。もう19年も前の話か。IWGPは原作のスピード感と宮藤の脚本のスピード感がマッチし、当時の若者(現在アラフォーの人たち)には熱狂的に支持された。自分も再放送でちゃんと全部見た*1

 

その後色々なドラマの脚本を担当するのだけども、事ある毎に「展開が早すぎて、あるいは複雑すぎてよく分からない」という意見を目にする。いつまで言ってるのだと言いたい。もうクドカンが出てきて20年だよ。いい加減慣れろ。あるいはずーっと見てるのにまだそんなこと言ってるのならもうクドカンドラマ見るの向いてないよ。「あまちゃん」はたまたま分かりやすかったんだろうね(恐ろしいかな自分は見ていない)。けどクドカンの真骨頂って時系列を無視した縦横無尽な展開だと自分は思うんだよ。「監獄のお姫さま」なんてまさにそれだったじゃない。「マンハッタンラブストーリー」もそんな感じでしたかね。

 

けど普段大河で時系列通りにわかりやすーくやってくれているドラマに慣れている人、そもそもドラマの視聴に得手でない人(自覚の有無に限らず)には「分からない」「面白くない」と思われても仕方ないのよ。でも残念ながら自分には今回のクドカン大河の「面白さ」が分かっちゃうんだよなあ。落語パートとオリンピックパートの入り組んだ感じとかとっても面白いんだけど、それが「分からん」と言われても「はあそうなんだ」としかならんのだね。

 

これはもう、世代的なもんでしかないと思う。

 

別に自分は人より特別多くドラマを見ているわけではない。もちろん毎クール何かしらのドラマは見ているけども、いわゆる「ドラマウォッチャー」と名乗るレベルではないし、ナンシースタイルで全ドラマの初回をチェックするほどの情熱(と時間)はない。そして前述したようにクドカンのデビュー作から目をつけていた、とかいう話でも全くなく、そこらへんの慧眼があるわけでもない。けど「いだてん」は面白いと分かってしまう。それはひとえに「世代としてこのドラマを楽しめる素地が揃っている」だけなんだと思う。その理由として大きいのが「クドカンドラマのテンポ感と構成にすっかり慣れている」ことなんだと思う。

 

それに加えて「出演者の豪華さにピンと来る」こと。はっきりいってこんなに豪華な出演者の大河ってあんまりないと思う。どうしても大河の出演者っていうのは歴史の流れでいうとある程度出演できる人が限られてくると思うんだけど、現代劇であり女性の出番も多い今回の大河は「これでもか!」というほどに豪華な出演者だ。自分のような人間はそれだけで見ていてワクワクしてしまうんだけど、これがあんまり若いとピンとこないんだろう。

 

つまりは従来の大河ファンやご高齢の方には「ドラマが分からない」し、若い人には「出演者にピンとこない」んじゃなかろうか。しかし「中途半端に年を取っていてクドカンのドラマにも慣れている」自分のような人間には超面白い。僭越ながら「選ばれし人間(世代)」を名乗らせていただこう。もちろん商業ドラマとしては「それじゃダメじゃん春風亭昇太です)」なんだろうが、それは自分の知ったことではない。

 

だから「いだてん」の視聴率が最新回で6.7%まで落ち込んでしまったことも、裏を返せば「このドラマを面白いと思える選ばれし人間(世代)が6.7%いる」ということであり、自分はその中に入っている。なんと誇らしいことよ。気象予報士の合格率は毎回5%前後らしいが、それだけ「いだてん」を面白がれる人間は「超狭き門」なのだ。これを「選ばれし人間」と言わずになんという。

 

だからはっきり言わせてもらう。「いだてん」は最高に面白い。これでいい。所詮「いだてん」を楽しめない90%以上の人間がクドカンとNHKの傑作を理解できずにぼやいているだけだ。もちろん理解出来ているのは自分の才能ではない。たまたま「理解できる世代」に生まれた神の祝福でしかない。だからこそ言おう。ざまあみろ。理解できない己の世代と才能を呪いなさい。自分は最高に楽しめている。ありがとう。

 

 

*1:当時本放送でこのドラマをキャッチできるほど自分の感覚は鋭くなかった。あと受験生だった。現役で落ちたけども。