そうは言っても綺麗事

プロレスラーの木村花が亡くなる。

 

詳細は発表されていないが、おそらく自殺なのだろう。「テラスハウス」に出演中だった木村。番組中に起きた事件での木村の振る舞いが良くなかったらしく、視聴者から本人のインスタグラムに誹謗中傷が絶えなかったようだ。この件に関しては「叩かれている人がいる」ということすら知らなかった自分からすれば、逝去の一報を見たときに「ん?若くしてレスラーが亡くなったけどもリング中の事故か?」とか思ったら全然違ったのだ。テラスハウスとプロレスに明るくない人はおそらく自分と同じような印象だったのではないか。

 

んでまあ今話題の中心になっているのが「有名人に対する誹謗中傷が遂に自殺者を出した」ということ。亡くなる直前のインスタグラムには死を予感させるような書き込みがあり、また以前から誹謗中傷に悩んでいたという話もあることから、それが引き金になっていることは疑いがないのだろう。

 

この一件で、普段から誹謗中傷される側の芸能人が怒涛の勢いで「誹謗中傷は許さんぞ」という流れになっています。そりゃあそうですね。死者が出るまでとどまるところを知らなかったのだから言いたくもなる。ただ、自分のような最低な人間はこの状況を「ここぞとばかりに」という言葉で表現してしまいたくなるんですけどね。まあそれはいいや。

 

基本的にSNSやネットで本人に届くように誹謗中傷をぶつけてくるのはバカしかいません。面識があればまた別ですが、互いに面識がない相手にそれがどんな的を射た意見であっても、口悪く意見をぶつけるのはそもそも無礼です。どんなに正論でも、礼儀がなってない奴にマトモな議論なんかできるわけないですから。ただまあ、哀しいかなそんなことが分からないバカは今も昔も存在し、それを認めることから世界の多様性は始まります。

 

なんにせよ誹謗中傷を本人に投げつけていた人間を全く擁護するつもりはないんですけども、一方で自分は「これは番組の構造的な限界だなあ」と思うのです。

 

テラスハウスは炎上含めたネット上の反応をそもそもの要素として構造している番組だと自分は思ってます。

 

番組の楽しみ方ってのは様々ですが、いわゆる「リアリティショー」ってのは「他人の私生活を覗き見する下世話さ」に本質があります。誰が何と言おうと本質は「下世話」です。テラスハウスをオサレ気分で楽しんでいる人は認めるかどうか分かりませんが、下世話です。「バチェラー」なんかは下世話がアメリカサイズで振り切れているのでエンタテインメントとして分かりやすいですけども、恋愛を扱おうと結婚を扱おうと性欲を扱おうと、どれも下世話であることに変わりありません。

 

本質が下世話であるものは、悪口と親和性があるのは当然ですよね。悪口は下世話な話題の王道ですから。だからテラスハウスを見て悪口を言うというのは、なんも不思議なことではなく、王道の楽しみ方でしかありません。番組側が南海キャンディーズ山里をレギュラーに配置して悪口を言わせているのは「そういう楽しみ方」を番組が提供しているにすぎません。

 

だから番組を見た人が「木村花ムカつくわー」とか「嫌い」とか「早く卒業しろ」とか言うのは、全然不思議なことではないし、その行為自体咎められるものではないのです。だってそういう楽しみ方ができるものだから。ただ、間違ってはいけないのが、その悪口の向かう先は「本人」であっていいわけがないということ。悪口はあくまで「番組の中」に向けられるべきであり、テレビの中の出来事である以上生身の出演者に向けずに、日記に書くか知り合い同士で話していればいい。それを誰もが見られるように発信したり、ましてや本人に直接ぶつけてしまうのは、やっぱり「どうかしてる」ということになる。

 

昔は本人に直接言う手段がなかったので、テレビ局に抗議の電話や手紙が殺到していた。逆に言えばこれが「本人に届かない防波堤」になっていたのだけど、今は直接届いてしまうから厄介だ。SNSの罪は「本人に直接届いてしまうこと」だけで、「なんら自分とは関係ないテレビの中の人の悪口を言う」のは今になって始まった行動ではないだろう。むしろ50年前にSNSがあったら、もっと酷いことになっていたのではないか。バカの割合は今も昔もそんなに変わらないでしょう。

 

だから自分は「“本人に届く”誹謗中傷」はよくないと思うが、「悪口をいう楽しみ方」を否定する気はない(そもそも自分がそっち側の人間だという自覚がある)。悪口を「共通の話題」としてネット上で盛り上がるというのも楽しみ方として自分は許容できると思う。しかし誹謗中傷として本人に届いてしまったり、誹謗中傷を受けた本人に対するケアもままならず出演者を死に追い込んでしまっている以上、「良くも悪くも視聴者を煽ることで、ネットで盛り上がっていると対外的にアピールすることまでを番組の構造に組み込むやり方」はリアリティーショーの在り方としてもう限界なんだと思う。

 

こうやって死者が出ようとも、SNSがある以上有名人に向けられる直接の誹謗中傷はなくならないと自分は思っている。死人が出て「その死に関与したことで処罰される」というリスクは死者が出ようと出まいと最初からそこに横たわっているものだ。しかし想像力のないバカは「自分はそうはならない」と思って、あるいは何も考えずに同じことをやり続ける。だから有名人がこれを機にどんなに声高に叫んだところで「しばらくしたらまた戻りますよ」としか思わない。思わないから「ここぞとばかりに」なんて言葉が自分から出てくるのだ。

 

自死の原因はバカによる直接の誹謗中傷かもしれない。それと同時に今回の自死を誘発したのが「ネット上で展開される誹謗中傷を含めた毀誉褒貶を、番組をバズらせる要素として内在させている番組構造」であり、テラスハウスに限らずリアリティーショー全般がこの番組構造を内在しているのだとすれば(していると思っているけど)、この手の番組が今のまま同じくあり続けるのはちょっと無理なんじゃないかと。

 

「本人に対する誹謗中傷」はどんなに有名人が声高に叫んだところでなくならないだろう。一方で、大勢で悪口を言う楽しみ方も下世話ではあることを認めつつも自分は否定したくない。しかし、これらがイコールになることで自死を生む構造の番組はやっぱり作ってはいけないんじゃないか。

 

「本人に対する誹謗中傷はやめろ」は全然間違ってはいないし大事な話なんだけど、今回の問題はそんな単純な話でもなかろうという気持ちが強い。それなのに有名人がこぞって同じことを言い出すので、「気持ちはそりゃ分かるんだけど」と思いつつも、SNSがある以上本人への誹謗中傷はなくならないという立場の自分は「そうは言ってもその主張は綺麗事でしかないよな」と思ってしまうのである。共感はしつつも若干の違和感。かなり丁寧に書いたつもりだけど、うまく伝わっている自信がない。