卒業からの卒業

北島三郎が今年の紅白で「まつり」を歌うことが決まった。実にめでたいことである。


今年で紅白歌合戦出場50回という偉業を成し遂げる北島三郎。区切りがいいということもあり、また後進に出場の機会を譲るということもあり、今回でもって紅白は引退するということだ。年齢的な衰えもあるだろうし、実に賢明な判断だと思う。引き際としても美しい。


んでその締めとして「まつり」を歌うというのも実に素晴らしい。選曲も本人の意思らしいが、やはりここは「まつり」で日本の年末を締めくくってほしいというものだ。今年の最後にいいものが見れそうだ。自分の気持ちもノリノリである


その一方でこの報道に対する非常に気に食わないことがひとつ。それは、北島三郎の「勇退」を、一部マスコミが「卒業」と表現していることだ。これが本当に気持ち悪い。


「卒業」という言葉は通常ある課程を終了するときに用いる。殆どの場合は学校であることが多い。しかし最近ではアイドルグループからメンバーが抜けるときに、グループを学校になぞらえて「卒業」という表現を用いることが多い。解散の場合も卒業と言わなくもないが、多くの場合は、自分ひとり(あるいは複数名)がグループを残したまま出ていくことが「卒業」と現すことに収まりがよいゆえの使用であろう。


だから、事実関係はどうであれ、「卒業」という形でグループを抜けるメンバーは祝福されるものだ。一方でスキャンダルなどが原因でグループを離れざるを得ない状態になったメンバーに対しては「卒業」という表現はあまり使われない。多くの場合は「脱退」だ。ももクロ早見あかりは、自分がグループを抜ける際には「何もやりきっていないのに、自分の勝手で抜けるのだから」と「卒業」ではなく「脱退」という表現にこだわった。厳密な決まりがあるわけではないが、このニュアンスはそんなに難しいものではないだろう。


じゃあ北島三郎が紅白を「卒業」するというのは正しいのだろうか。自分は絶対に正しくないと思っている。


表現として間違っているわけではないのだろうが、何か気持ち悪くないだろうか?北島三郎に「卒業」ですよ。そんな歳じゃねえ、って言ったら定時制に通ってたりするご老人に怒られたりするような気がするんだけど、それでも北島三郎御大に「卒業」なんて言葉を使うのは、なんとなく「アイドルがグループを抜けるのと同等に捉えている」ような気がしてならないのだ。そうじゃないだろ。北島三郎に対する敬意があれば「卒業」なんて言葉には絶対ならないような気がするんだが。自分なら絶対に「勇退」だ。


なんとなくではあるんだが、自分は「卒業」という言葉に「未熟」というニュアンスをいつも感じるのだ。だって、いい大人は「卒業」しないでしょ?「タバコ」とか「賭け事」など、辞めていいものに対して「卒業」するもんだ。卒業するのは多くの場合学生であり、卒業することで次へのステップを踏み出す。アイドルもしかりだ。北島三郎が紅白を「卒業」するならば、次に何をするというのか?次の高みなんかもうねえだろ。充分頂点だ。


それを単に「一定期間務めていたものをやめる」という意味で「卒業」と使ってしまうのは、なんか言葉に対する感覚が鈍っているような気がしてならないんだよなあ。女子高生が「サブちゃん卒業らしいよー」と言ってるのは許せるけど、マスコミが北島三郎に対して「卒業」なんていうのは、なんか不遜だ。


というわけでそんなに「卒業」が好きならば、お前らが「卒業」という言葉から卒業しろ、と言いたい。自分がマスコミの偉い人ならば、この表現を用いた奴を職場から卒業させます。