公認という免罪符


やしろ優というモノマネ芸人がいます。小太りなんだけど、倖田來未の口調のモノマネが面白い。倖田來未もなかなかに悪意があって面白いが、芦田愛菜のモノマネは更に悪意があって思わず笑ってしまう。


完全に個人的な意見であるが、やはりモノマネは面白いのが一番だと思う。もちろん「そっくり」のほうに磨きをかけていて、そして本当にそっくりな時には「わー」よりも「おー」と言われる。それが本当の「芸」ってもんなのかもしれないけど、自分は似ているモノマネではなく面白いモノマネが見たいのである。だからこそやしろ優のあの感じは非常に好きなのだ。


そんな彼女が、倖田來未に「ご本人公認」をもらったというのが記事になっていた。まあ記事そのものはなんてことはなく、単にやしろが倖田來未のライブに招待されて楽屋であいさつした、というだけの話なんだけども、自分は最近「ご本人公認のモノマネ」という現象にいささかひっかかっている部分があるわけですよ。そもそも、何のための「公認」なのか、つうことで。


モノマネには必ず「する人」と「される人」が存在する。される側にとっては「どんな風にモノマネされるか」というのは非常に大事だ。そのまま本人をコピーするようなモノマネ芸人もいれば、それこそやしろのように若干の、いや、大幅な悪意をもってデフォルメをする場合もある。この場合に本人が自分の誇張されたモノマネを認めるか認めないか、という問題だ。


この関係性を視聴者が意識するようになったのは、それこそ最近の話だろう。織田裕二と山本高広の関係性がそれにあたる。一時期山本は見ない日がないと言っていいほど「織田裕二」としてテレビに出まくり、織田裕二のいわば「あられもない姿」を白日のものに晒すことになった。そしてそれを良しと思わなかった織田側からやんわりと牽制され、山本は徐々に「織田裕二」としての活動を縮小していくことになる。


この一連の流れによって、視聴者は「織田裕二織田裕二的な面白さ」を知ると同時に「織田があんまりいい顔しなかったから山本がテレビに出なくなった」という結論まで含めて、「モノマネする、される立場の関係性」を自ずと知ることとなったのである。モノマネする側はあくまで「従」の立場であり、「主」であるモノマネされる側が生殺与奪の権利を握っていると。


厳密に言えばモノマネではないが、かつて「はねるのトびら」において、塚地・堤下・梶原によるサンボマスターのパロディ「ブサンボマスター」というコントがあった。彼らは同名義でCDを出そうとしたが、サンボマスター側からストップがかかり、結局3者の名前をそのまま羅列したアーティスト名という非常に微妙なものとなってしまった。これもサンボマスターという「主」がブサンボマスターという「従」をあからさまに締め上げた結果であろう。


ただ、必ずしもモノマネされる側が主なのかといえばそうではない。これも有名な話であるが、かつてコロッケが美川憲一のモノマネをしたところ、コロッケの人気に火がつくとともに美川憲一まで一緒にブレイクを果たす、なんていう主従一体の関係まである。もちろんこれは稀有な例ではあるが、必ずしも主従関係にあるとは言えないのがモノマネの面白いところだと思う。


また、平泉成は自分のモノマネを見て「自分の宣伝をタダでやってもらって、こんなにありがたいことはない」と思うらしい。モノマネするほうは、モノマネされる人間の知名度を借りており、またモノマネされるほうはモノマネされることで自分の宣伝にもなる。両者が得をするという考え方は非常に健全だ。


そういう意味で「ご本人公認」は両者が得をする制度にはなっていると思う。する側からすれば、多少の悪意を含むモノマネであっても「本人が認めてますから」という文句のもと、堂々と悪意のあるモノマネができる。テレビ局側も圧力を心配する必要がない。何より、本人に怒られる心配がないから、ある程度好き勝手できる。*1認めてもらうことのメリットは大きかろう。


では、「公認を与える」ことに関してモノマネされる側は何かメリットがあるのかといえば、これまたあるように思う。番組共演等の実務的な利益もあるだろうが、何より一番大きいのは「度量」という評価ではないだろうか。そのモノマネが本人をバカにしてる感が強ければ強いほど「あんなモノマネを公認するとは、大人だな」という評価に繋がるんだもの。逆に、そのモノマネ芸人を認めないようなマネをしてしまうと「シャレが分からない」「小さい」などと言われてしまう。もちろんモノマネによって気分を害している例もあるんだろうが、それ以外の要素があって「認められない」ことも多々あろう。だから本来であればモノマネされる側がとやかく言われる筋合いなんてないのだけども、認めなければそのような評価を受けてしまう以上は早々と認めることに意義は存在する。


というわけで、「公認」という制度ではないんだけど、そういうものを標榜するのは互いに利益になるんだろう。



ただ、自分にはそれが「馴れ合い」の第一歩でどうもつまらんわけですね。



別にモノマネする側される側が常にケンカしてろだなんて思わないんだけども、自分はモノマネする側とされる側には、いい意味で緊張感があってほしいとは思っている。それはなぜかと言えば、自分がモノマネを「面白い」と感じる要素の大部分は「愛をもってるという建前のもとバカにしている」点だからだ。面白いのは、滑稽な部分を浮かびあげることでモノマネの対象にぶつける「悪意」なんだもん。その悪意をぶつけるための言い逃れとして「愛」だの「好き」だのという言葉を使う。「好きだから」ってのは100%ウソじゃないと思うけど、じゃあ本当に好きな人に滑稽なモノマネをやるかと言われれば、やらないと思う。以前伊集院が小石田純一の話をしていて「モノマネする対象を好きだと言っておけば何してもいいという風潮になってやいないか」という旨の発言をしていたが、まさにこれ。「好きだから」という言い逃れが正義。


悪意を持っていることで発生するのは「こんなこと本人が見たら怒りやしないか」というハラハラ感であり、それがまた面白さにつながる。だからできれば悪意のあるモノマネは本人の知らないところで行われていてほしいし、モノマネされた側はウソでもいいから、プロレスでもいいから怒っていてほしいと自分は思う。じゃないと、「いつ怒られるんだろう」感が薄くなってしまうんだもの。


この観点からいけば「公認」は最低なのである。だって怒らずに認めちゃったらあとはやりたい放題。怒られる心配がないから、そりゃあまあのびのびとやりますわね。けど、ハラハラ感は完全に薄れてしまう。彼らの相互利益のために、「面白さ」という最大の利益が損なわれていると悔しいのは自分だけなのでしょうかね。


免罪符は「こいつを買うと幸せになりまっせ」と金儲けを始めたキリスト教と、それを信じて免罪符を買った信者の双方の利益を求めた結果とも言える。宗教改革はその批判から始まるわけだが、キリスト教信者ではない自分は「彼らが幸せならばそれはそれで完結しているのでは」と思ってしまうわけだ。だから、基本的に部外者である自分が「ご本人公認」という免罪符をモノマネをする側とされる側の利益のもとに行われていることに、口出しをする余地はない。ただ、あたかもルターなモノマネ芸人が「ご本人公認は必要ない!」と、モノマネ宗教改革を起こしやしないかと心のどこかで思っている自分がいるのもまた確か。

*1:ただし花香あきよしのように、市原隼人に公認をもらっていたにも関わらず本人からのちに批判されるなんてことも、たまにある