モノマネされる人として

TBS「キミハ・ブレイク」の9日放送は「ザ・モノマネ」と題されたお笑い番組。芸人がジャンル別にモノマネを披露していくというもの。


正直中身はしょうもない。「おかげでした」の「細かすぎて伝わらないモノマネ」をベースにしてあとは色々な番組をごちゃまぜにして30倍くらいに希釈したような薄っぺらい内容。テリー伊藤に生でモノマネを披露するなんてコーナーもあったが、視聴者からすれば「それがどうした」でしかない。もしかすると、普段モノマネなんてしない芸人が強引に自分のネタに引き込んでモノマネさせられていたという悲惨な状態を笑えということなのかもしれないが、そんなメタな笑いを提供している番組にも思えなかったんで違うと思う。


番組のお笑いの方向性とは全く別のところで面白かったのが、「アントニオ猪木本人が猪木のモノマネをする芸人のNO.1を決める」というもの。過去にも同じような企画があったような気もするんだけど、とりあえずこの番組の中では毛色が違って見るべき部分はあった。


登場したのは順番にアントキの猪木、ハム諸見里、グラップラーたかし井手らっきょ春一番。現在の猪木モノマネのトップランナーアントキの猪木であることは誰しもが認めるところだろう。実際に猪木本人も「いちばん似ているのはアントキの猪木」と発言していた。その一方で往年の猪木モノマネといえばこの二人という井手と春一番が出てきたのは素直に嬉しい。春一番に関しては「彼とはよく会うんだけどね」などと発言していたし、既に公認を通り越した関係ですらある。


結局猪木が選んだ「猪木モノマネNO.1」の座は井手らっきょになった。その理由は「(モノマネのスタイルに)工夫がしてある」とのこと。他のモノマネは猪木の口調を真似るのがスタンダードであるのに対し、井手のモノマネはパイプ椅子に技を仕掛けて猪木の動きを真似るというもの。まあ20世紀からやってる芸ではあるんだけど。


誰がモノマネNO.1であったかは別に興味がない。興味深いと思ったのは、猪木がモノマネに対しコメントを述べるときに「これはオレが真似できる、できない」という旨を言ってることだ。なぜ猪木本人が猪木の真似をする芸人に対して「オレが真似できる、できない」などと言わなければならないのか。真似するのは猪木ではなく芸人なのである。


本人が公式なアナウンスを出しているか自分は知らないのだが、自分が勝手に推測するにおそらくはこういうことだと思う。それは「真似する人物に自分が近づくことは、どちらにとっても得になる」ということを猪木本人がよく知ってるからではないだろうか。


普通に考えるとモノマネされる側とする側には、されるほうが主でありするほうが従である。もちろんモノマネされる側の人間がいなければモノマネすることはできないからだ。しかし時にモノマネする側の人間によってされる側の人間が再浮上し、必ずしも主従関係とは言い切れない場合がある。


一番有名なのは美川憲一とコロッケの関係だろう。コロッケが美川のモノマネをしたことで美川の人気も再浮上し、どちらにとっても得になった。最近だと児玉清博多華丸の関係がこれに近い。アタック25児玉清も長年続いていたものではあるが、博多華丸のブレイクによって一気に知名度が上がった。


また、モノマネされる側があまりに多くモノマネをされるようになることで、何時の間にか本人がモノマネに近づいてしまっていることも少なくない。これは見ているほうも「そういうもんだ」という思い込んでしまうこともあるだろうけど、される側の人間も多少は「期待に応えねば」という気分になるんだろう。あるいは元々どうやっていたかが分からなくなり、モノマネのモノマネをすることでしか思い出せないなんて場合もある。


いずれにせよ、本人がモノマネに歩み寄るということは、モノマネする側が与えたされる側の「世間のイメージ」に近寄るということでもあり、決して悪いことではない。本人さえ気にならなければモノマネされる側がする側に歩み寄るのが実は「正解」であったりする。


おそらく猪木は長年真似されることで真似されることのメリットを心得ている。もしかしたら自分のメリットだけではなく、「自分のマネをすることで食べていけるならどんどんマネするべきだ」というある種の親心みたいなものがあるのかもしれない。だからマネしている人物に似せようと本人が歩み寄る。これはモノマネされる人物の鑑と言えるのかもしれない。


一方でモノマネされることを嫌がる人物もいる。モノマネってのはある部分を強調し滑稽にすることで成立するものもあるわけで、それが本人にとっては苦痛でしかないこともあるだろう。自分は世間からあんな風に見られてあんな風に笑われているのか、と。そのことに本人が気付いていない場合のショックは相当にデカい。


例えばタモリなんてのはコージー冨田と共演をしない。モノマネ芸人が本人と共演することがひとつのゴールみたいなもんであり、共演すれば「本人公認」のお墨付きがもらえる。原口あきまさが自身の代表作である明石家さんまとは早々に共演を果たしたが、コージーが氏の代表作であるタモリと共演した記憶は自分の知る限りではない。*1タモリ本人がどのような感情を抱いているのかは不明であるが、少なくとも手放しで喜んでいるわけではないのだろう。


しかし今自分のモノマネに嫌悪感を抱いているといえば織田裕二を差し置いて他にいないだろう。今までも織田裕二のモノマネはいろんな人物が行ってきたけども、山本高広の出現によって織田裕二のモノマネは一気にメジャーになった。しかも「織田裕二は面白い」という見方を世間に提示してしまったことは「ある種のタブーが破れた」という感もあり、一気に浸透した。


織田本人に「自分が面白い」という自覚は絶対になかった。そしてファンも彼の面白い部分を知りながら愛しつつも決して本人に伝わることなく上手く目をそらしつつ応援してきた。しかし山本高広はいとも簡単に織田裕二の面白をメジャーにしてしまったのだ。


そりゃ織田本人は動揺するだろう。自分がまさか笑われるだなんて思ってもみなかったんだから。けど世間は織田を笑うし、織田に「山本がマネする織田的なもの」を要求するようになった。ここで織田が山本に歩み寄って織田的なものを出血大サービスできればよかったのだが、それが出来なかったことに悲劇がある。


太陽と海の教室」はしょうもないドラマだった。最初の熱血バカさわやか路線から、何時の間にか太陽も海もどんよりするシリアス路線に変更。結果視聴率も振るわず。そりゃそうだ。世間は今、山本によって供給された織田の「織田的なもの」を最高に欲していたんだから。にも関わらず織田はそれを拒否した。それを一般には「期待はずれ」という。


モノマネに歩み寄ることは何もモノマネされる側がする側を単純に養っているわけでもない。しかし織田は山本に対して「(自分のモノマネだけで)食っていけるのか」と発言した。完全に「養っている」という意識があり、同時に「今後養う気はない」という宣言のようにも受け取れる。本当に心配しているなら、猪木のようになぜ山本に歩み寄らないのか。単純に歩み寄る気がないのだ。それは「不愉快だから」という一言で片付く理由。


そりゃ織田クラスの俳優ならば山本の相乗効果によって仕事を増やさなくてもいいんだろう。今更ブレイクする必要もない。しかし織田クラスの芸能人ならば、山本のモノマネを許容し歩み寄ったほうが絶対に「懐が深い」という評価に繋がりやはり双方の利益になるはずなのだが、それをしない。それが俳優織田裕二としてのこだわりだと言われればそれまでなのだろうが、やっぱり自分は「なぜあのモノマネが許容できなかったかなあ」と思えてしまう。


猪木のようにモノマネする側に歩み寄るまでは行かなくても、せめて「自分の真似をして食べていけるなら、おおいにやってもらいたい」くらいの度量は見せるべきだった。本人が快く思っていなくたってそれくらいは言えるだろうに。タモリだってどう思っているかは知らんが、本人に禁止を通達するようなマネはしておらず、放任という形で許容しているのだ。それがマネされる人間としての最低限の度量のような気はするんだけどなあ。


かつて小林よしのりは「ゴーマニズム宣言」において「わしを憎んで批判することで精神のバランスを保ったりメシを食っている人間がいる。そういう人間のためにもどんどん憎まれてやらなければならない。」と書いた。いまの織田裕二にもこのくらいの度量が欲しい。

*1:コージー冨田が素人時代には「いいとも!」に出演したことはある。ただ、コージーがプロの芸人としていわゆる「共演」したことはない。