根本的に違う

日本においてテレビ批評というジャンルに興味があるならば知らない人は皆無であろう人物がいます。その名をナンシー関と申します。偉大な消しゴム版画家であり、コラムニスト。2年前の2002年に急逝しました。

「いつも心にナンシーを」。この言葉は大月隆弘がナンシー亡き後のテレビ批評に関して述べた言葉であるが、全くもってその通りと思いつつ、なかなか難しいことである含蓄の深い言葉だ(と自分では思っている)。

とまあナンシー関について少しばかし説明を加えてみたが、恥ずかしながら自分、ナンシー関の著作をひとつも持っていなかった。いや、誤解なきように説明しておけば、ナンシー関のコラムは毎週週刊誌などにおいて立ち読みしていたので長い事触れていたのである。ただ、その著作物を自分の手元に置いておくという作業をしていなかっただけだ。

そんな自分も先日、ナンシー関の著作をようやく購入した。たまたま目に止まったので、何の気なしに購入。別にこのサイトを始めたからといかいう気負いがあるわけではない。購入したのは「ザ・ベリーベストオブ・ナンシー関の『小耳にはさもう』100」である。週刊朝日で連載されていた「小耳にはさもう」の編集部が選んだ100本を文庫化したものだ。今までの著作を網羅している方には必要なさそうであるが、自分が購入するには丁度いいと思った次第だ。

さて、中身であるが面白いことは言うまでもない。その面白さを解説できるほどの力量も自分が持ち合わせているでもなく、あとは「読んでくれ」としか言いようがない。(まあ、殆どの方は一度は目にしたことがあるとは思うのだが)

ただ、自分なりに「ナンシー関のどこが凄いのか」ということを考えてみることはしてみた。何が凄いのか。洞察力?文章力?構成力?版画の技術?どれも凄いに決まっている。一流には不可欠な条件である。しかし、そんなことを引き合いに出すまでも泣く、自分に足りないものが何であるかを自分は読み進めて行くうちに悟ってしまった。

圧倒的にテレビを見ている時間が違いすぎる。

今更そんな根本的な次元に戻るか、と批難されそうだが、本当に感じたのはこの点において他ならない。ナンシー関は本当にテレビをよく見ていると感じさせるのだ。そりゃあっちは本職で仕事としてテレビを見ている部分があるから当たり前だろ、とも言われそうであるが、おそらくナンシー関は仕事にしていなくても自分の倍以上テレビを見ている時間が長いのではないかと思わせるくらい、そう感じるのだ。

自分は趣味を「テレビを見ること」と公言しているが、そう公言するのがためらわれるくらいだ。いや勿論比較対象とするのは間違いではあるのだが、そう思わせるくらいだったのだ。ナンシー関は仕事としてテレビを見ていた部分もあったかもしれないが、それ以上に個人的趣味としてテレビを見ていた割合が大きかったはずだ。そんなの「ナンシー関ファンなら当然知っている事実」であるならば申し訳ない。

一応大学生という世の中ではかなりヒマなポジションに位置している自分ですら、ナンシーにテレビ視聴時間が全然敵わないと思うくらいであるから、世の人間がナンシーに太刀打ちしようと思ってもそうそう簡単に張り合えるわけがないと単純に納得してしまう。ナンシー関を目指す、もしくはそれに近い存在になりたいと思うならば、ナンシー関以上テレビを見る必要がありそうだ。そうでもしないとナンシーのその他持っている才能を凌駕できませんて。でも実行したらそれこそ廃人になりそうですね。

で、自分ですが、全くナンシーの影など追うつもりはなく、これからも適当な文章を繰り広げることでしょう。でもまあそうは言ってもちょっと意識してしまったらしく、昨日はそんなわけでテレビをいつもより多めに見た次第です。



おしゃれカンケイ」で室井佑月が自分の過去を話していたが、野村沙知代が出演していたときと同じ位「下世話カンケイ」になっとる。コメンテータや作家としてそれなりの箔がついたとはいえ、やっぱり下世話な話は下世話でしかないですな。こんな空気も飯島愛を認めてしまったことが原因のような気がする。この点で「プラトニックセックス」を購入したやつらの罪は重い。ブックオフに売り払ったところで贖罪ができると思うな。

ドヴォルジャークドボルザーク。人名だから若干の違いは発音の問題で片付けられるんだろうが
その代わりに正式名称にはえらく厳しいアタック25。どうも納得いかない。
クイズ界全体の問題でもあるんだろうけど、誰か「正解判例」を作るべきだって。基準が曖昧。
あと「アタック25」はもう一度くらい「パネルの取り方」の詳しい説明をするべきだ。
きっと分かってない人もたくさんいるはず。ちなみに自分は完璧なので不要。