「泣く」のは演出効果である

「うたばん」において、「ゴスペラーズがあなたのためだけに歌う」という企画をやっていた。その名のとおり、ゴスペラーズが自分のためだけに好きな楽曲を歌ってくれるというものだったが、今回結婚式の直前に何も知らされていない彼女の為にゴスペラーズは歌っていた。依頼したのはその旦那となる彼。

でまあゴスペラーズはヒット曲の「永遠に」を彼女のためだけ(というよりカップルのためだけ)に歌ったのだが、彼女のほうは本当に何も知らされていなかったらしく、嬉しさよりも戸惑いのほうが勝ったらしく(それも本当に挙式の直前だったらしく)、感動して涙を流すとかいうテレビの作り手が期待するようなリアクションではなかった。

無論、彼女はそんなに感動していなかったというわけではないとは思うのだが、やはりテレビを見ているこっち側としては、「あれ?あんまり本当は嬉しくないんじゃねえのか?」と思ってしまうわけである。それというのも、ゴスペラーズが実際に歌う映像が流れる前に、なぜゴスペラーズに歌って欲しいのかを再現VTRを交えて長々と紹介したわけであり、無理矢理感情移入というものをさせられていたからだ。正直彼らのエピソードなんてどうでもいいのだが、あんなVTRを作られた日には「さあ、お前らも一緒に感動しろや!」と言われているのと同義。

しかし、そんなスタッフや視聴者の思惑とは裏腹に、泣かない彼女。

VTRからスタジオに戻った時に、石橋か中居かは忘れたが、どちらかが「彼女のリアクションが薄かった」という話題を切り出したが、それをゴスペラーズの面々は、彼女は本当に何も知らされていなく、しかも式の直前で色々と神経質になっていた、みたいなフォローをしていた。

つまりは、ゴスペラーズにしてもMC二人にしても、彼女のリアクションはやっぱり「薄い」という認識だったのだろう。そう、もっと泣けよと。


彼女に泣く義務はないのに、泣くことを強要されているような雰囲気です。これってどうなんだ。

涙ってのは感動したときに流れてくるもんです。いや、演技でいくらでも泣ける人は存在しますけども、基本的に涙は自然と流れるもの。それなのに、素人に「オマエ、空気読んで泣けよ」といわんとばかりに「泣き」を期待する雰囲気ってのは何故起こるのだろう。


つまりはこういうことではないかと自分は考える。

彼女は感動していたんだと思う。でもそれが態度にあまり出なかっただけであろう。それくらいは皆察しがつくことだと思う。

しかし、その感動を即座に分かりやすくテレビの前に伝えるのには「泣く」ことが大事なのだ。泣いている映像を見せるだけで、視聴者には「泣いている人は感動している」というのが即座に伝わる。テレビというメディアにおいて「わかりやすさ」は重要だからこそ、泣くというのは重要な演出効果である。

だから、今回彼女が感動を涙という形で表さなかったからこそ、「彼女が感動している」というのが即座に分かりやすく伝わってこなかったのだ。しかし、彼女は感動している(のであろう)である。これが伝わらないのは彼女の「リアクションが薄い」という結論に着地しているが、本来はそうではないのだと思う。

リアクションが薄い人は感動を他人に伝えることが出来ないことはない。でも即座に伝えることが難しいのは確かなことである。しかしテレビではそれを即座に伝えなければならないからこそ「泣き」を要求するのだろう。

だから、本来ならば、テレビとしてはここで彼女を演出として嘘でもいいから泣かせるべきだったのだと思う。それは「ゴスペラーズの歌による感動」を分かりやすく伝えるためだ。しかし今回のうたばんでは、それをせずに敢えて(かどうかは知らないが)、実際に起こったことをありのままに放送した。ドキュメンタリーとか報道性のあるものならありのままに放送することは構わないのかもしれないが、今回は歌番組。あくまで「ゴスペラーズの歌による感動」をメインに据えるのであれば、それはやはり「泣き」の映像を差し込むべきだったのではなかろうか。

自分は「やらせ」を推進しているわけではない。ただ、彼女が感動したという事実を雄弁に物語るには「泣き」のシーンが必要だったのではないか、ということを言いたいだけだ。テレビなんだから、ありのままを放送するだけがベストではないだろう。上手くこちらの意図が伝わってくれればこれ幸い。何かご意見や疑問があれば掲示板やメールにでも。