そういう意味ではない

人志松本のすべらない話」を久々にちゃんと見た。

 

芸人(あるいは単に芸能人)が集まって、自身の「鉄板ですべらない話」を持ちより、それを披露するという番組。気付けばもう15年。長いことやっている。

 

番組初期は限られた芸人が限られた人数でやっていて密度も濃かった。それが人気が出るとともに拡大路線へ。番組中期はゴールデンで放送し、出演者も大幅に増え、さらには謎の観覧芸能人が大量に発生するなど、あからさまにやりすぎた。ここ最近も出演者が多いことに変わりはないが、観覧芸能人は姿を消し、芸人に限らず話術が巧みな人間をゲストに招いたりすることで長寿番組としてあり方を探っている。

 

自分も割と律儀に毎回見ていたのだけども、ここ最近は「まあ時間があれば」くらいの優先度に格下げ。見れば面白いのは分かっているけども、そこまで熱心に見るもんでもないのかなあとなっていた。んで今回なんとなく「たまにはちゃんと見よう」と思って久々に録画して見たのだけど、単純に面白かった。やっぱり見れば面白いのだ。でも優先度がまた以前のレベルまで戻るかといったら、そんなこともなかった。理由はなんとなくわかっているんだけど、今回は書かない。

 

久々に見て思ったことが、いまだに「お笑いの総合格闘技」って表現使ってるんだなあということ。

 

これには「芸人が一切の小細工なしに自分の話芸だけで、しかも「すべらない」というハードルを上げたうえで笑わせにかかる」という、そのガチンコ感とストロングスタイルを表現したい意図がある。何となく言いたいことは分かるし、何より響きがカッコイイ。

 

しかし今やこの表現はただの足かせのような気もする。芸人側の緊張感からすれば、格闘技の試合前のそれに近いのかもしれないけど、番組内容からすれば「すべらない」という唯一のルールを守らんとするがために、話を聞いているほうの芸人には「なんとか場を成立させよう」という優しさに満ち溢れている。それは「総合格闘技」というよりは完全なる「チームプレイ」だ。それこそ松本がM-1のときに「会場の空気が重くて、出演者全体のチームプレイで笑わせようという雰囲気があった」という旨を話していたと思うが、今の、いやだいぶ前から「すべらない話」もそんな感じだ。それが悪いと言ってるんじゃなくて、そうであれば「総合格闘技」感はあんまないよなあというだけ。

 

いったんそういう表現をしてしまったから、いまさら撤回したり新しいキャッチフレーズをつけるのは難しいのかもしれないけども、「すべらない」という言葉がハードルを高くしている以上に、この「お笑いの総合格闘技」という言い得て妙でもなくなったキャッチフレーズが番組のバランスを失しているような気がしないでもない。

 

ただまあ改めて考えるに、自分の中での「総合格闘技」というコンテンツの位置づけは「積極的に見るもんでもないけど、見たら見たで面白いし興奮する」である。となれば現在の「すべらない話」も同じような位置づけになるのだから、それはそれで正しいと言えるのかもしれない。まあそういう意味ではないことは分かっているのだけども。