褒めてはいないが貶してもいない気がする

ちょっと前の話になりますが、「とんねるずのみなさんのおかげでした」において有吉がベッキーに対して「よく見りゃブス」というあだ名をつけていました。


ベッキーに対する有吉のあだ名と言えば「元気の押し売り」という180点のものがありますが、今回披露されたのは「よく見りゃブス」。これにはベッキー本人も「元気の押し売りのほうがいい」と怒りながら反論していました。


でまあ、このやり取りはテレビで見ていて普通に笑っていたんですけども、どうも自分は「よく見りゃブス」というワードがここ最近頭から離れないのです。こういうことが起きる場合大抵自分の中で「よく見りゃブス」というワードを消化しきれてないのですが、じゃあなぜ「よく見りゃブス」というワードが消化しきれないのか、という点を突き詰めて考えきれていなかったわけです。


そして今の今まで放置していたわけですが、先日ちょいと色々ありましてネットカフェに寝泊りすることになり、完全に酔っ払っている頭で「よく見りゃブスとはこれいかに」ということを考えたところ、こういう結論に達しました。


「よく見りゃブス」はそれほど悪口ではない。


もちろん言葉の主体が「ブス」という貶し言葉ですから、悪口であることに変わりはないと思うのです。しかし「ブス」の前に「よく見りゃ」という但し書きがある。これが重要。


「よく見りゃブス」という言葉には言外に「一般的には綺麗だとか美人だとか可愛いとかいう評価を受けているけども」という説明が含まれている。つまり、この言葉を吐かれた場合暗に「一般的には美人だと言われている」ということを認めている。ただし本当はよく見ればブスであり、世間は騙されているぞ、お前なんかそれほどのもんじゃねえぞと言いたいわけだ。


元々有吉のつける「核心を突いた」あだ名には一切の救いがない。代表作であるところの品川に対する「おしゃべりクソ野郎」は、彼の「努力を見せて芸にする」というスタンスを真っ向から否定している。取り付く島もない。また、ベッキーに対する「元気の押し売り」ですら、「元気」がベッキーの売りであることを認めつつも、その姿勢を「押し売り」と一刀両断する。身も蓋もない。


にも関わらず、今回の「よく見りゃブス」には「世間一般的にはかわいいとされている」という、世間の声を伝えているだけの有吉らしからぬ「世間は肯定」のスタンスから入っている。逃げ道をちゃんと与えている。悪口には変わりないんだけども、何か手ぬるいし、有吉らしくない。


ついでに言っておけば「よく見りゃ美人」は一見褒め言葉のように思えるけども「よく見なきゃブス」と言っているのに等しいわけで、それはブスをよく見ることのない普通の男性からすれば、ただのブスに過ぎないと言ってるに過ぎないということを付け加えておく。日本語は面倒である。