オタクを認めて欲しいのではない


我が心のオアシスこと「真剣10代しゃべり場」にて「オタクじゃいけないの?」というテーマで議論。

テーマに則したと思われる非10代が山田五郎だったこともあって、久々に真剣に山田五郎の意見だけを聞こうかな、と思っていたのだが、案の定提案者の美少女ゲームオタクくんが周りの人間にそこはかとなく苛められていたので、やっぱりつまらなくて途中ウトウトしてしまった。

何がつまらなかったのか、と言えば提案者であるオタクくんが「自分のオタクであることを正当化しようとしている点」である。

ただ、本編の議論では彼が美少女ゲームオタクであったから話はどうもそっちのほうに逸れてしまい、2次元と3次元の恋愛に対するいかにも10代な話に終始(見ている間は)していたので、その点について深く言及されることはなかった。

結局、オタクという人種は「正当化」によって生きている人間なんだということを気がつかないまま、彼はこの議論を提案したわけで、自分で気がついていないのだから論展開も幼稚なオタク視線であった。


彼は美少女ゲームオタクであったが、オタクと一口に言っても、色んなジャンルのオタクが存在するわけである。もちろん「どこまでがオタクでどこまでがそうでないのか」という定義の問題もあるが、それは今回は置いておくとして、結局「オタク」と呼ばれる人間が何をもって「オタク」と呼ばれているのか、という点が問題なのである。

それはオタクが自分の興味対象を偏愛することに関して、正当化が出来る人間のことを指すのであろう。「何で周りは自分のことを認めてくれないんだろう」と思っているやつは、やっぱりオタクなのだ。他人にとって受け入れられない偏愛を、自分だけが楽しんで自分でその偏愛に対する偏見なりなんなりを背負いこめばいいだけの話なのに、なぜか他人にまで認めてもらおうとする。つまり、自分のオタクを正当化しようとする、出来る人間のことを「オタク」である、と私ハトヤは思っている。

以前高橋がなりが「オタクとは他人ではなく自分を優先して物事を考える人間だ」という旨の発言をしていたが、自分の考えもこれに近い。


そこで話を戻す。

美少女ゲームオタクの彼が「なぜオタクじゃいけないの?」というテーマを提案した。このテーマから読み取れるのは「自分はオタクだが、オタクとはそんなに悪いことなのだろうか」という一般論よりも、「美少女ゲームオタクである自分を差別しないでほしい」という私的主張である。彼は「オタクじゃいけないのか?」という一般論を主張することで自分の置かれているオタクという地位を認めて欲しかったというよりも、「美少女ゲームオタクの自分をもっと認めて欲しい」という「自分の正当化」が目的だったように思える。

「自分の正当化したことを他人に押し付けようとする」。それをやる人間がオタクであることは説明したとおりだが、彼の主張はまさにそれ。「オタクじゃいけないのか?」という一般論を語るかのように見えて、実のところはただ単に「美少女オタクの僕を認めて」である。

「オタクを認めて」ではなく「美少女オタクの僕を認めて」だ。この発想こそがオタクをオタクたらしめている原因であるのに、そのことに全く気がついていない彼のことを認めるのは、テレビを見ている自分でも無理だし、それを分かっている(であろう)山田五郎にも無理だし、ましてや10代にはあまりに荷が重過ぎるのである。もちろん彼がそんな主張をしているから、「オタク」そのものも認められることはない。

しゃべり場の幼稚な議論に対してここまでムキになって批判しなくてもよかったか、と少し反省しつつ今日の駄文はおしまい。