曖昧になる境界線

僕と彼女と彼女の生きる道」が最終回。

自分はこのドラマを真剣に見ていたわけではないものの、それとなく見てそれとなく感動していたわけで、いいドラマだったと思う。脚本の橋部敦子の凄いところは、最終回に取り立てたドラマを配置しないことだ。勿論山場なるものは存在するが、それが大袈裟にならない部分が凄い。過剰な演出が抑えられている。

あ、ドラマの評論は今回の目的ではない。

今クールのフジのドラマはどれも好調で(ファイヤーボーイズ除く)、プライドの最終回も28%を記録したようで上出来だったようだ。そして「僕と彼女と彼女の生きる道」もじゅうぶんに20%を超える数字を叩きだす力を持っているようで、最終回の番宣にこれでもかというくらい力が注がれていた。

なかでも、ドラマのキーパーソンでもある「凛ちゃん」こと美山加恋(みやまかれん)が番組に出ずっぱりであった。

この美山加恋、なかなかどうして演技が上手であって、共演しているりょうや小雪にひけを取らない堂々たる演技っぷりであり、また愛らしい。これでは人気が出るのもうなずけるという感じの女の子であるが、自分はそんな彼女を番宣で見るにあたり、ひとつ非常に気になることがあった。

一度も本名で呼ばれていない。

まあ、これは子役の宿命なのであろう。今でこそもう呼ばれないかもしれないが、NHKで「おしん」を演じた小林綾子はずっと「おしん」と呼ばれ続けていたであろうし、一度どん底を見たあと水道水の洗浄機で一山当てた宮脇康之は「ケンちゃん」と今でも呼ばれたりする。

だから美山加恋も「凛ちゃん」と今後ずっと呼ばれる可能性はあるわけだ。ただ、ドラマはもう終わったわけで、今後はひとりの「美山加恋」として女優なりタレントなりとして活動していくわけである。そんな時にずっと周りから「凛ちゃん」と呼ばれることに、彼女のアイデンティティはどこまで対応していくことができるのだろうか。

自分は本名とは別にこのサイト(というよりネット上)では「ハトヤ」なるハンドルネームを名乗っているわけだが、それとは意味合いが全く別だ。自分が実生活で「ハトヤ」と名乗ることは殆ど無く、勿論普段は本名で呼ばれている。しかし、この「凛ちゃん」の場合、実生活の本当にプライベートな部分では「美山加恋」かもしれないが、そのプライベートな領域のギリギリまで「凛ちゃん」が迫ってきているのではないだろうか。芸能界ではもちろん、ヘタすりゃ小学校で「凛ちゃん」と呼ばれている可能性だってある。

となれば、どこまでが「美山加恋」でどこまでが「凛ちゃん」なのかの境界線が非常に曖昧になるわけだ。その状態が更にどこまでが「素」でどこまでが「演技」なのか曖昧になってくるのかもしれない。まあこれは考えすぎなのかもしれないが、このまま本人ではなく周囲の大人が「凛ちゃん」を引きずってしまえば、その可能性がないわけではない。

実のところ、まだ小学生だからそれほどの心配はいらないのかもしれない。ただ、自分はあまりに誰もが彼女を「凛ちゃん」とだけ認識し、本人を目の前にして本名(芸名)を言わないもんだから、それに対して言い知れぬ不安な感じを覚えたのだ。この葛藤を覚えるには彼女はまだ年齢が浅いのかもしれないにしろ。