そこに三谷幸喜を見た


新選組!」がいっこうにおちゃらけた様子を見せず、何の気なしに見ているこちら側としては三谷幸喜が脚本であることを忘れてしまいそうになる。それでも自分は三谷幸喜という脚本家の力量を信じて初回からずっと「新選組!」を見続けているわけだが、遂に三谷幸喜がその頭角をもたげた。

それは第8回「どうなる日本」の冒頭である。近藤勇が自分の道場の客人とともに朝食を食べているシーンだ。松山出身の原田左之助が納豆を食べないというところから始まる納豆トークに、自分は三谷幸喜を見たわけだ。

その納豆トークの内容はどうってことがない。関西では納豆を食べる文化がないというごくありふれた話から、地元では砂糖を入れるだとかきな粉を入れるだとか、納豆の食べ方ひとつにそれぞれのこだわりというか、食文化が垣間見えるのである。たかが納豆の話であるが、こういう細かい部分にこそ三谷幸喜の真骨頂があると思う。別にストーリーとしてはそれほど関係のある話ではない。せいぜいあるとしても誰がどこの出身なのかを改めて認識する程度の話であり、なくても全く問題がない。

しかし、本筋とは関係ないからこそ大事なのであり、そこに三谷幸喜の価値があるというか。納豆について語らせるというシーン自体に三谷の本質を見るわけだ。この「何気ない部分に三谷幸喜が見える」という感覚が自分にとっては大事なのである。よってこのシーンを見れたことで自分は今回の放送に非常に満足を覚えたわけであって。


同じように、三谷幸喜が作品の中に垣間見える部分として「伏線」がある。三谷幸喜は伏線を張る脚本を書くことが多い。今回の話でも、第1回に登場した黒船から流れ出したコルクを拾った近藤が今になってそれが酒(ワイン)の蓋であることに気がついた。なんてことのない伏線ではあるものの、こういう伏線の張り方は悪くない。あまり意味の無い伏線のようにも思えるが、この伏線が再び出てくるような気がして自分はならないのだ。

このコルクを拾ったくだりについて、近藤勇土方歳三とともに、佐久間象三と坂本竜馬に連れられて黒船を見に行くという部分がある。これは史実的にもあり得ない話ではあるのだが、三谷曰く「(このような事実が)あったという史実はないが、なかったという史実もない」というなかなかステキな屁理屈でこの無理を押し通した。自分はこのような言い訳が好きである。いかにも三谷的な回答であるし。

「大河」ではあるが、史実に基づいたフィクションでもあるわけだし、このような展開に三谷が持っていったことに自分は何の問題もないと思っている。それは、三谷ならこのような強引な展開についても何らかの含みを持たせているのだろうということを信じてやまないからである。それが史実的にはダウトであっても、結果的に三谷が1年間を通して伝えたいテーマとして筋が通っていればOKであると。いや、それは今まで大河ドラマをマトモに見たことが無い自分の傲慢な態度ではあるかもしれないが、ただ単に史実に基づいたドラマが見たいのならば歴史の教科書を求めればいいのである。ドラマであって、なおかつ三谷であるならばそのくらいの期待は許されるはずだ。

つまり、三谷は更に二重三重の伏線をこのコルクに張っているからこそ、あのような史実を強引に捻じ曲げた脚本を書いた。そういうことではないのだろうかと自分は思うのだ。

自分は以前に「三谷幸喜はどストレートな大河を作っているが、そのうち暴走するかも」と書いた。どうやら従来の大河ファンにはもうとっくに暴走していたらしい。ただ、自分からすればそれは暴走でもなんでもなくて、より三谷らしさを演出するためのほんの些細なことであると思えるのである。今回の納豆のシーンだって普通の人から見ればほんの些細なことかもしれないが、自分にとっては史実を捻じ曲げたことよりも些細なことではない「三谷らしさ」なのである。

この解釈が世間一般に通用するとは思っていないけども、それほど的外れなことを言っているつもりはない。少なくとも、史実を強引に捻じ曲げたことを居丈高に批判している人よりは的外れではないと思っている。

ちなみに三谷幸喜と納豆で思い出すのは「警部補・古畑任三郎」において米沢八段(坂東八十助(当時:現三津五郎))の回において、古畑が納豆を醤油を入れてからかき混ぜたことに、米沢八段が「納豆はかき混ぜてから醤油を入れたほうが粘りがでて美味しい」ということを教えるシーンがある。これを見る限りでも、三谷幸喜は納豆に強いこだわりを持っていることが窺える。更に蛇足ではあるが、同様の内容が「美味しんぼ」にも書かれていたりするのだが、それは別に関係のない話であろう。