中澤裕子と磯野貴理子とB級タレントの生きる道

今週の「うたばん」は本当に秀逸だった。勿論中澤裕子磯野貴理子の部分である。未だに顔と名前が一致しかねるジャニーズは論外、ソプラニスタもどうでもよろしく(まあそんなに嫌いではないが)個人的には貴理子一時間でもOKだったのではないかと思われる。

さて、貴理子が「B級タレント」の中でも「特B」であるという表現を番組中ではされていたが、自分は「特B」ではなく「極B(きょくびー)」であると言ってもよいと思う。もはや「B級」であることを極めている。尊敬に値する極めっぷりだ。他に「極B」であるタレントは、存在しないように思われる。番組中では貴理子が出川の名前を引き合いに出していたが、出川はタレントとして特Bなのではなく、芸人としての特Bであると自分では理解しているので必ずしも一致はしないというのが自分の見解。

で、放送を見ていただければ磯野貴理子がどれほどB級タレントとして優れていたのかが分かったと思うので、敢えてここで説明することはしない。自分がしなくても、これだけの素晴らしい放送であればどこかのサイトが必ず取り上げるに決まっている。あの放送を見たならば、何かしら「書きたい欲求」をかきたてられると自分は感じたわけで、その部分は他のサイトに任せるとしたい。

自分が取り上げたいのは逆に「中澤裕子のタレントとしての生き方」である。

番組中では中澤がゲストであったが、番組の構成としては完全に貴理子主導であり、貴理子がメインのゲストであったとして問題ないだろう。コーナーの流れとしても、「中澤の芸を磨く」のが主眼とされながらも明らかに見せたかったのは「貴理子の極Bタレントとの手腕」であったことは明白である。それは前回のソニンの二重構造のように、番組の全体としての構成を見極める必要があるようなものではなく、「どう考えても貴理子の手腕が素晴らしいこと」を見せていたことが誰にでも容易にわかる構成になっていた。

つまり、最初から「中澤裕子のタレントとしての今後の生き方」についてはどうでもよかったわけである。そう、前回のソニンの時の100箇所ゲリラライブと同様、「名目だけ重要で、番組の構成で重要なのは別部分」と同じことである。ソニンの場合はそのゲリラライブの悲しみを「笑いに転化させる」ことが重要だったわけで、今回は中澤のスキルアップを目指すという名目で「貴理子の手腕を披露する」ことが重要だったわけだ。わざわざこんな説明をする必要がないくらいだとは思うが、構造としては同じだということの説明をしたまでである。つまりはそれだけ今回はミエミエの構成だったとも言える。


というわけで本来主題にされなかった「中澤のタレントとしての生き方」について、というよりは中澤の現在の芸能界での立ち位置とそれに準じる「うたばん」の中澤の扱いを考えてみたい。

番組中での当然の認識としてあったのが「中澤裕子は(例えば安倍なつみ後藤真希のような)A級タレントではない」という認識である。これを否定することは残念ながら無理である。確かに安倍なつみ後藤真希のように、単体だけで存分に輝けるような「タレントとしての」商品価値は中澤裕子にはない。これは認めざるを得ない話である。というよりも、中澤本人が一番よくそのことをモーニング娘。の活動を通して認識していたはずだ。

しかし、だからといって「中澤裕子がB級タレントである」という命題は成立しないのだ。ここの段階でもう既に誤解が生じているような気がしてならない。番組の中での定義として、A級でなければB級、もしくはそれ以下のクラスのタレントであるという考え方、つまり芸能界のヒエラルキー構造が前提として存在しているように思える。簡単に言えば、芸能界のピラミッド構造である。だが、自分はその「ピラミッド構造」を疑うのだ。

つまり、何が言いたいかと言えば「中澤裕子はA級タレントでもなければB級タレントでもない」というごくシンプルな結論に落ち着くのである。A級・B級の二元論で語るから、中澤裕子磯野貴理子のやりとりの間に齟齬が生じるのだ。おそらく、中澤としてはA級の側の人間でないことは自分でもわかっているのであるが、だからといってB級側の人間であるわけではないことも自分で分かっているのだ。ただ単に中澤のプライドの問題であるように思われているかもしれないが、それは違う。これは推測に過ぎないが、おそらく番組側もそのことに気がついている。しかしそれを敢えて気付いているからこそそのような誤解を生じさせるような放送にしたのではないだろうか。

もし本当に中澤がB級タレントとして生きていかなければならないのに、B級タレントとしての道を拒み続ける中澤を番組内で晒し者にすることは、番組そのものが中澤に向けてのダメ出しを行っていることになる。それは本来ならばあまりに中澤にとって過酷な現実であり、真摯に受け止めなければならない「笑い事ではない」事態なのである。しかし、これを「笑い事」として放送している以上は、番組としては「中澤はB級タレントではない」という認識があり、マジメに中澤がB級としての道を学ぶ必要がなく貴理子の笑いのみが生きるということを見抜いているのである。

しかし、番組としてはそれを上手く笑いのベクトルに乗せるべく、中澤がダメを出されることを利用しているに過ぎないのである。つまり、中澤のダメ出しは本来的な意味を全く持たず、貴理子への素晴らしい前フリとしてのみ作用しているのだ。

ただ、番組としての理解はちゃんと自己完結しているものの、番組を見ている側にまでそこまで親切な解説を番組としてはしていない。それは前回のソニン二重構造と同様で、中澤は世間に「あいつはB級タレントのくせにB級であることを拒否している身の程知らずな女だ」という認識を与えたまま終了してしまうのである。非常に悪質だ。


結論を述べれば、中澤裕子はB級タレントではない。A級にもB級にも分属することができないポジションに今はいるのだ。それは決して偉いという意味ではなく、いったん頂点を極めた人物が置かれる独特のポジションである。落ち目ではないにしろ、ないがしろにもできないという感じで。

だから、ハナっから中澤と貴理子を比較すること自体がナンセンスなのであり(NHKの話はそれはそれで興味深いものではあったにせよ)、その後の番組の組み立ては「貴理子を絶賛する」との目的のもと、それが無意味でありながらも目的のために構成された虚構にすぎない。番組としてはそのナンセンスさを理解したうえで今回の放送を行っているものの、そのナンセンスさを巧妙に隠して笑いとして提供している点において、中澤には殆ど責任のない批判が浴びせられる危険がある。そのことについて一切番組からのフォローがないというのは、非常に悪質であると自分は考える。


前回も述べたが、「うたばん」は歌番組でありながら音楽に特化いているのではなくバラエティとしての「笑い」に非常に特化した番組である。ただし、そのバラエティとしての特化が必ずしもバラエティを専門職としていない歌手やアイドルに向けて良い方向に働いているかと言えば、それはNOであり更に幾許かの配慮に欠けると言わざるを得ない。確かに視聴者も放送を鵜呑みにしてはいけないのだが、そこまで視聴者に成熟を求めるのは酷だ。