27時間テレビでみのもんたが泣いた

27時間TVが終わった。見てない人にとってはどうでもいい話。しかし、今年はみのもんた。どうでもよくない。いや、本当はどうでもいいのだろうが、それでは話が終わってしまうのでどうでも良くないことにしてくれ。それはさておき、何が見所だったのか?勿論ハモネプでもなければ、当然ラグフェアのヴォーカルの色メガネでもない。さんまと中居のトーク鶴瓶の半ケツTバックは候補ではあるが、模範解答ではない。正解はみのもんたがエンディングで涙を流して歌ったことである。

これが限りなく胡散臭い

いや、実際は胡散臭いことが問題ではない。胡散臭いのはみのの代名詞のようなものだ。胡散臭くないみのはかえって使いようがない。問題はみのの涙が胡散臭いかどうかではなく、

「胡散臭いのを承知で涙を流せるみのの心意気」である。

みのも自分が一番胡散臭い存在であることくらい承知しているであろう。そのみのがエンディングで涙を流せば10人に9人が「うわぁ、嘘くせぇ」と普通は思う。それは一応最終的には「感動」の二文字で締めくくられる番組の意義からすれば明らかにマイナスイメージである。(この際みのを起用した時点で間違っているとかの議論はしない)

しかし、みのはなんの臆面もなく涙を見せた。もし仮にこの涙が本当に27時間やりきって自分や番組、そして様々な思いが交錯して流した涙と解釈することもできよう。ただ、みのもんたはそれほど素直な人間ではないと思う。そんなキャラはみののニーズに合わないのである。なら毒光(注:徳光)を起用したほうがぜんぜん自然だ。

当然みのはあそこでわざと涙を流したのだ。そうに決まっている。いや、そうであってほしい。あの涙はみののセルフ演出である。自分を演出する男、それがみのもんた
 
その演出が悪いことだとはぜんぜん思わない。だって、だれでもやってるし。ただみのがやればその「わざとらしさ」が際立つだけで、その行為自体そんなにほかのタレントと大差はない。ただ、あの大一番で視聴者に胡散臭い印象を植え付けるのを恐れずやるというみのの心意気にこそ意味があるんですよ、奥さん。(みの風)