言いたいことはそれだけ

呟きのほうにもちょこっと書いたのですが、映画「ホットロード」は誰に需要があるんですかね。


ホットロード」とは80年代後半に流行った少女漫画である。簡単に言えば「不良に憧れる少女の話」のようだが(読んでません)、当時の少女たちはこれを見て共感したらしい。もう「らしい」でしかない。自分にはこの気持ちが全く分からない。


自分は1982年生まれの「犯罪者豊作」の世代である。超大物酒鬼薔薇くんから、バスジャックを起こしたネオむぎ茶、つい最近ではビーチで酒飲んで3人ひき殺した男まで(先日飲んだ友人の同級生だったというんだから世間が狭い)、Dragon Ashも真っ青の「凶悪犯は大体同い年」*1である。中学校に上がったときにオウム事件が起こり、中3の時に酒鬼薔薇事件が起きました。


そんな世代の自分には「不良世代に対する嫌悪感」が根底にあるような気がします。もちろん自分は元々その傾向が強い、ということもあるのですが、オウム事件、同い年が引き起こした酒鬼薔薇事件を思春期に目の当たりにすることで「所詮不良は悪ぶっているだけで狂気が足りない」と思えてしまったような気がします。あれらに比べりゃ所詮不良はスケールが小さい。不良ごときが何をいきがっているのか、と。


こんなことを書くと狂気に対するある種の憧れと受け取られかねないのですが、そういうことではなく、「ああ、世界はこんなにも簡単に歪んでしまうのだ」というもっと大きな諦観があるというか。不良たちが逆らい抗っているものは所詮大人に対するワガママの発露でしかなかろうと。オウムというテロリズムを、酒鬼薔薇というサイコパス事件を経た自分には不良の文化なんか「ただのお遊び」にしか思えなかったわけです。そういえば最近起きた佐世保の事件も酒鬼薔薇事件に似た部分はあると思うのだけど、マスコミはあんまり言及していないような気がします。


それはともかく、自分からすれば尾崎イズム・不良イズムの延長線上にしか見えない「ホットロード」なんてものは共感できる部分なんて全然ないわけで、CMで尾崎豊の曲が流れるたびげんなりしてしまうわけです。今の10代・20代が尾崎豊に対してどう思っているか知りませんが、自分の世代は、いや自分は確実に尾崎豊に対する冷ややかな目線を持っている。バカにしているわけではなく、上記のような理由で純粋に共感しづらいだけ。


話を戻す。自分が最初に投げかけた「誰に需要があるのか」という問いに自ら答えるとするならば、まず考えられるのは、このマンガをリアルタイムで読んでいた自分より少し上の世代のオバサン(とはっきり書いてしまう)たちなのだろう。しかし当時は不良に憧れる少女たちも今や普通のオバサン。当時の懐かしさとともに今という現実を生きる中でホットロードの中の世界観は「憧れでしかなかった」ということも十分に知っているはず。子育ても忙しいし。そんなオバサン達がこぞって映画を観に行くとも思えない。


となればターゲットは、当時の10代ではなく、今の10代ということになるのだろうが、彼らに共感できる部分はあるのかいな、とは思う。今でも「マイルドヤンキー」みたいなよく分からん文言でもって一括りにされる人たちがいるように、マジメよかは少し悪ぶっている(ように見える)人たちのほうがおモテになる。それは自分の言葉で言えば「エグザイル的」という奴なのだが、世間がそういう思考で動いている以上共感はされるのかもしれない。もしかしたら自分の世代、いや自分以外の世界ではホットロードは共通言語になっている可能性すらある。そんな世界こっちからお断りだが。


とりあえず「エグザイル側の人間」がこの映画を観るのだということにしておけば話は早い。公式サイトのコメント博多華丸のコメントはあるけど大吉先生のコメントはなく、ピース綾部のコメントはあるのに又吉のコメントがないということがその証左でもある。ちゃっかりももクロちゃん二人のコメントもありますけど、この映画を観ての感想としてはあまりに生真面目すぎて少し笑ってしまった。それはどうでもいい。


じゃあこの映画を非エグザイル側の人間が見ないか、といえば多分そうではない。もうひとつこの映画には大きな「引き」がある。それは主演が能年玲奈ということ。


能年玲奈はご存じNHK朝ドラ「あまちゃん」の主人公で大ブレイクを果たした女優。今や日本人なら結構な割合で知っている。あまちゃんが終わったことによる「あまロス」なんて言葉も出てきたくらいに大ヒットになった。だから「ホットロード」という漫画原作そのものに引きがなくても、能年玲奈のブレイク後初の映画作品という点では大いに魅力を感じる人が多いのは事実だろう。


しかし「あまちゃん」を完全スルーした自分にとって、能年玲奈がこれまた一切の引きにならない。困る。


映画の宣伝でいろんな番組に能年が登場したのを見ているわけだが、おおよそ天然というか不思議が爆発している能年を、自分はどのように愛でたらいいのかがわからない。これが「あまちゃん」を通過した人であれば、「ああ、アキちゃん(「あまちゃん」での役名)は現実でも本当に天然で可愛らしい」とかってなるのだろうけど、ならない。なりようがない。


あまちゃん」を重ねわせることで能年玲奈の価値を補正する、というのは今の日本人であれば比較的容易で、しかも正しい愛で方であることは理解している。しかしこれが出来ない自分にとっての能年玲奈は「まあ、可愛いけども、なんか面倒くせえ」という評価でしかないのだ。自分もバカの一つ覚えのように「あまちゃん補正」をかければ済むだけの話であることは分かっているが、それが面倒なのだ。補正・面倒さである。


この映画の宣伝を腐るほど浴びせられて分かったことは「自分はやはり非エグザイル側の人間であるし、能年玲奈があんまり得意じゃない」ってことだけだ。そんなどうでもいい事実を再確認させられて自分の口を突く言葉といえば「生きにくい世の中だ」でしかない。そりゃ「補正・面倒さ」という「ホセ・メンドーサ」のダジャレが言いたいがために長々とどうでもいい文章書いてしまう人間は、どんな思考の持ち主であれ生きにくいに決まっている。来世で頑張るしかない。

*1:「Grateful Days」の「悪そうな奴は大体友達」のノリでどうぞ