裏の裏は表、裏の裏の裏の裏は表、表の表はやっぱり表

太陽と海の教室」で濱田岳が演じる田幡八朗が死んでしまった。


濱田岳は多くの人が思っているだろうが、演技・風貌ともに火野正平に似ている。一部では親子説まであるくらいだが、真偽は定かではない(ちなみに両者の名前で検索をかけるとこんなのまである。ベストアンサーか本当に)。そんなこともあって自分は濱田のことを親しみもこめて「へいひの」(平成の火野正平の略)と呼んでいたりするが、それはまあどうでもいい。


自分が「へいひの」について強烈に覚えているのはやはり金八第7シリーズだろう。鉄工所の息子で金八になにかにつけて反抗する生徒狩野伸太郎役。演技がショボかったジャニーズの連中を抑えてシリーズMVPともいえる卒業式答辞をしていたのが印象深い。そんな彼もいまや立派な若手のホープであります。


今回のドラマの田幡八朗という役は、灯里(吉高由里子)にパシリ扱いされながらも一途に思いを貫くという「プロポーズ大作戦」で演じた鶴見尚と全く同じ役回り。しかも「ハチ」「ツル」と愛称が二文字という共通点まであったりする。製作者の安易さを責められても仕方ないレベルだろう。ただ、「プロポーズ大作戦」のほうでは紆余曲折ありつつも最終的にはエリ(榮倉奈々)と結婚しハッピーエンドを迎えるのに対し、「太陽と海の教室」では両思いにはなるも、水難事故で命を落としてしまう。


でまあ、この「八朗の死」は劇中において登場人物に大きな衝撃を与えるのだが、視聴者にとっては全く意外ではないものになっている。なぜなら、数回前から「誰かの死」が語り手となっている凛久(北乃きい)によって示されていた。それが八朗だったと分かったのが8日放送分の第8話。


一応ミスリードとして自殺願望をちらつかせていた雪乃(大政絢)がいたけれど、メインキャスト群ではない彼女が死ぬことでストーリーが大きく動くとも考えられず、死ぬならば「へいひの」しかいないことは自明。ただ、そんな読み方をするまでもなく第8話の中身は「へいひのが死ぬフラグ」がこれでもかと言わんばかりに立てられすぎていて、見ていてなんだか「押すなよ!」と上島竜兵に言われてるかのようだった。へいへいどうせ死ぬんだろ、と。


序盤で灯里からの告白、そして晴れて恋人同士にという束の間の幸せ。アイスの当たり棒のくだりや人魚姫メール、救命胴衣が一着しかないなどなど、数えればきりがない「この後死にますよ」のメッセージ。これって一体どういう意図でやってるんだか、自分には真意を図りかねる。


ドラマの熱心な視聴者(ここでは単に「ながら視聴者ではなく、ドラマを見るつもりでテレビをつけている」くらいの意味で)は、少なからずドラマを見ているときに「この先どうなるんだろう?」と自分なりに大雑把な見当をつけながら見るのではないだろうか。少なくとも自分はそうやって見ている。そんな見方をしていて、あからさまに先が読めるドラマが登場した場合どう思うだろうか。


かつて多くのドラマが踏襲してきたストーリー展開は「ベタ」と呼ばれ、物語の組み立て方の基本であると同時に「先が読めるもの」でもあり、ベタであることを越えるプラスアルファがない限り評価されにくい。ベタであることは視聴者に安心を与えるが、同時に退屈も与える。「どうせこうなんだろ」と思ったことがそのまま起こる。ドラマに意外性のみを求めているわけではないが、先の読めるものをわざわざ時間を割いて見る人もそう多くはないだろう。


今回「八朗が死ぬ」というのは、劇中のフラグを考えればベタ中のベタである。「束の間の幸せ」なんてのはその最たるものであり、これを見て「八朗が死ぬ」と分からない人間はよほど物語に触れていない人間だろう。このあまりにベタな展開に満足出来た視聴者ってどれくらいいるんだろう。


ベタな展開が決して悪いわけじゃない。前述の「プラスアルファ」ではないが、ベタな展開だって有効に使えば大きな武器になる。しかしこのドラマにおいては「そのまんま」過ぎて武器にちっともなっておらず、「退屈」の二文字が宙に浮かぶだけ。


ではベタじゃない展開であればいいのかと言われれば、「ベタな展開に見せかけて意外な展開になる」というのも今となってはベタであったりする。


例えば今回「八朗が死ぬ」と見せかけて、最後に八朗が生きたまま見つかるけども、八朗の「すぐ戻るからここで待ってろ」と言われた灯里が何らかの事故で死んでしまうというパターン。これは散々立てられた「八朗が死にますよ」というフラグは全てダミーで、八朗と両思いになって幸せだった灯里が死ぬことで、ドラマとして「大切な仲間の死」という大枠は変わらないが視聴者に驚きを与えるやり方。


こんな筋書きだって、単なる視聴者に過ぎず想像力の乏しい自分が適当に話をこしらえることが出来るほどにベタなパターンでしかない。今の視聴者は「ベタなパターン」が存在し、そしてその裏をかく「意外なパターン」が存在することも折込済みでドラマを見ている。だから視聴者の裏をかくには、表のベタでも裏のベタでもない第三の道を見つけて裏をかくしかないのだ。そしてそれは結構難産である。だから時によっては「ベタで行くと見せかけて裏をかくパターン」という風に視聴者が読み込むことを前提として、さらにその裏をかくこともあるだろう。そんなことを続けていくうちに、裏の裏が表になってしまうこともあるのだろう。


で、今回。あまりにそのままな展開は「最初から表」だったのか、それとも「裏の裏をかいた結果が表」だったのだろうか。自分には判断がつきかねるが、おそらくは「裏の裏で表」のような気がする。雪乃がビルから落ちそうになり桜井(織田裕二)が怪我をする、という第7話とセットで考えれば雪乃の自殺が「表」になり八朗の死が「裏」とも考えられる。それとも「八朗が雪乃に殺される」が表で、「事故死」というのが裏なのだろうか。


ま、結論が表だったにせよ裏だったにせよ展開が「退屈」であることに変わりはない。画面上から「へいひの」という安心して見ていられる役者がいなくなるのは悲しい。そして「夏で海で学園ドラマ」という青春大爆発な要素を抱えていたにも関わらず、思いもよらずウエットな方向で話が進んでしかもつまらないのが最高に悲しい。ちっとも「太陽と海の教室」じゃないもんなあ。ここまでタイトル負けしているドラマもなかなかないと思う。