驚異の不自然・集合写真


いつからだろうか、ドラマにおいて群集ドラマが流行するようになったのは。

主役だけでなく、脇役にも見せ場がある。今では当たり前のようになったこの構図ではあるが、一昔前のドラマではまずなかった設定であるといえる。自分の思い入れが強い三谷作品「王様のレストラン」もこれであるし、大ヒットしたキムタクのドラマ「HERO」もこれである。

群集ドラマはただ単に脇役の見せ場があるというだけでなく、集団の中での主役と脇役という構図が大事なのだ。前述した例「王様のレストラン」ではフレンチレストランが、「HERO」では検察局がその集団の舞台として用意されているわけであって、ある程度の人数がいっぺんに登場するというシーンが多い。当然といえば当然なのだが。

人数が多いと、カメラへの映り方というのが非常に重要になってくる。これが舞台であれば、人数が多くてもいつでも出演者全員が観客の目に晒されているので何の問題もないのだが、ドラマはその場面場面においてカメラを通してでしか我々視聴者は見ることが出来ない。当然映らない人間が増えてくる。物凄く当たり前なことを言っている。

ドラマにおいてこの欠点をカバーするために、カメラの映る範囲になるべく登場人物が全員映るようにしてその「集団」感を醸し出すという手法が「集合写真」である。まあこれは勝手に自分が呼んでいるだけなので、実際のところはどう呼ばれているか知らないが、集合写真のように隙間隙間を縫ってそのシーンの出演者全員の顔が映るような構図のことである。中学校のクラス写真なんかで後ろの人間が前の人間の顔と顔の間から体を出すというアレを想像していただければよい。

この「集合写真」の構図は、はっきりいって物凄く不自然なのである。カメラに全員の顔が入り込むように俳優を絶妙の位置にポジショニングさせ、遠近法あたりも駆使して全員をカメラフレームに収めるんだから、不自然なのは当たり前なのだが。確かにドラマにおいて引きの図で全員が映るというのは演出技法として多用される手段であり、それがわりと効果的に用いられることは承知している。

ただ、その演出効果を引き出すためのあの強引な「集合写真」は、自分にとっては画面から醸し出される「無理矢理収めた」という制作側の苦労の跡と「妙に画面にきっちり収まっている」不自然さがどうにも面白い。あんなに都合よく画面の隙間が埋まっているのは面白いとしか言いようがない。

14日に放送された「新選組!」にもこの集合写真があった。もう番組も終わる最後のほうだったのだが、7人がフレームに納まるという荒業を駆使していた。ひとり留守番を命じられていた沖田総司が京に発つ近藤らに合流を認めてもらい、いよいよ旅立ちという清々しいシーンなのだが、その清々しさを表現するために、全員を映しこんで「志士」っぷりを演出したかったのだろう。ただ、その集合写真があまりにぎゅうぎゅう詰めだったもんだから、自分は笑いをこらえることが出来なかった。

非常にいいシーンであったにも関わらず、あんなに詰め込まれたのでは笑ってしまう。いくらドラマとはいえ、演出のための構図とはいえ不自然が度を過ぎるのはいかがなもんか。