駅 station

ニュースステーションにまた抗議だってね。詳しいことは知らんけども、また抗議だってさ。一体どれだけ抗議を受けてきたんだこの番組は。この番組ほど抗議を受けた番組もそうそうあるまい。それほど抗議を受けてきたよな、Nステって番組は。

久米宏のキャスター降板とともにニュースステーションの幕は下りるわけだが、これはごく自然な結果ともいえる。久米宏あっての「ニュースステーション」であったのだから、それでいいのだ。別に報道が偏向しているなどということはそれほど問題ではない。偏向していることに気付けばいいだけの話だからだ。それは今回問題ではない。

久米宏の後釜には元テレ朝のアナウンサーであった古舘伊知郎が就任し、装いも新たに「報道ステーション」という名前に変わって継続されることになった。別にこの番組をNステの後釜と捉える必要もないのだが、同じニュース番組ならばやはり後釜であると考えたほうが筋が通る。

もっとも、そんなことを言うまでもなくこの「報道ステーション」は「ニュースステーション」の後釜であることは疑問を挟む余地はない。なぜか。それは「ステーション」という番組名が継承されているからである。

でもなんで「ステーション」なんだろう。

同局は「ミュージックステーション」という番組も擁しており、どうにも「ステーション」がお好きなようだ。おすぎではない。んなこたどうでもいい。それはいいとして、テレ朝という局は「ステーション」という言葉が好きなようだ。

「ステーション」。勿論英語で書けばstationであり、その意味は「駅」ということになる。もっとも、このステーションは「ナースステーション」という使い方があるように、単純に駅と訳される類のものではないことくらい承知であるが、それでも、ステーションにこだわる必要性はそれほどないように思えるのだが、それでもやっぱりステーションなわけで。

別に「ニュース」の部分を引き継いでもいいのではないか。まあニュースという単語を引き継ぐのはニュース番組である以上何の変哲もないと言われてしまうのだろうが、それでもニュース番組なんだから堂々とニュースなんとかにしてもよかったのである。なのに、引き継ぐのはステーションのほう。報道ステーション。漢字にカタカナの組み合わせ。梅宮アンナと同じ感覚である。本当か。

別に漢字にカタカナが悪いとは言わないけども、なんかもっと他にいいタイトルがなかったのかいね、と今更ながら言ってみるわけですよ。それもこれも「ステーション」にこだわっているから、ライクア梅宮になってしまうわけで、思い切って新しいタイトルをつけたってよかったんじゃないかねと物凄く普通のことを言ってみるわけです。

テレ朝が「ステーション」という単語にどれほどの愛着を抱いているのか自分には窺い知ることはできないが、別にステーションという単語を使わなくても、誰も何も文句は言わないんじゃないかと単純に思うわけです。「ニュースステーション」というタイトルは放送開始当時としてもなかなかお洒落なタイトルであると感じたりもするのだが、「報道ステーション」はどう考えてもやぼったい。もしかするとテレ朝のセンスはステーションという単語を使うことを閃いた時点で止まっているのかもしれない。そろそろ気づけ。



「ホワイトデーはホワイト伯爵が感謝の気持ちを表すために
女性に贈り物をしたことが由来となっています。」
といえば2人くらいは「へぇ」って言ってくれるんでないの