一言で済むなら

ここに書く文章はよく「長いしつまらない」と言われます。


んまあ、確かに短い文章ではありません。おそらく余計なことを書かなければもっと短くなるのでしょうが、余計なことがない文章は余計なことのない人生と同じく味気ないと思っている人間なので、余計なことを書かざるを得ない。これを書いた結果長くなり、挙句の果てにはつまらないと言われることもやむなしと思っている。


誤解を恐れずに書けば、短く簡潔で気の利いた文章だって書けないわけではない。まあその文章が面白いかどうかってのは読み手の主観に拠るのでこちらからは何とも言えないところではありますが、少なくとも今より短い文章が書けるのは間違いない。でも書かない。理由は前述の通り。


ただ、自分の文章ってのは余計な部分がなくても結構長いとは感じている。それは自分の言いたいことを確実に伝えるために言葉数を要するからだ。どうしても自分の言いたいことを読んでくださる方になるべく正確に伝えようとすれば紙幅を費やすのは仕方ない。これも文章力のある方ならば、短い文書でスパっと自分の言いたいことを正確に伝えるのかもしれませんが、自分には無理。


かつてある友人に「言葉を過信しないほうがいい」と言われたことがある。その時は「言葉の額面どおりの意味だけでなく、裏側や態度に含まれる意味もしっかり勘案すべきだ」という意味で言われた言葉であり、忠告の意図は分からんではなかったのだけども、それと同時に「そんなもん伝えたかったらちゃんと言葉にしろよ」とも思った。


いやもちろん言葉にしたくないことを態度で伝える(態度で伝わってほしいと願う)ことの必要性と重要性は知ってはいるけども、これって単純に誤解を産むことが多い。なぜならそれは伝える側のエンコードした感情と、受け取る側のデコードの様式は異なっているからだ。相手も自分と同じ感情の読み取り装置がついているならいいが、そうでなければ感情が正確に伝わるわけがない。


だから自分は言葉を過信する。感情という各人にとって形の曖昧なものを完璧ではないが一定の形に捉えることが出来るのが言葉。ニュアンスは多少違えど、各人によってエンコードとデコードの結果が大幅に違うことはない。他人に自分の思考回路を、感情を説明するには、言葉を費やしてより正確に再現してもらうのが一番だからだ。そういう意味で自分は言葉を過信している。言葉になってないものは、言外に含もうとするものは、相手に「ないもの」とされても仕方ない。


文章というのは一度書き手の元を離れてしまえば解釈(=デコード)は読み手のものとなる。これが小説であればそれでいいのかもしれない。しかし自分が書く文章は、自分の意図がより正確に相手に伝わってほしいと願うものである。極論を言えば誤読をする余地がないように書いているつもりだ。説明が短ければ、言葉足らずであれば誤読の生じる余地が増す。自分はそれを避けたい。だから多少長くても、必要な説明であれば書く。


話の脱線がなく、文章力がもっとあれば同じことを書くにしても文章はより短くなることは自分でも承知している。しかしその一方である程度文章が長いのは仕方ないという気持ちも持っているということを伝えておきたい。それだけ言いたいことには説明が要るということ。正確に自分の言いたいことを読み取ってもらいたい、ということでもある。


翻って、裏を返せば「説明を要せず自分の言いたいことが一言で伝わる」場合は、長々と書く必要がないということでもある。



やる気あんのか、星野JAPAN。



ペナントレースならまだしも、一試合も負けられないトーナメントにおいてあれだけ前の試合で打たれた岩瀬を8回裏の抑えとして持ってくる采配の意味が自分には分からんのだが、野球に詳しい人誰か説明してくれないでしょうか。