理屈っぽい

よく「理屈っぽい」と言われます。


んまあここを読んでくださっている方ならば、これを書いている人間がどの程度に理屈っぽいのか(そして案外適当で実は感情的なのか)は言うまでもないと思います。どうでもいいことにネチネチと理屈をこねるのは、もうこれ性癖みたいなもんです。一生直りません。直せと言われても無理。


「理屈っぽい」という言葉は大抵の場合否定的なニュアンスで用いられます。しかし自分からすれば「理屈っぽい」はある種の褒め言葉みたいなもんで、逆に「理屈で物事を語れない人間ってなんなの?」とすら思ってしまいます。こういうところが「理屈っぽい」という言葉を否定的なニュアンスで使わせる要因だとは思うんですが、まあ仕方ない。ともかく言いたいのは、「理屈っぽい」ことは決して悪いことではないということ。


しかしそんな自分でも「理屈」を用いても仕方ないと思うようなことがある。NHKで放送された「プレミアム10」枠の番組「赤塚不二夫なのだ!!」を見ました。


現在病床にいる赤塚不二夫の特集。彼の天才的な作品を紹介するとともに、赤塚のルーツを探ったり、赤塚に影響を受けた漫画家(MJ、しりあがり寿喜国雅彦)が座談会をするなどという盛りだくさんの内容。


今の子どもが「天才バカボン」やら「おそ松くん」を知っているかは知らないが、少なくとも自分が小さい頃には「平成天才バカボン」「もーれつア太郎」はアニメで放送されていたし、「おそ松くん」も再放送されていたように記憶している。決してリアルタイムの世代ではないのだが、馴染みはあるのだ。それゆえ、今回の放送も結構楽しみだったし、事実楽しく見た。但し途中までは。


最初のほうは面白かったのに、途中から赤塚漫画あるいは赤塚漫画の登場人物をお偉い先生たちが分析するという内容に入ってから途端に面白くなくなり、最終的には眠ってしまった。だから自分は後半の放送内容を見ていない。


思うに、なぜ赤塚不二夫のマンガを学者が語らなければならないのか。


誤解なきように言っておけば、「マンガなんて学者が語るに値しない存在である」ということは微塵も思っていない。語られるべき、分析・研究されるべきマンガってのは存在するように思う。しかし、ギャグマンガ、とりわけ赤塚不二夫のマンガに関して自分は「分析してどうすんの」としか思えないのである。赤塚のマンガの凄さは絶対唯一「笑える」だけでしかないだろう。


もちろん赤塚のマンガに「笑える」以外の要素を見出すのは勝手だと思う。表現技法が優れているだとか、言語感覚が優れているとか、まあ自分にはよく分からないけどあるんだろう。しかし、それはおそらく、「笑える」という要素に比べればほんの些細なことでしかないように思える。そして些細ではない「笑える」ということに関して、他人があれこれ分析をするのはナンセンスでしかない。なぜなら、「赤塚のマンガがなぜ面白いのか」を分析しても、答えは「赤塚が天才だから」としか言いようがないから。


そりゃ笑わせるパターンってのは存在するんだろうけども、それを分析したからといって赤塚と同じように笑わせることが出来るかといえば不可能だろう。「トリビアの泉」で学者連中が集まって「最高に○○な××」というのを発表するシリーズがあったが、あのシリーズで発表されたものの出来を考えれば、所詮は「分析」でしかないことがよく分かるだろう。だったら赤塚のマンガがなぜ面白いかを分析する必要はあるだろうか。自分は「ない」と思う。つまりは、赤塚のマンガは学者が語る余地はないように思う。


第一ギャグマンガなんて分析して面白いことなんてひとつもない。「このギャグはどこがどう面白いのか説明しなさい」なんて質問は芸人にとって罰ゲームのようなもんであるし、「○○が××であるから面白い」なんて説明をしなければ面白さが分からないものは、それは面白くないのである。そんな「そもそも面白くないこと」を勿体ぶってテレビで放送することが面白いのかどうかなんて、それはもう言うまでもないだろう。


普通の物事を理屈で説明するのは嫌いじゃないが、ギャグマンガに関することを理屈を用いて説明しようとするのは何か違うと思う。この手の番組を構成するときに、学者が学問的な側面から分析して説得力をもたせようとすることが多いように思う。もちろんその分析が面白い場合だってあるんだろうが、題材によっては(しかも大抵の場合は)ナンセンスでしかないことを作り手は学ぶべきじゃないか。