可能性のウソ

「インターネットの最大の利便性は、(ウェブにアクセスしうる)世界中のどこででもあらゆる情報が手に入ることである」。この命題はおそらく偽ではありません。そして嘘でもない。


「3Bの学校裏サイトは3Bの生徒ではないどこの誰か分からない連中が覗いているかもしれない。だから実名で書き込まないほうがよい」。この命題もおそらく偽ではありません。しかし嘘の可能性が高い。


唐突な始まりかたではありますが、今週の「3年B組金八先生」でのヒトコマ。金八が誰もいない自宅に美香(草刈麻有)を泊めたことが、裏サイトに書きこまれたことにより騒ぎは拡大し、金八が卒業式を目前にして3Bを追われてしまうという展開。金八が3Bを辞めることになった原因が裏サイトにあるのではないか、という方向に話が進み、そこで3Bの生徒は管理人の金輪(布川隼汰)にサイトを閉鎖するように実名書き込みを実施。その際に金輪が実名の書き込みをやめるように3Bの生徒に説明する際に用いたのが上記のような内容。


インターネットはよく「世界中のどこからでもアクセス出来る」と説明される。無論アクセスしうる環境が整っていなければ無理だが、それは置いておくとして、インターネットの爆発的普及はこの点にあるといってもおそらく間違いないだろう。今自分がこの文章を書いているのは日本であるが、日本ではなくアメリカに住んでいる人も、アドレスさえ分かれば(検索をすれば)このサイトにアクセスが可能でこの文章を読むことが出来る。間違いではない。


しかし可能性として、このサイトをアメリカから読んでいる人がいるかといえば、それはおそらくNOだろう。サイトの内容が日本のテレビについてほぼリアルタイムで起こっていることを主観からグダグダと書いているわけで、(情報を単純に入手するという意味で)ニュースの代わりにもならなければテレビの内容について共感を得ることも出来ない。まあアメリカではある程度日本の番組が流れていることもあるだろうが、それでも日本と同じようなペースでは流れていない。少なくとも「あらびき団」はフルで放送していない。


日本に住んでいてアメリカに移住し、日本に居た頃から読んでくださっていたという事情があるならまだしも、アメリカにずっと住んでいるアメリカ人がこのサイトを読んでいるという可能性はほぼゼロである。なにしろ日本語で書かれているわけだし、自分のようなだらだらとした文章が翻訳ソフトでちゃんと翻訳できるとも思えない。自分がアメリカ在住のアメリカ人が書いたアメリカのテレビの感想を書いたサイトを読まないのと同じである。


「ウソではないが可能性はゼロに近い」。インターネットを語るうえでは、この「ゼロに近い可能性」の話が意図的なのか無自覚なのか分からないが、どうにも提示されることが少ない。簡単に言えば、「できる」ことは必ずしも「する」ことに直結しない。


金八に登場した3Bの学校裏サイト。これを覗いている3B以外の人間は果たしてどれだけいたのだろうか。


インターネット上に存在するサイトはパスワードがかかっていない限り誰でも自由に閲覧・書き込みをすることが可能だ。だからといって、何の関係もない部外者が、桜中学校3年B組という極小のコミュニティの掲示板に何の目的があって書き込みをするのだろうか、という話だ。アクセスは誰でも出来るが、アクセスする必要もないし、アクセスしない。なぜ「出来る」ことが「する可能性がある」にすり換わり、さらには「危険性がある」と話が大きくなってしまうのか。


ドラマとしてはこの展開の布石として、裏サイトに書かれたウソの励ましの書き込みが性犯罪目的の誘拐に繋がった事件が中盤で発生している。だからこの「部外者が見ているかもしれない不気味さ」という理屈は地味に説得力があるようにはなっている。だからといって、美香らが実名で書き込みをしたあとに、得体の知れない人間が続々と偽物の書き込みをしていて、金輪が怖くなってディスプレイの電源を落とすというシーンには「ん?」と言わざるを得ない。3B以外の生徒で、誰がそんなに頻繁に書き込みをするというのか。3Bとは何の関係もない人間が常時裏サイトを監視して書き込むなんてことはあるか?それはあくまで「実行可能」ではあるが、「可能性」としてほぼゼロじゃないか。世界中の人間はそんなに他人の極小コミュニティに関心はない。


そもそも裏サイトってのはインターネットを介してはいるが、「匿名性」と「アクセスの手軽さ」に利点があり、「誰もが閲覧できること」に重点を置いていない。匿名の不気味さは「誰か分からない」ではなく「間違いなく身近な人間なのだろうが、それが誰か分からない」のほうであり、部外者の侵入を予期してはいないはずだ。


世界中の誰しもがアクセスできるというのはウソじゃない。そして誰しもが書き込みを出来るというのもウソじゃあない。ただ、それは「可能である」というだけであり、可能性はゼロに近い。もしこれが「可能」なだけではなく、本当に世界中の人間が「可能」であることに従ってアクセスもしているのだとしたら、自分のサイトだって毎日100万アクセスくらいあっても不思議じゃないし、おおよそ自己満足でしかないサイトが閑古鳥を飼いならしていることもない。


「可能であること(できる)」と「可能性があること(する)」は同義じゃないだろう。しかしあたかも同義であるように語られることがなんて多いのか。例えば「一般人よりは料理人のほうが包丁を持っている時間が長いことから、包丁で殺人を犯す可能性が高い」と言えるだろうか?そりゃ料理人なんだから包丁を持っている時間が一般人より長いわけで、包丁でもって人を殺すのが「可能である」時間が長いわけだけど、だからといって一般人より包丁で殺人を犯す「可能性がある」だなんて言えるわけがない。事実としても包丁による殺人犯は料理人が多いだなんて統計はないだろう。


上記の議論は馬鹿馬鹿しいと自分でも思うが、このバカバカしさがインターネットに関してはなぜか馬鹿馬鹿しいと思って聞いている人が案外少ないような気がするのは自分だけだろうか。「できる」けど「しない」。この態度はおおよそのことで普通じゃないのか。ほぼゼロに近い可能性を、さも大きな可能性のように語ることは余計な混乱しか招かない。