和田アキ子に対する批判を考える

最近どうも和田アキ子に対する風当たりが、本人の図体以上にデカいような気がしてならない。


和田アキ子といえば言わずと知れた「ゴッドねえちゃん」であり、それはホリプロの最大看板であると同時にいまや芸能界のご意見番として君臨している。だからこそ日曜昼間の冠番組である「アッコにおまかせ!」の和田の発言は注目度が高く、幾度となく取り上げられ、そして批判の対象になっている。


なぜ和田の発言が批判の対象となるのか。それは和田の独特の価値観というか思考回路が、独善的で傲慢だとみなされるからだ。もちろん芸能界の大御所である和田に面と向かって反論できるような人間はどこにもいない。だから和田は言いたいことを言えるわけだけども、それが必ずしも世間の常識とはならないわけだ。驚くほどに和田を、和田の発言を擁護する声はネット上では見かけない。どこを見ても批判、批判、批判の嵐。


そしてこの時期必ず話題になるのが「和田アキ子紅白落選問題」だ。「ここ数年(数十年?)は大したヒット曲もないのになぜ出演し続けることが出来るのか」という言説は、和田のヒット曲が出ていない期間と同じだけ存在している。なぜ毎年毎年そんな言説が出回るのだろうか。


さらに今年に至ってはBPO放送倫理・番組向上機構)が「アッコにおまかせ!」に対して、佐村河内守の取り上げ方に関して人権侵害の指摘と是正勧告を行った。それに対して、本日の放送では国山ハセンアナが「真摯に受け止め、今後の番組作りに生かします」とコメントしたにとどまるのみで、謝罪等がなかったことがまたネットの反感を買っているらしい。


亡くなった阿藤快さんを降霊させてでも言わざるを得ないだろう。「なんだかなあ」と。とりあえず順番に自分の考えたことを書き連ねてみよう。


まずは「アッコの発言気に食わない問題」である。これは「佐村河内BPO問題謝罪なかった問題」とも重なるが、簡単に言えば「知ったことではない」である。そもそもが矛盾している。なぜ和田の発言が気に入らないなら「アッコにおまかせ!」及び和田のメディアでの発言を見たり聞いたりする必要があるのか、ということ。


これを言えば必ず引き合いに出されるのが、フジテレビが韓流に寄せていったことに対するナイナイ岡村の「イヤなら見るな」発言だろう。個人的に岡村の思想は完全に薄っぺらいと思っているので、この発言の思想自体に共感はしないのだが、「自分がイヤだと思うならば見なければいい」という根幹に何も間違いはないと思う。まさに「アッコにおまかせ!」もイヤなら見なければいい。


フジテレビという局全体が嫌われた結果、フジテレビはいま大変なことになっているわけだけども、それと同じようにアッコそのものが本当に嫌われているならば、「アッコにおまかせ!」の視聴率はどんどん下降し、打ち切りが検討されてもおかしくない水準にまで達してないといけない。


しかし自分は今朝新聞を死んだ目で眺めていて、週間視聴率が掲載されている欄を見て驚いた。北海道地区になるが、先週の「アッコにおまかせ!」の視聴率は15.3%もあったのだ。アッコの前の時間帯の番組「サンデー・ジャポン」は18%近く取っている。視聴率は前の番組の影響が大きいので、サンジャポの恩恵にあずかっているのは間違いないとはいえ、まずサンジャポが北海道でこれほどまでに見られており、さらに3%近く目減りするとはいえ、北海道では15%近くが日曜昼間に「アッコにおまかせ!」を見ているのである。どこが嫌われているのだろうか。


もちろん3%は減っているので、その減ったぶんが「嫌われ分」と考えてもいいのだけど、にしたって15%。ここ最近の連ドラなんかよりずっと見られている。もちろん北海道地区だけの視聴率だから、関東やら関西では全然違ったもっと低い数字が出てくるんだろうけど、少なくとも北海道における「アッコにおまかせ!」の数字は低くない。みんな見ているのだ。


ではこんなに見られている「アッコ」はなぜ批判の的になるのか?簡単だ。「見てないやつが後から文句言う」からだ。その火種はたまたま見ていた「最初から嫌いなやつ」の批判的な見方か、もしくはネットニュースによるものである。それが一気に拡散する。本当にしょうもない。


最近のスポーツ新聞の配信記事を含めた「テレビ・ラジオ番組の発言をそのまま記事にするネットニュース」はそろそろ規制すべきだ、という話は長くなるので今回は割愛するが(そのうち書きたいとは思っている)、そのような記事を見た多くの「批判したいだけの人」が放送時のニュアンスを察することなく字面だけで批判する。だから否定的な意見が多く「ネット上」にあふれる。しかし実際のところはそこまで興味も関心も意見もなかろう。だってそもそも番組見てないんだもん。本当に和田に興味関心があるなら、見てから批判する。いや、そうするのが筋合いだ。けど批判したいだけのやつは「そこまで興味がない」んだもん。だから「そんな意見知ったことではない」のだ。番組もロクに見てないやつにやいのやいの言われる筋合いはない。そんなものより実際にアッコを画面で眺めている「15%近くの視聴者」がいるのだ。その人たちが和田の発言についてこれればそれでいい。今回の騒動に対する謝罪の有無だって、普段見ている人からすれば「そりゃしないよね」の一言だろう。だって、そういう番組じゃん。


以前から自分は幾度となく言っているが、「文脈を読めない奴が口出しをするのは愚かだ」ということ。「アッコにおまかせ!」を好きで見ている人には「アッコの発言」を文脈として受け止める力があり、それが好きで見ている人には許されている。別に「公共の電波を使ったテレビの放送」とはいえ、興味も関心もないオマエに向けているわけではないのだ。そこんところを勘違いしている奴らが多すぎる。なんでもオマエ中心に物事が進んでいると思わないでほしい。和田は確かに自己中心的な発言をしてはいるかもしれないが、オマエの批判は「ただ、和田が嫌い」という自己中から来るものではないのか?自覚があればいいけど、そんな自覚がなく正義面で批判しているのなら、どっちがタチが悪いのかな?


BPO問題はそもそもがおかしい。あの時どこだって「本当は聞こえてるだろ」という姿勢で報道がされていた。それをなぜ「アッコにおまかせ!」だけ人権侵害の指摘をされなければいけないのか。TBSを含めたどこの局も「奇跡の音楽家」という扱いをしていた手前、後ろめたさとバランスを取りながらやや腰の引けた報道をしていたわけで、逆にバラエティ色が強くそこまで突っ込んで放送したことが、佐村河内からすればよっぽど「都合が悪かった」んだろうよ。それを「人権侵害」とBPOが断定してしまうのは、なんのための機関なんだろうね、と思わざるを得ない。もうアッコ本人全然関係ない。とばっちりもいいとこである。そりゃ謝罪しないよ。


そして紅白問題であるが、逆に考えてほしい。


「和田を替えてまで出場すべき、させるべき歌手なんて、今のご時世存在する?」


それでも「いる!」と答えるならば、そいつには「紅白じゃなくてMステかニコ動でも見てろよ」という有りがたいお言葉を授けよう。自分の紅白観を持ち出せば、和田を外してまで出場させる歌手なんていない。


まず「売れていないのに紅白に出られるのはなぜか」という意見自体が時代錯誤も甚だしい。今や「誰もが知って、売れている歌手」は嵐、広義でいけばAKBくらいしか存在しません。逆にそれ以外の歌手は「誰も出る資格はない」のです。それをなぜ和田だけが言われなければならないのか。それはただ単に「嫌いだから」というだけでしょう。


そして紅白の出場者に関しては、いまやメディアで散々「力関係」というものが報道されている。純粋に売れているから出場する、できるなんてのを信じている人がどれだけいるのでしょうか。他の歌手だって、色々様々な事情を重ねながら「売れていない」けど出場するのだ。それを分かっていながら和田だけは批判される。「売れている人だけが出場できる」なんてのを純粋に信じて和田を批判している人ってどれだけいるんですかね。たぶんいないです。


また、売れている人だけを集めて行う「紅白」なんて、一ミリも面白くないんです。昔はそれで面白かったんですけど、今は250%面白くないはずです。だって、売れている曲は「売れているはずなのに、聞いたことない曲」があまりに多いんですもん。国民的ヒットの不在。それに直面した紅白が「どの世代からも面白いと言われる紅白を作ろう」と思ったら、そりゃヒットしてなくても出場させますよ。だって和田はヒットしていなくても「そこにいて歌う」ことに価値が出る数少ない歌手ですからね。一時期歌唱がヘタになっていたけども、最近歌う機会が増えたせいかまた調子が戻っている。画面の圧倒的な存在感は、凡百の「売れている歌手」よりも価値があると自分は思います。事務所の力関係云々以前に、今の紅白には和田は必要でしょうよ。批判している人はそう思っていないんだろうが、「紅白」というものの今の在り方を真剣に考えたら「当然」この結論に落ち着くと思うんだけどなー。それでも「つまらん」と思う人は、もう「笑ってはいけない」をずっと見れてばいいんですよ。


改めて和田アキ子に対する批判を検討していけば、シンプルな結論が出る。それは「ネット上にはびこる『無思慮な、なんとなく嫌い』を一手に引き受けている」ということ。もちろん感情的な批判に思慮は介在しないでしょうが、そこにやっぱり説得力はない。和田の傲慢な意見以上に和田に対する批判は感情的かつ説得力がない。その原因は「和田に対する関心が薄いから、和田についてちゃんと考えたこともない」からだ。「好き」の対義語は「嫌い」ではなく「無関心」とはよく言ったもんですが、「嫌い」という批判を正しく行うためには「関心を持つこと」が大事なわけです。けど和田の批判の大半は「嫌い」という感情すら正確に分析できていない「薄っぺらい嫌い」が多すぎるのだ。そりゃ響かない。和田も相手にする必要がない。


だから今の和田の批判は、至極薄っぺらいくせに数だけ多いもんだから、それになんとなく影響された大量の「なんとなく嫌い」を生んでいる。批判するならもっと腰を据えて批判してみろ、と言いたい。もちろん、大半は「なんとなく嫌い」なだけなので、そんなことしないし、できないし、する気にすらなりませんけどね。だから毎年不毛な薄っぺらい批判が垂れ流される。薄っぺらい批判が多いと「関心を持たれている」と勘違いされ、ご意見番としての厚みが出る。そんな批判に支えられて今日も和田アキ子は元気です。