タイトルで読む新作劇場

最近、というわけでもないですがテレビでも書籍でも「あらすじで読む名作」つうのが出ています。


ひねくれた人間なので「粗筋だけ知って何が楽しいんだろうか」とか思ってしまうわけですが、調べてみると最初に「あらすじで読む日本の名著」を出した目的というのが「最近読まれなくなった日本の名著の粗筋を知ることで、なんとか手にとってもらえれば」という極めてまっとうな目的だったことを知り深く反省。かくいう自分も古典(あるいは近現代の新古典)に属する作品というのは指で数える程度しかマトモに読んでおらず、嘆くよりも嘆かれる立場である。さらに反省。


以降似たような著作ならびに番組が登場しているわけですが、これらの全てが全て前述のような目的で編集・制作されたかどうかは不明であります。単なる便乗本だってあるでしょうが、それは別に悪いことではなく結果的に古典を手に取る機会と人数が増えれば目的は果たしているのだから、それを「商売だ」と批判することは出来ません。


でまあ、今回は自分もその「あらすじで読む名作」というのをマネしてみたいと思います。但し、「あらすじで読む」ということをそのままやっても誰も振り向いてはくれません。そりゃそうです。セカンドランナーはそれなりの工夫をしなければ売れるものも売れなくなってしまいます。そこで自分は粗筋ではなく「タイトルで読む」という大胆なことをやろうと思います。あらすじすら読むのが面倒くさい、けど中身が知りたいというあなたのワガママな希望をかなえてしまいます。


さらに今回は「名作」ではなく「新作」をレビューしたいと思います。「名作」であれば過去の作品でありますし、著作権も切れてるものが多いですから引用編集おおいに結構でありまして何も文句は言われません。しかしその一方で読んだ人間からすれば「読むまでも無い」とされてしまいます。しかし新作であれば「読もうかな」とか「これから読む」という人の参考にもなる。その代わり自分の説明だけで満足してしまう可能性もありますが、細かいことはまあ置いておきましょう。


そして凄いのは、自分もタイトルでしか読んでおらず、実際の内容とは大きく異なる可能性があるということです。だから本当に内容を読みたい人は実際に本を買うのがいいんじゃないでしょうか。だから「売上に響く」というクレームはナシでお願いします。まあ、誰もしないでしょうけど。


そんないい加減な企画である「タイトルで読む」作品に今回選ばれた栄えある(笑)作品は「おとなの叱り方」和田アキ子著であります。


さて、これをタイトルだけで読んでみましょう。


まず、とはいってもこれだけしかないんですがタイトルに「おとなの叱り方」とあります。そこで「おとなの叱り方」、ひいては「おとな」とは何かについて考えてみましょう。「おとな」と一口に言っても色々な定義があると思いますが、「叱り方」という言葉を手掛かりに考えると、ここで定義するべき「おとな」とは「叱られても仕方ないと思えたり、叱られて良かったと思えるような人間」という意味なのではないかと推測できます。


つまり大人とは「叱る資格がある人間」ということではないでしょうか。私怨を晴らすために「叱る」という行為をするのは「おとなの叱り方」ではないでしょう。相手の立場に立てるからこそ叱る。そんな人間こそ「おとな」であり、そんな人間の叱り方こそ「おとなの叱り方」でしょう。


中身にはおそらくそのようなことが書かれているのだと思います。多分。しかし重要なのは既に中身ではありません。


注目すべきは「この本の著者が和田アキ子」だということでしょう。「おとなの叱り方」を語ること以前に、和田が「おとな」なのかというのは大いに検討されるべき問題でしょう。


自分は「和田アキ子が叱り方についてあれこれ言うのが気に入らない」とはちょっと思ってますけども、「本を出してまで言うべき話か」とまでは思ってません。どんな人間だって語るのは自由なのです。喩えは悪いですがオッサンが援助交際という名の買春でもって女子高生に数万払って一発やった後に「こんなことしちゃいかんよ!」と激昂してもいいんです。ただ、「叱る」という行為に関しては品位と良識は問われます。叱る資格・資質のない人間が行えば「オマエが言うなよ」と間違いなく言われる。説得力がないんです。


だから和田が普段テレビで到底「おとな」には程遠い品位の欠ける発言をしていたり、ただの好き嫌いで相手を批判したり、自分の事務所の後輩の不祥事には大甘な対応をしていたりしても、「おとなの叱り方」という本を出版するのは自由です。犬井ヒロシなみに拳を突き上げて売ればいいんですよ。ただ、こちらとしては「オマエが言うなよ」とは言わせてもらうだけだ。


叱られるほうだって、相手に叱る理由と叱るに値する品位があれば納得できるかもしれません。しかし泥棒が泥棒に対して「泥棒はダメだろ!」と言っても説得力(叱責力?)ゼロです。同様に、到底「おとな」じゃない叱り方をする奴が「おとなの叱り方」について語ったところでそれは説得力がありません。


がしかし、これはまさに「おとなの叱り方」の極意そのものなのです。「おとなの叱り方」で大切なこと、それは「相手に“叱る”という行為を納得させる技量および品格」なのです。和田がこの本を出すという行為は、この定義が180度ひっくり返ってそのまま「これはおとなの叱り方ではありません。説得力も実効性もありません」ということをアピールしているのです。つまりは逆説的ではありますが、「おとなの叱り方」とは何たるかを和田がこの本を出すということそのものが既に何かを伝えていると言えるわけです。


この帰結は恐ろしいことに、中身を読むまでもなくタイトルだけで「おとなの叱り方」とは何かを我々に伝えるという、自分のコンセプトにぴったり一致するのです。ほら、もう読んだ気になったでしょう?


「おとなの叱り方」が出来る人は、少なくとも「オマエが言うな」ということはしない。


これがこの本をタイトルだけで読んだ結論です。ちなみに同じPHP新書から出され大ヒットした樋口裕一の「頭がいい人、悪い人の話し方」に関しても、タイトルで読むと「本当に頭のいい人はこの手の本を読んで真に受けない。だからこの本を読んで何かしら影響を受ける人間や頭がいい人の話し方になろうとして読む人間は頭が悪い、もとい単純」という結論が出るのに似ています。タイトルは大事ですが、タイトルが雄弁すぎると中身を読む気がなくなる。