絶望でしかない

川崎で起きた事件は凄惨としか言いようがないわけです。

 

自分が覚えているだけでも、一度に複数の人間に殺意を持って襲いかかった「無差別殺人犯」は何人かいる。具体的な事件は伏せるけども、そのいずれも自分より弱い子供や女性を襲撃するものが多かったように思う。自らの「殺意」を遂行するために確実に殺せる人間を襲うというのはとても卑怯である。これは断言したい。今回の事件は大人も襲われてはいるが、そもそものターゲットとして子どもを狙っている時点で根っこは同じである。

 

しかし今までの事件で大きく違うのは、犯人は「最初から死ぬつもり」だったということだろう。もちろん犯人が死んでしまっているので推測でしかないのだけども、犯行の素早さ、そして自分の首を切りつけるまでの躊躇のなさを考えれば、結果がどうであれ死ぬつもりだったと考えるのが妥当だろう。

 

事件が起きてから報道はこの話で持ちきりだ。当たり前だろう。何の罪も落ち度もない人々が犯人の身勝手によって命を落とす。こんなにやりきれない話はない。そしてその怒りを、犯人に対する処罰感情をむき出しにしようとも犯人はもう死んでいる。「死んで償え」という言葉はよく耳にするが、実際に死んでいる犯人に対しては何の意味も効果もない。結局我々が言うところの「死んで償え」は本当に死んでいる人間に対しては無力でしかないことを思い知らされてしまったのだ、不覚にも。

 

これからの世間の動きといえば「マスコミが背景を報じようとして取材過熱」「被害者感情を無視した報道」「ネットで批判」という決まりきったコースをたどるのだろう。マスコミも大概にしろよ、とも思うが、それをいつも通り居丈高に「マスゴミ」といって溜飲を下げているネットバカももう落ち着けよ、と思う。報道しなけりゃしないで「なぜ報道されないのか、上級国民か」とか言い出すわけだし。進歩がないのはお互い様だ。どっちも気付いてほしい。

 

もはや「何で殺したのか」といういわゆる「心の闇」を探るのは、何の解決にもなっていないことは、もうみんなうっすら気付いている。たぶん報道するマスコミ側も気付いている。しかし「心の闇」を探ることで「自分とは違う」と落ち着く人たちが、まだまだ多い。自分と違うことで相手を思いっきり犯人扱いし、非難することができるからだ。けどその「自分の安心」を求めても、当たり前のように同じような事件は起きる。全く意味がない、とは言わないけども、もっと他の報道のアプローチはあるんじゃないかとは思う。

 

自分はこの事件を見て「あー、もう絶望でしかないな」と思った。それは事件の凄惨さもさることながら「捨て身の人間にはあらゆる防衛策は意味をなさない」ことが分かってしまったからだ。

 

一般的にスクールバスというのは通学手段として安全な部類に入るだろう。もちろんバスの事故のリスクはあるだろうが、バスさえ安全に走れば外部からの危険にさらされることはない。今回のバスがどのような事情で走っているかは分からない。単に学校から遠い生徒に対する移動手段だったかもしれないし、それこそ安全面を考慮したうえでのバスだったのかもしれない。しかしそんなバスでも捨て身の人間に襲われればひとたまりもないのだ。

 

捨て身の人間の怖さは「何をしても死ねば終わる」と開き直れることだ。「死ぬこと以外はかすり傷」なんてキャッチフレーズの編集者もいるが、まさに死ぬつもり、しかも他人から処刑をされるのではなく自らの意思でもって死を選ぶ人間には一切の道徳も説教もムダ。そして対策もできない。考えれば考えるほど絶望でしかないわけだ。

 

そんな絶望も、自分の場合はももクロちゃんヤンキースタジアムでわちゃわちゃやってる姿を見て少しは回復するのです。犯人にもそういう「神」がいたらよかったのになあ、とはちょっと思うわけですね。日本人はオウム以降宗教アレルギーが大きいわけですが、精神の安定を図る意味での「神」はやっぱり必要な気がします。