実名を晒して何になる。

光市の母子殺害事件の犯人である元少年Aの実名を書名に冠した本「××君を殺して何になる」(××の部分はちょいと調べてもらえれば分かることですが、あえて伏せておきます)が発売されるとかで、また、その発売に関しても当の少年A側(少年Aではなく「少年A側」と敢えて書く)が認めてないとかで訴えるとかそういう話になっている。


なんともまあみっともない話よ。


自分は別に「犯罪者には人権も何もない!」とか思ってはいませんけど、この事件の犯人であるこの元少年に関してはもう28なんだから名前くらい晒されても何の問題もないとは思ってます。だから実際に実名が冠された本が発売されても、その中身がマトモでさえあれば別にいいんじゃないかとは思うのです。


しかし、記者会見を見る限りではどこをどう捉えてもこの本が「マトモ」だとは思えないところが悲しい。どう考えても「どこかしら可哀相な人が書いた本」としか思えないんだから。


著者(とされる、と括弧書きをする時点で自分はこの著者の素性も胡散臭いと思っている。元フリーライターで現一橋大学職員ってどういう事?逆なら分かるが、今の職業・肩書きで本を出して職場に迷惑がかかるとは思わないんだろうか?)曰く、

「『元少年』という表記は記号であってイメージがわかない。一人の人間としての彼を感じてもらうために、被告の承諾を得て実名表記を決めた。『元少年』という表記は彼への人権侵害ではないか」
(引用:毎日jp

とのこと。この著者、自分とさほど年齢が変わらないのだが、悲しいかな言ってることが殆ど理解出来ない。それどころか同年代がこんなトンチンカンなことを言ってると思うと眩暈すらする。確かに「元少年」という表記・呼称は「記号」ではあるが、それが「本名」に変わったところで、それも「記号」の範疇をはみ出すことはないのではないか。特別に自分に馴染みのある名前であればまだしも、殆どの日本人にとって「犯人の名前」でしかない本名を、「元少年」以上の記号として捉えることが出来るかと問われれば、自分は大いに首を捻らざるを得ない。それ以上「本名」の表記から何を汲み取れというのか。人権侵害云々のくだりは「アホか」の一言に尽きる。


また、「被告の承諾を得て実名表記を決めた」というのも極めて胡散臭い。この手の人たちは口約束ひとつだけで「承諾を得た」とか平気で言ってしまうので怖い。自分が著者なら間違いなく念書は取るだろうし、当然に弁護団からの許可だって取る。それが出来ないのであれば「承諾を得た」なんて表現は使わない。


しかし現実として弁護団から訴えられている。まあここの弁護団は少年Aの弁護よりも少年Aをダシにして死刑廃止イデオロギーを訴えたいだけの連中であるから、仮に許可を取っていたとしても、自らのエセ正義のために訴えを起こすこともやぶさかではない、ということも考えられる。なんにせよ「ロクなもんじゃない」と周囲の白い目に気付かない人たちである。無論それは弁護団に限らず、この本の著者も出版社も同じなのだが。


あからさまな売名・宣伝をどのような屁理屈をつけるか。この本に関する騒動はこの1点に尽きるわけで、戦略的には「ヘタクソ」といわざるを得ない。なぜなら、金を出して買うまでもなく内容が「しょうもない」と分かってしまうような記者会見だったからだ。


正確には忘れてしまったが、記者会見で著者が「世間の人は少年Aのことを、少年法を狡猾に利用した知能犯であると思われているかもしれませんが……」などと語っていた。確かに結果的には少年法が隠れ蓑になった事件ではあるが、あれだけ自分の欲の趣くままでに殺人を行った犯人に「知能犯」という言葉を選ぶあたりに、この著者の、そしてこの本の「底の浅さ」を感じずにはいられない。どこをどう捉えたら「知能犯」になるのか。


ま、話題にはしっかり釣られてしまったわけなので、それを挽回すべく自分が言うべきことはただひとつ。

「本を書店でみつけたらしっかり無視しましょう」