繰り返される悲劇

沢田知可子、訴えられる。


訴えたのは沢田の代表曲である「会いたい」の作詞家の沢ちひろ。今朝の「モーニングバード」で詳しく放送されたようだが、ネットの記事によれば


・曲のモチーフは作詞家沢氏が幼少時に亡くした母の思い出だったが、沢田が自分の体験談のように語っている。

・「安定したい」という替え歌を歌っていたのを見て「曲が大切にされていない」と感じた。

・アルバムで英語詞を付け足したバージョンを無断で使用した。


という3点の理由から著作者人格権侵害による提訴に至ったらしい。著作者人格権とは簡単にいえば「著作物を著作者の意図しないやり方で使っちゃいかん」というもの。沢田知可子のこの曲に対する扱いが気に食わなかったのだから、まさにこの話。


沢田からの反論は以下の通り。スポニチの記事を引用すると

「私の体験談とは言っていない」「誠意を込めて丁寧に歌っている」などと主張。替え歌には「私も嫌だと思った」として、アルバムについては「一切、歌詞は付け足していない」と話している。

とのこと。体験談の話は水掛け論になるだろうし、歌詞の付け足しに関しては「付け足していない」と述べているが、んなもん実際のアルバム聴けばわかる話。一番言い逃れ出来ないのは替え歌だろう。スポニチの記事で明記はされていないが、替え歌を披露した番組は間違いなく「からくりTV」だ。沢田の「私もイヤだと思った」はあまりにしょうもない言い訳である。イヤだとしてもテレビで歌って流れているんだから、そりゃ無意味ってもんだろう。からくりのスタッフが悪いという論調に持っていきたいのかもしれないが、自分の感覚だと、最終的に歌うことを決めて歌った沢田が7:3で悪いと思う。


マトモに戦えば沢田に分が悪いでしょう。裁判の勝ち負けはどうなるか分からないけど、負けたらもちろん、勝ったところでこの曲に対するイメージの損失は計り知れないわけで、何一ついい事がない。沢田が唯一「勝ち」と言えるような状態は、事を穏便に進め、なんとか作詞者の怒りを鎮めることだろう。それ以外は何をやってもダメ。厳しい状態だ。


しかしまあ誰しもが思うところだろうが、やはりこの事件に関しては「なぜ森進一から何も学ばなかったのか」という感想が口を突く。森進一と川内康範による「おふくろさん」騒動はまだまだ記憶に新しいのではないか。それこそ森側が「勝手に歌詞を足した」ことが発端ですもの。今回のアルバムの件とちょっと似てる。


いまやショボい歌手がショボい歌詞を自分で書いた曲を歌うのが珍しくないので、作詞家という存在が殊更にスポットライトが当たるような機会はあまりない。しかし作詞家からすれば、自分の歌詞というのはそれこそ魂を込めた「作品」なわけで、雑に扱われるのはそりゃ不本意だろう。


一方で歌手からすれば、与えられた楽曲は歌手が歌い込むことによって「歌手のもの」になるわけで、作詞家や作曲家が思っている以上に「自分の曲」という意識が強いはずだ。森進一にしても沢田にしても、まさかこんな事態になると思っていないのだ。なぜなら自分のヒット曲は誰が何と言おうとも「自分の曲」なのだから。歌詞の付け足しだって「自分の曲」だからこそ自由にできるし、自虐的な替え歌にしたって、プライドを切り売りしているのは自分だけだと思っている。そこで「作詞家から訴えられる」だなんて微塵も思っていない。


おふくろさん騒動は、森進一の代表曲という自負と慢心が生んだ悲喜劇だったと自分は思うわけだが、沢田知可子に関しては「森進一の教訓を何も生かしていない人」としか言えない。まさか自分が訴えられるだなんて思っていないという点では森と同じなのだろうけど、森進一に降りかかった悲劇を自分と置き換える想像力が足りなかった。ついでに言えば「会いたい」以外めぼしいヒットもない沢田は、森のように「おふくろさん」を一定期間遠ざけても困らないほどの余裕もなかった。可哀想と言えば可哀想だが、だからこそもっと大切にしなきゃいけなかったんだろうな。


自分は沢田を悪者にする気はない。ちょっと想像力が足りなかったくらいで、沢田の立場になれば日本人の80%くらいが同じことをやるんだって。「自分はやらない」だなんて断言できる人は、それこそ「自分が沢田の境遇と立場だったら」という想像力が足りない。


だから自分は、沢田が粛々と「どうにかする」ことを望む。今回の件は森から何も学ばなかったからこそ生まれた悲劇なので、今からでも森に学んで、早いとこ三文芝居で「とらや」の羊羹でも持っていったらどうだろうか。顔面にぶつけられるかもしれないけど。