老けている、わけじゃない

NHKの土曜ドラマ「フルスイング」を見ました。長年プロ野球のコーチをしていたが学校の先生に転身した高畠導宏の実話をモデルにしたドラマ。高橋克実の連ドラ初主演作になる。


ドラマの中身は「ありがち」と切り捨ててしまうのは申し訳ないが、まあありがちな話。今伊集院光のラジオ「深夜の馬鹿力」で「1億人が泣いた!感動の作り話」というコーナーがある。伊集院曰く「本当に感動できるのは実話なんかじゃなくてよく練られた作り話」とのことだが、自分もそう思う。確かに実話には、現実には起こりそうもないことが起きてこそ「実話」の価値があり感動出来るけども、そうでない場合は作り話のほうがよっぽど感動出来る気がする。このドラマも実話を元にしているからこそ、「ありがち」の一言で片付けるのは申し訳ない気がするが、これが完全作り話だったらやっぱり「ありがちだよなあ」で片付けられるのではないだろうか。


もちろんまだ初回だけなのであっさりと「ありがち」という評価を下すには早いのだろうけども、「実話」だからこそ、ここから突飛な展開があるわけではないだろうし(高畠氏はこの後ガンで亡くなることは分かりきっているし)、やはりこのドラマの見所は「実話による感動」でしかないんだろうなあとは思う。こんな書き方をしてしまってはドラマの評価としては低いように思われそうだが、決してそんなことはなく、NHKらしい丁寧で良質なドラマではある。


ドラマの中身が今回の本題ではなく、話題にしたいのは高橋克実


高橋克実といえば「トリビアの泉」もしくは「ショムニ」というイメージが強い。自分はショムニシリーズを殆ど見ていないので、高橋克実にこのイメージはないのだけども、世間的には「トリビア」「ショムニ」のどちらかだろう。俳優だけどもバラエティに出ても面白い人、というイメージか。


ショムニ」に限らず連ドラ及び2時間ドラマでは結構目にする機会がある脇役であるが、主演はこのドラマが初。主演俳優の飽和状態が続いている日本のドラマにおいて、脇役クラスの役者が主演を務める機会も今後は増えてくるのかもしれない。単に目新しさという意味ではなく、主演俳優には演じることの出来ないような役が主役のドラマが増える、という意味で。


例えば今放送中のドラマ「あしたの、喜多善男」も小日向文世が主演である。小日向は現在54歳であるが、同じ50代の舘ひろしが主演であっても別に不思議ではない。もちろんこのドラマの主人公のキャラクターを考えれば舘ひろしではなく小日向文世が適任であるのは自明ではあるのだけども、舘が「パパとムスメの7日間」のようなコミカルな演技を見せたことを考えるとあながち悪くないし、舘が主演俳優であることを考えると「舘でいいのでは?」と考えるスタッフがいてもおかしくない。


しかしそれでも小日向が主演ということは、小日向が主演俳優であるか云々ではなく、この主演は小日向のような元来主演俳優ではない人が演じるべき主人公であるという判断がなされているということだろう。まあ単に関西テレビが小日向大好きということもあるのかもしれないけど。


でもって今回の「フルスイング」高橋克実。NHKは過去にさだまさしがモデルのドラマの主演に坂口憲二を起用した(「精霊流し」)ことがあり、役柄とは関係ない主演俳優を持ってくることも厭わないイメージがあったのだけど、高橋克実。これも単に「頭の形、つうかハゲ具合が似ている」という完全ビジュアル起用の可能性も否定できないが、高橋克実のイメージがドラマの役と結びついての起用となったのだと信じたい。現に高橋はドラマの中でいい味を出しまくっていたし。


ものすごーく前置きが長くなってしまったが、ようやく本題。高橋が演じた高畠(ドラマの中では高林)の役は58歳(次週より59歳)なのである。一方高橋の実年齢は46歳。実に一回り年齢が違うのであるが、これがまあ違和感のない58歳だった。


ドラマにおいては実年齢と離れた役を演じることが珍しいわけではない。女優で実年齢と10歳も離れた役を演じることは特殊メイクでもしない限り滅多に見られないが、男優の場合は小栗旬25歳が未だに高校生の役を演じることがあるように、役者において大切なのは実年齢ではなく「演じる役の年齢に見えるかどうか」である。まあ小栗の高校生はそろそろキツいとは思わないではないが。


その点今回の高橋克実は、実年齢と12歳も離れているにも関わらず、完璧に58歳に見えた。自宅で眼鏡をかけて新聞を読んでいる様は、逆に46歳にはとても見えなかった。これは演技力がどうこう、という話ではなく、単に高橋克実の「老人っぽさ」にある気がする。


普段テレビで高橋を見るぶんには、全然老けている感じがしない。そりゃまあ頭頂部の毛がないのでそんなに若くは見えないけども、かといって還暦間際の男性に見えることはない。にも関わらずドラマの高橋は完全に「還暦直前」だった。これっておそらくではあるが、高橋克実という俳優は思いのほか「老人っぽさ」を備えている俳優なのではないのか、と。


「偽老」という言葉を藤村俊二に用いたのはナンシー関だ。


ここでも以前に書いたことがあるかもしれないけど、まだナンシーが存命中の頃に、「おひょい」こと藤村俊二が実年齢よりもわざと老け込んだキャラを装っているのではないか、という文章を書いたことがあったのだが、その時にナンシーが用いた言葉が「偽老」だった。この文章を読んだときには「流石はナンシー関」と脱帽したものだった。


現在藤村俊二は74歳であり、ナンシーが「偽老」と表現したころよりも間違いなく本当に老人に近づいているし、何より本当にちょっと老け込んできた感も出てきていよいよ「真老」になろうとしている。裏を返せばナンシーが「偽老」を指摘したころからの老けの進行度合いを考えると明らかに変化に乏しい。つまりは当時の藤村はナンシーの指摘どおり「老け」を装っていたのだろう。


高橋克実は今現在「老け」を装ってはいないが、装うことの出来る才能があるんじゃないかと思うわけで。


「老ける」という現象は人間に誰しも訪れるものであるが、「老けを装う」のは才能だと思う。もちろん装う必要があるかどうは別として。人間誰しも、とは言わないが殆どの大人が「若く見せたい」と思うのではないだろうか。年寄り扱いされるのを嫌う。しかしごく稀に藤村俊二のように、「老人を装っていたほうが得なのではないだろうか?」と気付いてしまう人がいる。そういう人が「老け」を装う。


今後高橋は「老ける才能」を生かして、もっと実年齢より高い役をすべきなのではないか。藤村俊二が「老人っぽさ」を早くから醸して今のポジションを確立したように、高橋も早くから積極的に老けた役をこなし、息の長い活躍をすべきなのかもしれない。自分にとって物心ついた時から「老人」だった桂歌丸がいまだに「老人」なのと同じように、高橋にも今の子供が高橋を「老人」と認識するようになってからこの先20年くらいはずっと「老人」であり続けるようなそんなポジションについてほしい。「早く老ける」「老けを装う」のも立派な才能だ、という認識を世の人はもっと持つべきなのかもしれない。