加藤晴彦の人生設計に物申す


笑っていいとも!」を見てたらテレフォンショッキングのゲストに加藤晴彦

トークの途中に「20 代は働けるだけ働いて、30代は敵見方の区別をつけて、40代からセミリタイアするのが目標」という話をしていた。これは以前に出演したときにした話らしいが、今回もその話に触れて話を展開していた。以前に出演したときの話は知らないのだが、今回のこの加藤晴彦の発言を聞いたとき、なんだかもう無性に腹が立ってきた。直感的に嫌な感じを受けたのだ。

怒りのポイントはふたつほど。ひとつは40代のセミリタイアという悠悠自適をにおわす発言。もうひとつはセミリタイアの芸能人といえば真っ先に思いつく大橋巨泉の存在。

果たして加藤晴彦は40代でセミリタイアできるほどの大物なのだろうか。いや、小物であっても勝手にセミリタイアを発言すればいい話なのだが、「セミリタイア」言うからにはあくまで「まだまだやれるけど自分としてはそろそろ辞め時だと思うので仕事を大幅にセーブします」という意味なのであろ。セミリタイアが持つ重みとしてはやっぱり「まだまだ人気も需要も仕事もあるけど自ら封印」という「大物」である必要性があるように思われる。例えばここでダウンタウンが大幅に仕事を減らして趣味の感覚で働きますと言えば、それはセミリタイアであるが、ダンディ坂野セミリタイアしますと言ったところでそれはただ単に仕事が減っただけでセミリタイアとは言わない。

つまり、すべからく「セミリタイア」を目標としているからには、セミリタイアを表明するまで自分の人気が安泰である必要がありそうだ。ここで、問題なのはその「必要」の部分だ。自分からすれば「セミリタイア」における人気は前述のとおり「必要条件」であると認識しているが、加藤本人はもしかして「必要条件」ではなく「十分条件」として捉えられているのではないだろうか?確信はないが、そんな気がしてならないのだ。「いやあんた、『気のせい』で人を揶揄するのはまずいんじゃないかね』と良識のある方からお叱りの言葉を受けそうなのだが、自分がこの発言を聞いたときに受けた「直感的な嫌な感じ」はそこに起因しているはずだからである。

40代までにセミリタイアという発言は、裏を返せば「40代まで自分は芸能界に生き残っているうえ、ある程度の地位にいる」という含みがある。それを「目標」だとはいいつつも、テレビというメディアにこのような発言を乗せるということは結構な自信があるのだろう。「自信」と表記したが、それは無自覚なものかもしれない。自覚しているのならそれはやっぱり嫌悪感があるが、セミリタイアするということに人気が必要であるという自覚がないとしても、それは人気がある現状はセミリタイアができる環境であるがゆえに、人気がなくなればセミリタイアができないという意識に欠けているだけでそれは「人気(仕事)がなくなる」という状態が意識できていないだけのこと。つまりは今の人気がある状態が揺るがないと思っていることに他ならない。
20代、30代ときて40代のセミリタイア論を導き出してはいるのだが、どれもこれも「芸能人としての仕事は安泰」という前提があってこその話であるのに、それを当然のこととして話しているような感じを自分は受けたのだ。ちっとも芸能人としての仕事(人気)が安泰であるなんて保障はないのに、そこを前提とした話っぷりは先のことを見据えてプランを語っているようで実はまったく足元をみてないんじゃないかという「驕り」を彼に感じたわけである。


もうひとつは「セミリタイア」に見える巨泉の影である。

大橋巨泉が「セミリタイア」を宣言してから、ちょくちょく日本に戻って来ては「大物感」を振りまいて小銭を稼いではまた悠悠自適な生活に戻っていくのである。正直、そんな人間をテレビで見たいとは思わないのだ。加藤晴彦が目指している「セミリタイア」が本当はどんなものか知る由もないが、芸能界でセミリタイアを標榜する以上、巨泉の影がちらつくわけで、ちっともいい印象を受けない。こっちはただ単にそれだけの話なのであるが、嫌悪感を抱くのには十分な理由である。


実際よく考えてみると「30代で敵味方の区別をつける」なんて発言も小賢しいとは思うのだが、それ以上にセミリタイアの発言が持つ嫌悪感に耐え切れなかったということだ。もっとも、セミリタイアの発言だって宇多田ヒカルが「40でセミリタイア」と言ってもそれほど嫌悪感はない。だって、本当に出来そうなんだもん。実力もあるし。でも、加藤晴彦に関して許せなかったのは「早乙女タイフーン」が代表作のオマエがセミリタイアを言っちゃうかねというごく単純な「実力不足」を指摘したかっただけなのかもしれない。きっとそうだ。