麻生久美子が壊れているもの

情熱大陸」に麻生久美子


以前に書いたことがあるような気がしますが、私麻生久美子も好きであります。まあ平岩紙木村多江を好き好き言ってるのをご存知の方ならば、麻生久美子も同系等の顔であり、やっぱり好みのタイプであることは想像に難くないでしょう。


でまあ、麻生久美子映画女優さんであって、自分が主戦場としているテレビには滅多に出てきません。一応「時効警察」という連ドラの代表作もありますが、殆どが映画。だからバラエティにも出てこないし、雑誌のインタビューで読む以外には彼女の素性を知ることはないのであります。


そんな麻生久美子を「情熱大陸」で見た感想。それは「自分が自分でないことへの恐怖感が欠落している」ということ。


彼女は取材のカメラに対して、「他人に言われたことを概ね受け容れる」という話をしている。それは他人が彼女に与えたイメージを否定しないということであり、自分がどう他人に見られていても平気だということ。そして裏を返せば、他人がイメージしている自分に忠実に従えるということで、それは女優としてどんな役でもこなすことが出来るということだ。まさに女優が天職。


そう思える一方で、自分は「色々な役を演じるからこそ、どんな役を演じていても実存する「麻生久美子」という自分に戻れる軸のような「自分」となるものが必要なのではないだろうか」とも思える。けど自分が番組を見ていた限りでは、麻生にその「軸となる自分」が存在していないように思えた。まるで役を演じていない自分は、自分そのものであり何者でもないかのように。まさに「フラット」なのだ。


いくら役者が「フラットな自分」と言ったところで、それはあくまで「フラットな自分」という軸に過ぎない。けど麻生の場合は「フラットな自分」という軸ではなく、完全にフラット。まるで「自分という軸」なんぞ必要としていないかの如くだ。


これを書いている人間もそうだが、人間誰しも「自分」という譲れない部分は持っているし、ないと「自分が自分でないような感じ」がして恐怖すら覚える。そしてそれは人間の弱さであって、一番人間らしい部分でもある。けど、麻生にはこの感覚が欠落している。壊れていると言ってもいい。あまりに強い。「自分なんか必要ないのだ」と高らかに宣言しているかのようだった。


けど自分のように矮小な人間は、その強さに憧れると同時に恐怖も感じる。果たして彼女は人間なのか、それとも悟りを開いたブッダなのか、はたまた人間でありながら人間とは最も遠い場所にいる「何か」なのか。



そんなある意味「人間離れ」をした「壊れている危うさ」が麻生久美子の最大かつ最高の魅力なのかもしれない、と取ってつけたような文章で締めてみる。しかしまあいい女優です。