ファンキー一門

オリラジ中田の例の動画、見ていないけどなんか書けそうな気がするので書いてみました。本来なら「見てから言え」と言われて当然なのですけど、あんま見る気にならない。再生回数回すことでバズったと思わせたくない。思わせないことが大事だし。そしてもう一度言いますが、見なくても書けるなあと思ったので。

 

言ってること自体はよく分かるのです。ひとりの人間に大きな責務を負わせすぎると、それが本人の意図するしないに関わらず権力を持ちすぎることになるし。ただまあ「請われているからやっている」という側面を無視してはいけないと思うんですけどね。また、業界全体が依存しすぎているというのは、前回「ラブメイト」の件について書いた時にも同じような話をしたし、主張そのものが大きく的外れってことはないと思うのです。

 

しかし、その議論のゴールに「もっと俺を褒めて」があるものを、どうして首肯できようか。

 

「お笑いって色んな観点があってもいいじゃん、ていうか自分はそういう笑いをやってきたつもり。だから自分も同じくらい褒められたいし、褒められてもいいはず。てかもっと褒めろ」って言ってる動画だと自分は思っています。見てないから違うかもしれないけど、最近絶不調の村上くらい確信もって歩いてます。違ったらごめん。違ってても謝らないけど。

 

大御所への提言みたいな言い方してますけども、最終的に誘導したいのは「俺はもっと褒められるべきだし褒めてほしい」でしかないもの。途中まあまあ正しいこと言ってるとは思いつつも、それが「自分をほめて」の材料でしかなかったら、誰がそんなものに賛同するかい。

 

世の中には自己評価と他人の評価がマッチングせずに苦しんだりもがいたりする人がいます。自分は性格が悪いので、そういう様を見てほくそ笑むのを生業としているのですが、その最たるところにおられる人物を知っています。そう、ファンキー加藤です。

nageyarism.hatenablog.com

nageyarism.hatenablog.com

詳細は過去の文章を読んでほしいのですが、簡単に言えば、ファンキー加藤という人間は「けっこう凄いことやってるのに、自己評価がもっと高いので、結果他人に褒められたくて仕方ない」という人です。ファンキー加藤のやっていることはこんなとこでブログ書いているようなテレビ批評家気取りくんに比べれば1万倍凄い。世間からもある程度認められている。しかし自己評価はその1那由多倍くらい高いので、結果貪欲に名声を取りに行く様が最高にアレだ、という感じ。何度もいうが、凄いのは凄いんですよ。

 

もう、オリラジ中田は完全にファンキー一門ですよ。知ってたけど改めて今回の動画でそう思った。やっていることは確かに凄いんですよ。早くから売れて、何度もヒットを飛ばし、そしていまやYouTubeで大儲け。それが好き嫌いはともかくとして(これはファンキー加藤も同じ)、凄い人です。そこは間違いないんです。けど、自己評価がファンキー加藤以上に高い。ガチでパーフェクトヒューマンという立ち位置ですよね。あれが面白くなくなっていったのも、「あれ?この人本当に自分のことパーフェクトヒューマンだと思ってるんだな」となんとなく世間が気づき始めたときからですよね。認めないだろうけど。

 

だからこそチャンネル登録者数が膨れ上がっても、満たされない。そこに松本人志を超える名声はないからですよね。でもね、仕方ない。やっていることでいけば松本クラスとまでは言わないが、それなりに名声を得ていいレベルなんだけども、それを決めるのはあくまで他人だから。他人はそこまでのもんだと思っちゃいないっつうことなのよ。

 

奇しくもファンキー加藤の宿敵アンタッチャブル柴田は、かつて品川庄司の品川にこう言い放った。

すごい才能を持っているのに全然羨ましくないし、憧れない。」

nageyarism.hatenablog.com

自分はこの発言が忘れられないとともに、自分のひとつの指針になっている。このブログでも何度も書いている。凄いことは認めつつも憧れなくていいんだな、ということ。そしてファンキー一門の人は、この「凄い=憧れる」が当然の図式としてあるから、自分の「凄い」を突き詰めていくんだけど、それが他人からして「憧れるもの」であるかどうかは、また別なんだってことにもうこれは気づかない。気づいていても核心に触れるのが怖いから見て見ぬふりをしている。

 

他人から評価される、憧れられるっていうのは、その実績だけじゃあないんですよね。詰まるところ「人」を見ているんじゃないのかい。だからこそ、そこが圧倒的に「足りてない人」は、どこまでいっても自分の評価と他人の評価が一致することはないんだと思います。

 

憧れや評価は強制するもんじゃない。こっちには憧れる自由がある。