精神の谷間

気付いたらもう1月後半でやんの。仕方ない。2週間休みなしで働かされていたらこうなる。テレビもあんまり見れてない。最低限こなしている感じです。「江戸モアゼル」のことを全力で書きたい気持ちは山々なのですが、いかんせん疲れていて、いまいち気分が乗らないのです。

 

テレビ見れてないってのが一番の理由ですけど、それと同時に年末にオリエンタルラジオが吉本辞めて独立つう話に対して、自分の中で「なんか喉に小骨引っかかってる感」があり、自分の考えを言語化するまでにもうちょっと時間がかかりそうで、そこもすっごいもやもやしていたり。年明けてからずーっと精神的に「やや下降気味」です。仕事のせいもありますが。

 

もう少し仕事が落ち着いてきたり、テレビを見る時間ができたりと余裕が出来れば変わってくるのでしょうが、今はまだ精神的に谷間にいる感じですね。

 

と、ここまでが前置きです。言いたかったのは「谷間」だけです。もちろん書いたことは嘘ではないのですけど。

 

映画「記憶にございません!」の地上波放送があったので、録画を見ました。三谷映画は極力映画館で見ようと思ってはいたのですが、いかんせん気付いたら映画終わってたくらいの生活をしているので、今回も見ることなく普通にスルーしてました。だから地上波でやってくれるのは本当にありがたい。「ギャラクシー街道」は完全に無視されてますけども。

 

内容としては、「三谷幸喜は『総理と呼ばないで』をもう一回しっかりやりたかったんだろうなあ」という感じです。かつて田村正和主演で放送された連ドラ。前評判は高かったけれど、それほど話題になることなく終わったドラマ。三谷幸喜の中で消化不良だったんだろうなあ、と。今の田村正和では難しいので、中井貴一で多少設定を変えて再挑戦、みたいな印象でした。普通に面白かったですが、映画の尺では逆に物足りなくて、連ドラで見たかったなあと。

 

とまあ今更映画の感想なんて書いたところで誰も読まないわけです。そんなことを書きたいわけではない。自分が精神の谷間で気になったのは「無駄に炸裂した吉田羊の谷間」です。

 

ただのスケベじゃねえか、と言われればそれまでですが、スケベを置いておきいったん冷静に考えると「吉田羊が谷間を晒す必然性はあんまりなかった」という事実がなんとなーく最後まで頭に残る映画なんですよね。

 

吉田羊の役は記憶喪失の総理大臣(中井貴一)の同期の議員で野党第二党の党首であり不倫相手。ホテルで密会して情事に及ぼうとする役なので、そりゃあ脱ぐんですけども、なぜか中途半端に谷間だけ見せつけてくるのです。誰も「吉田羊がヌードになるかも」とは思ってません。そもそもこの映画のテンションにおいて吉田羊が不意に谷間を晒してくるとは誰も思っていないのです。しかし吉田羊は「女優だから谷間くらい見せるわよ!」ばりの圧力で谷間を晒すのです。

 

得、したのかなあ。

 

自分は映画が終わるまでずーっとそんなことを考えてました。そして映画が終わってました。吉田羊の谷間は予想外にエロく、普通に考えたら「期待してなかったけどいいもの見れたな」となるような気がするのですが、今これを書いている最中ですら「あの吉田羊の谷間はなんの意味があったのだろう」と思っている。しかしエロに対して冷静になれることはただの敗北でしかなく、やっぱり不要だったのではないかと思えてしまう。

 

そして何より映画の感想そっちのけで吉田羊の谷間について自分が考えている時点で、映画のストーリーには不要でしかないと分かる。よって結論は「三谷幸喜が見たかっただけ」だろう。

 

自分の精神的には谷間でも、三谷幸喜が谷間を欲していたことは分かる。そんな映画。