たくらまれてもなあ

「全力!脱力タイムズ」である企みがありました。

 

先週放送されたのが四千頭身後藤の回で、今週放送されたのがジャングルポケット斉藤の回。ゲストの女優は変わったものの、それ以外の内容はほぼ同じ(最後の漫才披露が、後藤のときにジャンポケの残り二人、斎藤の時が四千頭身の残り二人だった)でどう振る舞うかの実験というネタバラシが最後にあった。それを聞いた斉藤が「何のために」と呟いたが、まさに自分も同じ気持ちだった。悪い意味で。

 

番組の進行としては「日本のバラエティを海外に売り込む」みたいな感じで、架空の(だと思う)ネット番組のプロデューサーにプレゼンするというもの。これは「日本のバラエティはこういうこともまだまだできるぞ」という、番組側から視聴者に対する挑戦状みたいなものなのだろう。一応騙していたのはゲストの二人(というか斉藤)だったけども、本当に「企み」を向けていたのは言うまでもなく視聴者にだ。

 

で、これをどう捉えるかってのはなかなか難しいところです。

 

自分の素直な感想からいえば「企みとしての面白さは分かるが、素直に面白いかどうかと問われればつまらない」となる。

 

斉藤回の最後に登場した後藤が「何で全員が両方見ると思っているんですか」というツッコミを入れていたが、これも正しい。どちらかしか見ていない場合は「ただのそういうもの」でしかなく、最低限の面白さは提供されているものの、単独で見た場合それぞれの放送が毎週のクオリティに到達していない気がした。ここが難しい。

 

自分を含めた「よき視聴者」というものはなんだかんだ毎週見ているものだ。こういう企みは「毎回見ている」ことが前提となるが、それは同時に「毎週見ている人たちへのサービス」という側面もある。「一見さんでは分からない」かもしれないが、「毎週見る視聴者に、より楽しんでもらいたい」という考え方は嫌いじゃない。ラジオ的な考え方かもしれない。

 

だから今回の企みは、毎週見る自分のようなファンからすれば「やられたなあ、面白いなあ」となるべきなのかもしれないが、早々に企みに気付いてしまった自分は「うーん、まあ、なんだろうなあ」となる。「よき視聴者」は普段からしっかり見たり聞いたりしているぶん、同じ内容を放送していることにはすぐに気づくのだ。そして同じ内容が続くことに対し、最初の数分は楽しいが、途中から完全にダレる。だってそれはただの「再放送」だから。知ってる知ってる、ってなる。自分だけだろうか。面白いものは何度見ても面白いというけど、その中身が水準に達していなければ、それは「つまらない再放送」でしかない。

 

もちろん今回の場合は後藤と斎藤という違いはある。あるけども基本的に芸人が取り得る行動はそんなに変わらず、後藤と斎藤が違うから(あるいは台本に忠実に動いてくれる女優が違うから)何なのだ、という気持ちにしかならない。せめて中身が「もう一度見たい」と思わせてくれる出来だったならば、と思う。

 

そして自分が必要以上にこの企みにうんざりしたのは、ラジオで「もっと酷い企み」を味わったからだ。「ファーストサマーウイカのANN0」である。

 

ファッサマの企みは「タイムリープ」だった。ある条件を満たさない限り同じことを繰り返す、というやつ。記憶に新しいタイムリープ番組といえば、霜降り明星粗品がR1優勝の賞品である冠特番にて、粗品のこだわりをしこたま詰め込んだタイムリープバラエティを作り、自分を含めた視聴者の度胆を抜いた。あの番組はかなり完成度が高かったけども、ファッサマのラジオでのタイムリープは「最悪」に近いと自分は思っている。以下説明。

 

ファッサマのタイムリープの企みは「この夏やり残したことをやらない限り、同じ放送を繰り返す」というもの。その「やり残したこと」は「中二病の話をする」であり、タイムリープ放送をする前の週にそういう話をフリートークでしていた。これが予め仕込んでおいた伏線(フリ)となっていたわけで、それを回収するというのはそんなに悪い出来じゃないとは思う。しかし最悪なのはこれを「3週にわたってやった」ことだ。

 

タイムリープの繰り返し感を出すには、最低でも2週しなければいけないとでも考えたのだろうか。そのこだわりの甲斐もあってか「繰り返し感」はとても出ていた。そのうえ番組中に流れる曲は微妙に変わっていたり(たとえば「サマーヌード」が「ENDLESS SUMMER NUDE」になったりしていた)、またネタコーナーはちゃんと別ネタに変わっていたりして微妙な違和感を演出していたので、けっこう入念に用意していたであろうことは想像に難くない。

 

しかしそれがなんだというのだ。こんなもん最悪だ。それ以外の部分で大して面白くもない同じトークを3週にわたって聞かされるのは拷問でしかない。さすがに善きリスナーに甘え過ぎだろ。

 

ファッサマで抜くほどの大ファンであれば、同じトークの3週や4週屁でもないのかもしれない。しかし自分くらいの「まあ聞いてます」くらいのラジオリスナーにとっては、ファッサマの同じトークを3回も聞かされるのはただの拷問だった。それでもしかし「何かあるのだろう」と思って聴いていたけども、2週目は「ただの違和感を演出したまま放り投げて終了」だったし、3週目はほとほとうんざりしながら、タイムリープの出口が「中二病の話をする」だったことに心底げんなりして最後まで聴いた。タイムリープを抜け出したことのカタルシスはなく、ただただ「これがやりたかっただけかよ」という失望とともに過ぎた。本人そしてスタッフ的には「してやったり」だったのかもしれないが、自分には「こんなつまらないオチのために3週も使ったのかよ」としか思えなかった。せめてオチでもっと何か想像を超えてくる何かがあれば「うおおおやるなああ」となったのかもしれないが、おもいっきり想像の範囲内。悪い冗談でしかなかった。

 

どうやら次回この放送の顛末がファッサマから語られるようなことは最後に残していたので、これが何か大きな別の理由(たとえばファッサマが3週の間自分に起きたことを話せないような状況になり、それを乗り切るための方策であった、とか)があればまだ許せるものの、これが単なる「タイムリープやってみたかったし、面白かったやろ?」くらいのノリによるものだったのならば、自分は番組が来年3月で終了することを祈るしかなくなるだろう。

 

脱力タイムズにせよファッサマのANNにせよ、企みそのものが悪いとは思わない。しかし企みであることに気を取られ過ぎて、その企みを抜きにしたときの単独の面白さが担保されていないことにより「素直に面白いと言えない」を通り越して「つまらない」となっちゃうのはどうなんだろう。毎回見たり聞いたりしている人たちをうんざりさせるのは何のサービスなのかな、という単純な疑問が残った今週のテレビとラジオ。難しいでさーねー。