絶え間なく注ぐ愛の名を

ナインティナインのANNが電撃復活。

 

自身の失言によって番組そのものが窮地に立たされていた「岡村隆史のANN」だったけども、翌週相方矢部が「公開説教」という形でラジオに久々に登場。その次の週も岡村のサポート役として登場。そして今週、「さすがに3週はないだろうし、そろそろひとりの通常営業に戻るんだろうな」と思っていたら、冒頭から矢部が登場。しかもタイトルコールも行われず発表があるみたいなことを言ってるので「あ、これはナイナイのANN復帰するんだな」と思ったら、案の定という形。

 

いちラジオリスナーとして、この事態は「願ってもない最高の形」であることは間違いない。

 

岡村のピンチに気持ちが離れていた矢部が助け舟を出し、そして再び一緒にラジオが動きだすなんて、ドラマチックでコンビ愛を感じるし、そして何より「どう考えても岡村ひとりのラジオより面白い」という意味で、喜ばないほうがどうかしていると思う。これを機に昔のリスナーが「また聴いてみよう」と思ったりもするだろう。

 

発表された直後のtwitterのタイムラインを見ていたら祝福と歓喜であふれていた。そりゃそうだ。騒動も一段落して、それでもなおかつ岡村ANNに注目して聴いていた人間が、この発表を喜ばないはずがない。

 

でも自分は正直なところ「ん?」とは思ったんですよね。

 

もちろんラジオリスナーとしては嬉しいことしかない。しかし、この話が「雨降って地固まる」「ピンチはチャンス」的な「美談めいたもの」になればなるほど、今回の事態の素地にある問題を、悪く言えば「利用した」ことになってしまい、単純に「それでいいのか」とは思えるわけです。

 

カズレーザーは矢部の説教の時から「コンビの問題に落とし込むのはよくない」と指摘していた。自分はこの意見を目にしたときに「まあそうなんだけど、考えられうる解決策としては間違ってないと思うし、そこは許してあげてほしいなあ」と思っていた。しかし「ナイナイのANN復活」という形に落とし込んでしまうと、カズレーザーの指摘が完全に図星ということにならんだろうか。

 

「ナイナイのANN」が復活した大きな理由として「ラジオがやりたい岡村を今このまま一人でやらせるわけにはいかず、ブレーキ役が出来るのは矢部をおいて他ない」というのはわかる。「こうなった以上、岡村隆史のANNが終わるか、ナイナイのANNになるかどちらかだ」と矢部は思ったという。だから事態だけ見れば美談の側面が強くなるが、その実は「やむにやまれぬ事情」であることも分かる。

 

けどやっぱり事態を遠くからぼんやり見れば、岡村の失言をナイナイラジオ復活という美談に「すり替えた」と思われても仕方ない気がします。本当はそうじゃないことは聴けば分かるし、調べれば分かる。しかしここで最大に配慮すべきは「そうじゃない人たちにどう思わせるか」だったんじゃないのかな?

 

「善きリスナー」はこんな説明しなくてもちゃんと聴くしちゃんと理解できるし、それらをひっくるめて嬉しいに決まっているのだ。しかし今回の問題がDJとリスナーという内側の関係を過信しすぎ、そうではない外側に大きく伝播したからこそ起きた問題であると考えるならば、今回の「ナイナイANN復活(を喜ぶという態度)」は外側にどう伝わるのだろうかね。もし自分が本気で今回の問題に怒っている人だったならば、やっぱり「なんだそれ」って怒ると思うのです。

 

矢部は公開説教の際に「岡村の発言を許容した空気はスタッフのせいでも、リスナーのせいでもある」という旨を述べた。今回の復活劇はどうだろう。スタッフは涙ぐみ、リスナーは歓喜する。これって矢部が指摘した「空気」そのものじゃないのか。そりゃ素直な気持ちになればこういうことになるって。周囲から愛されているから岡村はラジオを続けられてきたわけだ。しかし「それがいかん」の流れから矢部が復帰することになってまた同じ空気出されたら、「善きリスナー」ではない人たちからすれば怒りの対象にしかならんというのは、気付くべきであり最大に配慮するべき点ではなかったのか。

 

今回の復活劇、自分は「おお!」と思う反面「これを素直に喜べるほどのリスナーではないな」と感じました。今回の騒動で学ばなければいけなかったのは、何も岡村だけではないはずだ。