テレビ疎外感

「新春テレビ放談2020」を見ましたが、例年のごとく共感できる部分が薄かったです。

 

自分もそれなりに「テレビを見ている人」だとは思うのですが、なぜかあそこに出てくる人たちの意見とあまり合う部分がないのです。しかしあそこに出てくる人たちはいわゆる「テレビのど真ん中」にいる人たちであり、彼ら彼女らの意見に賛成できないなんてことは「テレビの見方として間違っている」と言われているような気がしてならないのです。なんだか好きなテレビからNOを突きつけられている気分にはなります。

 

結局テレビが目指しているところは「大多数の人間に支持されるもの」ですから。そうじゃないと視聴率は取れないしネットはバズらない。しかし自分がテレビのそもそもの「おかしみ」だと思っているものは「大衆におもねろうとした結果見えてくる粗さ」だとか「テレビの作り手の見え透いた意図」だとか、「画面の中にいるのに画面の外側に漏れ伝わってくる何か」とか、その類のものであり、そもそもの「テレビ好きな人」のカテゴリに入っていないとは思うのです。しかし今テレビってのはまさに「そういう人のためのもの」に成り下がろうとしており、そこに抗おうとしている人たちの集まりが「テレビ放談」なわけで、そりゃあ意見が合うわけがないですね。

 

毎回見終わったあと「自分はテレビ好きじゃないのかなあ」と思わせてくれる唯一の番組が「テレビ放談」なのですが、もう見ないほうがいいのですかね。テレビのど真ん中の話題のはずなのに、自分がそこに参加できないという疎外感。なんででしょうね。

 

 

 

伊集院光がラジオで「人を傷つけない笑いがいいという風潮、早く終わらないかな」と言ってましたが、同感です。

 

伊集院はぺこぱの漫才に触れ、「(ぺこぱの漫才は)面白くするためにはどうするかを突き詰めた結果であり、人を傷つけないことを主眼に置いているわけではないだろう」という旨を説いていた。たぶんその通りだと思う。

 

自分はニューヨークのネタが好きです。ニューヨークのネタには根底に「他人を小馬鹿にしている」底意地の悪さが見え隠れします。単に小馬鹿にするのは悪口ですが、ネタというオブラートに包めばある程度は許されるということを分かったうえで確信的にやっている本当にタチの悪いコンビです。大好きです。紺野ぶるまとかもこの類です。

 

なぜ他人を傷つける笑いがいけないのでしょうか。そりゃあ人種差別とかは良くないですよ。しかし「バカな奴をバカと言ってバカにする」ことはそんなに悪いことなのでしょうか。バカな奴がバカと気付かないまま生活しているほうがよっぽど悪いし迷惑です。それを直接言われることなく、客観的に他人にはバカに見えているということを芸人のネタから間接的に気づかせてくれるというのは素晴らしくないか。少なくとも自分たちにはお前らがこんな風に見えているからな、というメッセージじゃないか。

 

ただまあテクニック的なものは必要で、バカリズムなんかも相当底意地の悪いことをやっているのだけど、見た目とテクニックである程度誤魔化されている。ニューヨークは嶋佐の目つきが凶悪だし、屋敷の顔が「人を小馬鹿にする顔」なので、完全に損している。けどやっていることはそんなに変わらない。バカリズムのほうが巧妙でより悪魔的なのに、全然批判されない。恐ろしい。

 

「他人を傷つける笑いに批判が集まる」ってのは、「その他人と称されるバカに含まれるバカがたくさんいて、その自分をバカにするな」ってバカが吠えているだけだと思うのです。こんなことを書くと「本当のことを書くな!」と吠えるバカがまた沸くと思うのですが、この文章を正しく読める方はその「バカ」に入っていないから大丈夫です。まあこうやって書いても怒るバカがいるんですけどね。そこがバカだって言ってるのに。

 

 

 

 

 

これで自分が「新春テレビ放談は自分のことを傷つけたから放送を中止しろ」だなんて言ったらバカみたいでしょ?そういうことなんだよな「他人を傷つける笑い」を批判している人って。それを笑ってるんだよこっちは。しかしそれも許されなくなる疎外感。どこに向かうんだろうなこの閉塞感は。