地続き

教師間のイジメ問題に関して、他人とはうっすら違う感情を抱いております。

 

大前提として「そりゃあイジメは悪いし、イジメられていたほうはたまったもんじゃない」ことは当然です。被害者のほうからすれば憤懣やるかたないのは誰だって分かること。本来イジメを防止するために奔走しなければならない立場の人間がイジメを行っていたというのは、やはり恥ずべき事態であるとは思う。

 

しかし、この報道の世間の受け止め方が「教師失格の特殊な極悪人がやっている」という感じになっていて、自分はちょっと怖い。だってこれ、「教師」というフィルターを除けば「社会人の同僚に対するイジメ」でしょ?こんなもんどこかしこで行われていることじゃないのか。極悪人じゃなくたってイジメはする。むしろ普通の人間関係からイジメは起きてくるわけで。

 

この一連の報道を見て「被害は我が身に起こりうることだろうし、逆に自分も加害者の立場にならないように気を付けなければなあ」とは思えど、「こんなクズ人間は教師の資格なし!いますぐ名前と顔を出せ!クビ!」とか、とてもじゃないけど言えない。もちろん直情的な感情でたいして考えてはいないんだろうけど。ただそんな考慮もなしに叫んでいる人を見ると「ああ、こいつは将来被害者にも加害者にもどっちの立場にもなりうる人だなあ」と自分は思えてしまう。だって、想像力が足りていないんだもの。

 

誤解をおそれずに言えば、自分だって加害者にも被害者になりうると思う。それは現在進行形で誰かに暴力を振るっているわけでもなく、また集団で激辛カレーを食べさせられているわけでもない。しかし、今後どちらにもならないという確証はない。「今そうじゃないから、今後もそうならない」というのは想像力の欠如で驕りである。自分だって何のきっかけで暴君化するか分からないし、何がきっかけでセクハラメールを打つかは分からないのだ。

 

しかし加害者側を糾弾する人たちは決まって「自分はそうじゃないし、そうはならない」という自信に満ち満ちている。少なくとも自分にはそう見える。まるで、自分はその世界とは全く無縁の人間であるかのように。もちろん教職という狭い世界で捉えれば無縁の人も多いんだろうが、「社会人の人間関係」という世界で捉えれば無縁な人などどれくらいいるのか。

 

その自信はある意味羨ましくもあるけど、一方では物凄く怖い。「自分はそういう立場にならない」という自信があるがゆえに、最終的に「そういう立場になっていても気付かない」ってことにならないか。それって結局、今回のケースと同じじゃないのか。かわいがっていただけ。イジメとは思っていなかった。どこが違うんだろう。

 

念のためもう一度言うが、イジメは悪い。そりゃそうだ。しかし加害者を居丈高に集団で批判するその態度は、結局批判しているイジメと地続きのメンタルじゃないのかね、と自分はうっすら思ってしまう。教師じゃなければいいのかな。そんなことないと思うけど。