目くじら立てんなよ

大学の入学式や卒業式のスピーチなんて覚えてない。

 

これが自分の人生において何を意味するのか。答えは簡単。何も意味していないのである。「ああ確かに何か言っていたんだろう」とすら思い出せない。果たしてそんなスピーチは本当にあったのかすら怪しい。入学式は高校の同級生を見つけてははしゃいでいたし、卒業式はもはや何やったかも覚えていない。卒業式に出た気はするけど、それくらいなもんだ。

 

だから近畿大キングコング西野が何喋ったとか、非常にどうでもいい話なのである。どうでもいいと思わないだろうか。自分は思う。その内容が何であれ、このスピーチが人生の糧になる人は極めて珍しい「そういう人」なのだ。自分のように「何の糧にもならない人」が大半(だと思う)のこの世界で、何をスピーチに何喋ったかを真剣に議論してるんだか。バカじゃねえのと思う。

 

キングコング西野は人生を時計の長針と短針に喩え、この二つが重なるときを「人生の幸運」、1時間のうちに一度も重ならない11時台を「我慢の時」と表現する。いかにも、な話ではあるがキングコング西野は「いかにも」な話を並べて自分の好きなことをやっている人なので、そういう話にしかならない。まあ大学を卒業するくらいの年齢であれば西野の話に強烈に感銘を受けるかもしれないし、自分のようにハナクソほじって「おお、やってんなあ」と思うかもしれない。話はそれで終わりである。

 

第一大学の卒業スピーチなんて頼まれたら何喋るよ。キングコング西野だからこんな話でなんとなく成立させてしまうことができるのに、そうじゃなければ何話すよ。まず西野の話の胡散臭さを批判している人は「自分だったら何喋る」って考えてみてほしい。胡散臭い話がいかに耳触りがいいか。別に中身なんてどうだっていいんだって。殆どの人は聴いてないんだから。じゃあなんか自分が悦に入るようなうっとりしたこと喋ればいいんだよ。西野は間違ってない。

 

西野だから悪目立ちしているだけで、そうじゃなかったら殆どの人の記憶の断片にも残らないようなことを、何を騒いでいるのか。大学のスピーチなんぞ聞き流して忘れてやるのが礼儀だろう。「すげえ」とか「胡散臭い」とか言ってやるなよ。西野が「すげえ」ことも「胡散臭い」ことも今更なのに、いちいち目くじら立てんなよ、と思う。