冒涜とかじゃなくて

内田裕也が逝去。

 

別居を続けながらもずっと夫婦であった樹木希林が亡くなってわずか半年。後を追うように夫であった内田裕也も亡くなった。

 

このニュースを見たとき、自分は「ああ、亡くなったのかあ」と思った。「なんだそのぼんやりとした感想は」と思われたかもしれないが、全くもってその通りである。悲しいことに仕事が多忙ゆえ寝不足がたたっている。本当はこんな文章書かずに早いとこ寝るのが正しいんだけども、なぜかよく分からないけども指が動いている。そんな寝不足の頭から出てくる感想なんてこの程度である。

 

しかし自分が体調万全の状態でこのニュースを見たら感想は違ったのか、といえばそれはおそらくNOだ。いかに自分が元気であろうとも「ああ、亡くなったんだなあ」くらいのレベル。語尾に少し勢いがありますね。

 

ではなぜ自分は内田裕也に対してこんなに淡白なのか。理由は簡単。「そりゃ内田裕也ロックンローラーでありお騒がせな大物であることは知っているが、それが自分の実感としてあまりない」からに他ならない。いくら「ロックンロール」という決め台詞が自分の中で分かっているとはいえ、それが「内田裕也すげえ」には繋がらない。つまり自分には内田裕也は「そのくらいの認識の人」なのである。

 

もちろん自分より上の世代の人では、内田裕也を神と崇める人がいたとしてもなんら不思議ではない。そういう人が今回のニュースで内田裕也の死をえらく悼むことがあってもそれはそれでいい。しかし自分はそうじゃない。自分を正当化しているわけではないが、世代と言ってしまえばそれまで。

 

なんでこんなことを書いているのかといえば、この内田裕也逝去を報じるニュース番組が、街行く人にインタビューで「内田裕也さんが亡くなりました」と聞くわけです。すると自分と同い年くらいかそれより若い人が「残念ですね」とか「知らなかった」とか言うわけです。まあ「知らなかった」は仕方ない。しかし、「残念ですね」って本当に思っているのだろうか。

 

いやもちろん自分だって一応そこそこ生きているので、それが「礼儀的な弔いの言葉」であることは分かっている。そんなこと大して思っていなくても言ってしまうのだ。しかしその「大して思ってもいない弔いの言葉を捧げて、大して考えてもいない内田裕也に対する思い入れを語るインタビュー」が流されるのってどんな気持ちになるんだろう。

 

インタビューを取るほうは「そういうコメントが欲しい」ゆえにインタビューする。インタビューされるほうは「ウソではないけども礼儀的なお悔みを述べる」わけで、そこに悪気や冒涜はない。たとえ興味関心がなかった場合に「へえ~、そうですか」で終わるインタビューは流されないからこそのこれ、なんだろうけど、とってもぼんやりした気分になる。これは寝不足のせいではないと思う。

 

ただそんな全てのもやもやは、「ロックンロール」の一言でかき消される。便利な言葉だ。思い入れはない。しかし合掌。